第267話 恐怖に落ちた帝王

常に美しいはずの天使。その天使は今、僕の目の前でゲラゲラと醜く笑っている。真っ白い髪を振り乱して、真っ赤な目を見開いて。


『バッカッだよなぁ! アンタ、悪魔なんだよ? 天使なんか喰ってぇ、体に毒だよ? ぎゃっはははは!』


ベルゼブブは咆哮を上げてイロウエルを喰い散らかす、イロウエルは笑いながら、再生しながら、僕に向かって吐き捨てた。


『ナハトファルターが本命なんだよ! シュメッターリングほどプライドが高くなくて扱いやすいからさぁ、奴隷としての人気は最高なんだよなぁ! アンタらがシュメッターリング見に行ってる間にぃ、とっくのとうにぃ、船は出てんだよぉ!』


イロウエルは両足を引きちぎり、ベルゼブブに投げる。

ベルゼブブがその足に喰らいついたその隙に翼を広げ、空に舞い上がる。


「ま、待て!」


『待てと言われて待つバカはいねーよバーカ! ぎゃっははははは! ばーいばーい? ひゃはははは!』


下卑た笑い声を上げながら、イロウエルは空の彼方へ姿を消した。

イロウエルが離れたからか、ウェナトリアとアルが正気を取り戻す。


『……情けない所を見せた』


「一歩も動けないなんて……最初から間に合ってなかっただなんて!」


「落ち着いてください、まだ間に合いますよ。渡航先を何とか調べてそこで取り返せばいいんです」


「そう、だな。あぁ、こんなことになるなんて……」


空から船を追うか、適当な国連加盟国に押しかけて船の行き先を聞き出すか。

そんな思索を巡らせていたその時だ、背後で身の毛もよだつ咆哮が轟いた。


「……べ、ベルゼブブ? どうしたの、早く人に戻ってよ」


人の形をしていなければ会話が成立しない。

頭のいいベルゼブブには是非とも作戦を考えてほしいというのに、ベルゼブブはまだ真の姿のままだった。


『駄目だ、正気を失っている。ヘル! 力を使え!』


「え……で、でも、それなら、僕が言っても聞かないんじゃ……」


『いいからやれ! ここで暴れられたら島が消えるぞ!』


「わ、分かったよ。ベルゼブブ……僕に従え、人の姿に……戻れ!」


僕の叫びに咆哮で応え、ベルゼブブは僕に向かって突進する。

アルに引き寄せられ、直撃は免れたが擦れた腕からは皮膚が消えた。


『ウェナトリア、何をしている! 貴様は二人を連れてここから離れろ!』


「あ、ああ、頼んだ!」


ウェナトリアが姫子とツァールロスを抱えて離脱する。

ベルゼブブは地面に顔を擦りつけ、咀嚼音を鳴らしていた。


「な、何食べてるんだよ……」


『菓子だ。分からんか? そこら中から甘い匂いが発せられている』


アルの言葉に周囲を見回す。

確かに、砂糖のようなチョコのような甘い匂いが漂ってきていた。

木の幹はてらてらと輝き、木霊はどこにも見えない。


『ヘル、もう一度だ。もう一度力を使え。島ごと菓子に変えられて喰われるぞ』


「だ、ダメだよ。まず正気に戻さないと」


命令では駄目だ、もっと何か──ベルゼブブの恐怖を和らげる何かを。


「ベルゼブブ! 聞いて、ここには何もいないよ。怖いものも何もいない、僕とアルと君しかいない。何がそんなに怖いのさ、君は悪魔の中で一番強いんだろ? そんな君が、負けるわけないじゃないか」


イロウエルに与えられた恐怖を、過去の忌まわしき経験を、今の自信で塗り潰す。


「君は強い! 一番強い! 何も心配なんていらない、怖いものなんて何もない!」


右眼が痛む、魔物使いの力は確かに発動していた。

言葉だけでは意味がない、言語を理解しない今のベルゼブブに聞かせるには、心の底まで届く魔力が必要だ。


「君 に 怖 い も の な ん て な い !」


喉が張り裂けるような絶叫、声が裏返って気持ちの悪い声になって、だからこそ叫びは届いた。


「……ベルゼブブ、人 の 姿 に 戻 れ」


真の姿は魔力の消費が大きい、魔界ならともかく人界で長くこの姿をとるのは危険だ。

どこか獣を思わせる蝿の姿が陽炎のように歪む。

蝿が消えて、その後に立っていたのは年端もいかぬ少女。

王冠をモチーフとした髪留めに、長い触角に四枚の翅。

僕の見慣れたベルゼブブがそこに居た。


『取り乱しました、申し訳ございません』


気恥ずかしげに頭を下げるベルゼブブを抱き締める。

冷たい体を暖めるように、力強く抱き締める。


『な、ちょ……もう、大丈夫ですよ? 暴れたりしませんから』


「…………うん、よかった」


『失態ですね、イロウエル如きに……』


「もう怖いものない?」


『怖いものなんて元々ありません。一度負けたから嫌いなだけで、ついこの間に殺しましたから』


得意気な顔に本当にもう大丈夫なのだと安心する。

じっとベルゼブブを抱き締めたまま、アルにウェナトリア達を呼び戻すよう頼んだ。



元の六人で円になり、話し合いが始まった。


「どこに売られるんだろ」


『国連加盟国でしょうね』


『筆頭は正義の国だが、あの国に乗り込むのは避けたい』


「加盟国のどこかで航路やらを調べられないだろうか」


「人売りの船なんて紙に残さないだろ」


「ロージー……お姉ちゃん……」


姫子は泣きそうな声でそう呟き、膝を抱えて蹲る。

ロージーは親友だったが、姉というのは……血は繋がっていない上に実の親を殺させたようなものなのに、それでも姉と慕っているのか。


「あの、いなくなったのって何人くらいなんでしょう」


「ナハトファルター族は全部で三十人、子供達は島の中心近くで開いている授業に通っている。大人だけと考えれば十三人、姫子を抜いて十二人だ」


『子供多くないですか』


「子供達は侵略者が現れた時からモナルヒに預けている、全種族がな」


「十二人かぁ……」


何十人を取り返す、なんて話でなくて安堵した。

だが十二人という現実的な数は絶妙に僕の自信を失わせる。


『で、どの国に行くんです? 国連加盟国なんてどこも天使がいますよ』


『航路を調べるにしても、旅行者にそんなものを教えてくれる国なんてあるのか?』


天使、航路。この二つの問題をどうにかしなければ──いや、問題が無い国もある。


「……牢獄の国」


「うわ、悪そうな名前」


「ロージーとお姉ちゃん、そこにいるの?」


ツァールロスと姫子が揃って僕を見つめる。


『ああ、そういえばあの国って天使いないんでしたっけ。ルシフェルが別の場所に移った今もそうかどうかは知りませんけど』


『……ふむ、あの国には恩を売っている。航路程度なら二つ返事だろう』


「航路程度、ね。奴隷商船もそうか?」


ツァールロスの意見はもっともだ。国を救ったとはいえその相手に闇の部分を見せてくれるかどうかは分からない。

だが──


「手がかりありませんし、僕にはこれしか思いつきません」


「……十分だよ。行ってみよう」


ウェナトリアはそう言って立ち上がったが、僕は不安だった。

僕なんかの稚拙な思いつきで、一刻を争う問題に対抗するなんて……と。

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