第240話 何度目かの再会
滅茶苦茶に荒らされた部屋を見回し、肩にへばりついた黒く粘着質な液体を剥がす……りりっと鳴いた気がした。
「……ありがと」
『いえいえ、お体は大丈夫ですか?』
「うん、一応治してくれたみたいだから。にいさまはどこに行ったの?」
兄に付けられた無数の傷はもう癒えていた。
痛みは思い出すことは出来るが、感じはしない。
『さぁ? 空間転移の魔法を使ったみたいですよ』
「……珍しいなぁ、自分から離れるなんて」
『面倒な兄君をお持ちで、心中お察ししますよ』
兄の腕だった液体はもう動かない。
何をどう思い出しても、兄が怒った原因が分からない。
「何も分かってないくせに、そんなこと言わないでよ」
『常套句というやつですよ、本気にしないでください。私は貴方様の心を察する気なんてありませんから』
「…………そう、だろうね」
ベルゼブブに八つ当たりしたって仕方ない。
彼女は悪魔なのだから、少しくらい気を遣えなんて言ったって無駄だ。
それより兄が怒った原因を知らなければ。
「ねぇ、にいさまはどうしてあんなに怒ってたの?」
『覚えてないんですね。まぁ貴方様は寝ていましたからねぇ』
「君、何か言った?」
『私が言ったなら貴方様が殴られる謂れはないでしょう。貴方様の寝言が原因ですよ』
ベルゼブブへの魔法の流れ弾が、なんて希望的観測はやはりと言うべきか外れている。
「寝言? 僕何か言ってたの?」
『ちゃんと聞いてはいませんけどね、「アル」とか言ってましたっけ?』
「…………アル」
アル、アルは今どこにいるのだろう。
無事だろうか、痛い目にあってはいないだろうか。
寂しがってるかな、そうだといいな。僕に会いたがっているといいな。
『知り合いですか?』
「……うん、僕の、大事な人」
『へぇ、嫉妬ですかね』
兄がアルを嫌っているのは知っている。
だけど、僕がアルを大切に思っているのは兄も知っているはずだ。
今更、少し言っただけで、どうしてあんなに怒ったのだろう。
「意味分かんない」
『大変ですねぇ、でもま、分からなくもないですよ?』
「……何が?」
『眠っている間というのは最も無防備な時間です、その時を自分の腕の中で過ごしている。その喜びはいかほどのものか』
「……寝てたら、殴られないから、今のうちにって」
眠っている兄は当然の事ながら僕に暴力を振るわない。
何も言われず、ただ体温を感じられる。愛されていると錯覚できる。
僕にとっても至福の時間だった。
『わざわざ腕の中に入ってきて寝ているんです、そうしたら「この子が一番好きなのは自分だ」という考えになるでしょう? なのに、貴方様はここにいない者の名を呼んだ』
「……僕が、悪いって?」
『まさか! ただ、彼の思考回路を予想しただけですよ』
ベルゼブブはわざとらしく両手を広げ、その四枚の翅をパタパタと楽しげに揺らす。
「……そうだよ、全部僕が悪いんだよ。僕が全部……何もかも、僕が、出来損ないだから。だからにいさまは……」
『聞いてます? まぁ、いいでしょう。他罰的よりは自罰的の方が、好感は持てますし同情も誘えます』
ですが──と、ベルゼブブは僕の顔を覗き込む。
『過ぎてしまうと、鬱陶しい。何事も程々に、これは大切ですよ』
自分を責めるのも程々に、か。
確かに何を言っても自分を蔑むような奴、鬱陶しくて仕方ないだろう。僕なら手を切ってる。
だが、やめろと言うのは無理な話だ。
「……本当に、にいさまどこに行ったんだろう」
『私には分かりかねます』
八つ当たりに人混みで暴れたりなんてしていなければいいが、その可能性は高い。
早く見つけた方がいいな、そこまで考えて頭を抱えた。その方法が全く思いつかなかったから。
兵器の国、の跡地。
呪いに侵された死した竜は、微かな振動を感知した。
だがそれよりも、目の前にいる男の方が重要だ。
『……少し、大人しくしててもらえる? 人を──いや、獣を待つだけだから』
竜が生前唯一主と認めた少年の兄、竜の怒りの矛先。今は人ですらないスライムのような化物。
『やっぱりダメ?』
咆哮を上げ、翼を広げる竜。
その背後に大穴が開く。
地面には紫電が走り、吹き飛ばされた瓦礫が雲を消した。
『……エア、何だ、上にいたのか』
突然現れたトールに、魔界に落としたはずの者達の集合に、竜は僅かに後ずさった。
怒りに満ちて呪いに支配されていようと、本能で強弱は分かるのだろう。
『やぁ神様、あの犬は?』
『ここに』
トールに続いてアルも穴から飛び出す。アルはエアの姿を見て唸り声を上げた。
『やぁ犬っころ、元気だった?』
『……ヘルは』
『元気だよ、それに……君をお望みだ』
意図の読めない言動にアルは戸惑い、その一瞬の隙を衝いて、エアは魔法陣を構築した。
それは空間転移のものだった。
兄がどこに行ったのか見当もつかない、大して良くもない頭を捻ったところで、何の策も出てこない。
深く深く息を吐くと、ベルゼブブに腕を掴まれ、背に庇われる。
「ど、どうしたの?」
『……強力な、神性が』
ベルゼブブが睨む空間に魔法陣が浮かび上がる。
そこから現れたのは、兄と、トールと、そして──アルだった。
「……アル!」
駆け寄ろうと飛び出すが、ベルゼブブに腕を掴まれ引き戻される。その力は僕よりも小さな少女の姿には似合わない。
「は、離して、アルが……」
見開かれたベルゼブブの目を見て、僕は言葉に詰まった。
最大級の警戒と威嚇、そこに僅かな怯えを孕み、トールを凝視し続けている。
まるで少しでも目線を外せば殺されてしまうような、そんな緊張感があった。
『ヘル! 無事か? 怪我は? 大丈夫か?』
僕の足元に駆け寄ったアルを見て、我に返る。
膝をついてアルの頭を抱き締めて、何度も名を呼んだ。
『それが欲しかったんだろ? ヘル、どう? 嬉しい?』
気がつけば、兄も僕の傍に来ていた。感情を無くした瞳で口だけを笑わせる、痛々しい表情をしていた。
「……うん、嬉しい」
『そう、それはよかった……うん、よかった』
自分に言い聞かせるように繰り返しながら、兄は僕の頭を撫でて、昔のように微笑んだ。
『…………それじゃ』
「え? ま、待って!」
掴もうと伸ばした手は空を切る。
先程と同じ魔法陣を展開し、兄は姿を消した。
『エア? どこに行った?』
トールは周囲を確認しながら僕に尋ねる、黙って首を振ると、残念そうに目線を下げた。どうして彼が兄を気にしているのか、理解出来ない。
その上トールはベルゼブブのことを気にしていない、気がついてはいるはずなのだが、視界には入っていない。
最強の悪魔の剥き出しの敵意と警戒心ですら彼の脅威にはならないということか。
『仕方ない、探すか。じゃあな』
無愛想なまま手を振り、窓を割って出ていく。
トールの気配が完全に感じられなくなると同時に、ベルゼブブはその場に座り込んだ。
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