第239話 悪いのは誰?

話をしているうちに、かくんと首が揺れる。

ここ数日ろくに休めていないのだ、睡魔に勝てるわけがない。


「……眠い」


『おや、そうですか。膝枕でもしましょうか? 腕でもいいですよ』


「んー……」


半分ふざけたベルゼブブの声にも生返事をするだけ。


『本当に眠いんですね、全くこれだから人間は』


「んー……」


いくら目を擦っても、眠気は取れない。


『せっかくの美しい眼に傷がつきますよ』


「んー……ねむい」


柔らかくどこまでも沈んでいくようなソファも手伝って、視界はどんどんと狭くなる。

ベルゼブブの申し出に甘えてしまおうか、なんて考えた時だ。

床に転がされている兄が目に入った。


「…………にいさま」


ふらふらと兄の横に移動して、倒れ込む。


『フラれましたか、毛布でも持ってきますね』


ベルゼブブの足音を聞きながら、兄の腕に頭を置く。

もう一方の腕で体を包み、抱き締められるような体勢になる。

静かで温かな兄の愛情を作り出し、それに酔う。

そこはかとない寂しさを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。





目を覚まし、一番に見えた人影に悪態をつく。


『気持ちの悪い虫野郎、ここがどこか言ってくれる?』


『起きたんですか、魔法使いさん。ここは娯楽の国ですよ』


蝿の翅に触角、それも気持ち悪いけれど一番は瞳だ。

無数の眼が集まった──複眼、とかいう。アレを見るとゾッと背筋が寒くなる。


『なんでそんなとこに……』


『魔物使いの命令です、安心安全の住処に飛ばせていただきました』


魔物使いの言葉に弟を探す、と、腕の中に見つけた。

珍しく安らかな寝顔で、僕のシャツを掴んで胸に顔をうずめている。


『…………ヘル、何でここに』


『眠いって言ってそこに寝転んだんですよ、ソファがあるのに』


『僕の隣に?』


『ええ、仲がよろしいことで』


頬に触れると、弱々しい吐息が漏れた。

奇妙で背徳的な喜びが心を満たす。

………………可愛い。


『そういえば、まだ魅了の術教えてもらってないな』


『なんですか? それ』


『あの淫魔と約束したんだよ』


『魅了なんか使いたいんですか? 変わってますね、好きな子でもいるんですか?』


悪戯っ子のような笑い方で、僕の顔を覗き込んでくる。

不愉快だ。帝王だかなんだか知らないが、その座は僕に譲るべき場所だろう。


『ヘルに使いたいんだよね』


『変態ですね』


『……はぁ?』


『小児性愛の趣味がおありで? 別に貴方の趣味なんてどうでもいいですけど』


『ないよ、そんな趣味。弟に好かれたいってのはまともな思考回路だと思うけど?』


『手段が問題なんですよ』


この悪魔と話していても腹が立つだけだ、次からは話しかけられても無視をしよう。

そう決めて、ヘルを愛でる作業に戻った。


耳にかかった柔らかな髪をどかし、小さな耳を指で挟んで弄ぶ。眠っていてもくすぐったいのか、ヘルは耳を手で隠してしまった。

仕方なく頭を撫でると、少しだけ表情が和らいだ気がした。だが、勿体ないことに黒と白の混じった髪は顔を半分ほど隠している。

ヘルの頭に下敷きにされている腕の痺れも気にならない。自分でも珍しいと思う、こんなに優しく触れたのか、なんて驚きもした。


『そのうち服の中に手突っ込みそうですね。あ、下の方は流石に人間性を疑いますよ』


『…………死ね』


『否定も肯定もせずに暴言を吐くとは……なかなかに悪魔的ですね、貴方』


もっとちゃんと顔を見ようと前髪を頭頂部に向かって撫でつける。

光を遮るものが減って眩しくなったのか、ヘルは少し床に顔を傾け、僕の胸に頬を押し当ててしまう。

これでは顔が見えない、肩を掴んで仰向けにひっくり返す。

触られすぎて眠りが浅くなったのか、ヘルの口が微かに動く。


「ぃや……」


また横を向き、今度は両腕で顔を隠す。

その仕草が可愛らしくて、微笑ましくて、頭を撫でた。

顔を見るのは諦めるかと、抱き寄せた。

そんな穏やかな心は、ヘルが次に紡いだ言葉に引き裂かれる。


「……アル」


自分でも驚いた。

こんなにも素早く動けたのかと、たった一言でこれだけ心を乱されるものなのかと。



気がつけば僕の手は真っ赤に染まっていた。

壁紙は剥がれて家具も壊れて、部屋は信じられないほどに荒らされていた。知らないうちに別の部屋に移動したのかと思うほどに、滅茶苦茶に。

僕の呼吸も異常なまでに乱れていた、初めて息が苦しいと思えた。

喉を鳴らしながら、僕の前にぼうっと立っている悪魔を睨む。


『凄いですね、流石の私も引きますよ。ええ、ドン引きです』


『……僕、何したの』


『…………早く治してあげた方がいいんじゃないですか? 死にますよ?』


僕の足の下には、弱々しく呼吸をするだけの赤い塊があった。

慌てて抱き上げて、治癒魔法をかけて、名前を呼ぶ。


『ヘル! ヘル……あぁ、ごめん』


初めて知った。

自分の所有物の好意が他のものに向いただけで、逆上するなんて。

何を思っていてもいいから、何を考えていてもどうでもいいから、傍に置いておくだけで満足していたはずなのに。

物に心なんてあるわけないと思っていたはずなのに。

物の心なんて要らないと思っていたはずなのに。


『ごめんね……ヘル』


きっと生まれて初めてだろう、心の底から謝罪したのは。

ああ、確かに酷いことをした。

謝るべきだ、これは僕の失態だ。

だが、だけど、それでも、この事態を招いた原因は。


『でもね、ヘルが悪いんだよ?』


僕が我を失って怒り狂ったのは、ヘルが僕以外に感情を向けていたからだ。

どんな感情であれ、僕以外に向けるのは許さない。

それが愛情であるなら尚更だ。

感じ取っているのと、言葉を聞くのでは重みが違う。せめて声に出さなければ、僕もここまで痛めつけたりはしなかっただろうに。

ヘルが悪い、そうだヘルが悪いんだ。僕の機嫌を損ねるヘルが悪い。僕を怒らせたヘルが悪い。


『ねぇ、ヘル。ヘルも反省してね、分かってるよね? ねぇ……ヘル? お返事は?』


ヘルの傷はもう全て癒した、目もしっかりと僕を見ている。

だというのに、返事がない。

それどころか、ヘルはまた僕以外のものを見た、話しかけた。


「……ベルゼブブ、助けて」


『はーい』


切り落とされた腕と離れていくヘルを見ながら、僕は魔法陣を展開した。

僕に対して何の感情も向けていないヘルという見たくないものが見えなくなるのに、そう時間はかからなかった。

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