第211話 稲光と黒炎
格子を殴り続けたせいだろう、関節部分の皮が剥がれて手の甲に血が垂れてきた。
鮮やかな赤を見て僕の頭が少し冷やされる、ローブにかけられた魔法のおかげで痛みはないし、もう傷口もない。
血を拭えば髪の毛ほどの傷もない肌が見えた。
「……出してよ。アルに、会わせてよ」
膝を曲げ、座り込む。
正座の体勢になって、今度は頭を格子にぶつけた。
「出せ、出せ、出せ、出せ……」
一瞬、瞳に鋭い痛みが走る。
「……いっ、たぁ……」
ローブの魔法は? まさか効果が終わったのか。
見た目では残りの魔力量など分からない、兄ならば分かるのだろう。
僕には無理だ。僕は、何も出来ない。
何も出来ない?
僕に出来るのは、僕の力は──魔物使いだ。
僕をここに閉じ込めたのは、悪魔。
魔物だ。
立ち上がって両手を上に掲げ、目を見開いて集中する。
真上に居るはずの王を狙い、怨みを込める。
「僕に従え、僕に降れ、僕に跪け」
右眼の痛みが酷くなっていく。
先程の痛みを「針で刺されるよう」と表現するなら、今は「万年筆でほじくられるよう」だ。
悪魔の王など遥か格上を操ることなど不可能なのに、僕は痛みに耐え続けた。
「出せ、出せよ……ここを 開 け ろ !」
心の底からの絶叫が檻の中に響く、視界の端で蠢いた白い物体はミカだろう。
突然の騒音に思わず身を起こしたミカだ。
僕にはそんなことどうでもよかった。
ここから出て、アルにもう一度会えるのなら何もかもどうでもよかった。
右眼からぽたぽたと液体が落ちる、左眼でその液体を確認する。
赤い。
涙──ではない、血だ。
瞳から流れる液体なんて、涙以外は許されないだろうに。
右眼はもう何も映さない、その代わりなのか格子が歪んだ。
人一人通れるほどの楕円形の穴が開いた。
『すごい……サタンをいちぶとはいえあやつるなんて!』
「サタン……って?」
『さっきの、ほら、えらそうなやつ。悪魔のおうさま』
「ふぅん……そいつを今操ったの?」
『あやつったのはまったんのまったん、かみのけのさきくらいだけ』
檻から出た途端に元気になったミカは、そのまま解説を始めた。
『このおりは、ううん、このしろは、サタンのまりょくでつくられてる。だから、そのまったんにきみはかんしょうしたんだよ、すごいことだよ』
「末端末端言われると馬鹿にされてるみたいでなんだけど」
『してないよ、ほめてる』
「……どうも」
ミカの好感度を上げる? 機嫌をとる? ゴマをする? もう全てに意味が感じられない。
ついさっきまで全力を注いでいたことに、何の興味も湧かない。
メリットが明確に示されているのに、僕の体も口も動いてはくれない。
無限に続くような道も、もう一度力を使えば縮められるのだろうか。
だとしても、僕の右眼は使い物にならない。
それが今だけなのか、これからずっとなのかは、まだ分からない。
『……ん? 今、揺れなかった?』
「……そう?」
ミカは立ち止まって周囲を見渡している。
僕はそんなミカに構うことなく、足を早めた。
走って追いかけてきたミカが僕の腕に抱きつく、仕方なく速度を落とした。
その時だ。
轟音を伴った揺れが城を襲ったのは。
降ってきた瓦礫に僕達が押し潰されたのは。
魔界に似つかわしくない閃光。
光に包まれた魔王城は土塊のように崩れていく。
『このっ……外来種が!』
玉座付近の守りを固め、サタンは城を破壊した者を目に捉えた。
その者はサタンの放った魔獣を容易く蹴散らし、空中で静止した。
『ちょっとだーりん何してんのー! ぱぱっとやっちゃってよー!』
『黙れ』
『む……何よそれ』
リリスの手を振り払ったサタンは、再び魔獣を放つ。
アルはサタンの注意が完全に自分から逸れたことを確信し、ゆっくりと玉座を離れる。
崩れていく地の底を覗き、ヘルを探していた。
『トール……か? 何故ここに来たのかは知らんが、好機だ』
生み出されては壊されていく魔獣に僅かばかりの同情を与え、アルは崩れていく瓦礫に混ざった。
一応見つからないようにと、岩陰に隠れながら。
魔獣を放ちながらサタンは冷静にトールを観察していた。
雷の性質を持っていることは明らか、今のところそれ以外の属性は無し。
武器は柄の短い槌だけで、それは生み出した魔獣を一撃で消し飛ばす力を持っている。
『……分からないのは、狙いか』
サタンには強力な神性が魔界に来る理由の見当もつかない。
今日は厄日だ、柄にもなくそう思った。
『だーりんだーりん! 何でやっちゃわないのー! さっきから様子見ばっかー!』
『黙れ、と言っただろう』
『だーりんがやらないならぁ、私がやっちゃうよ?』
『……っ、ダメだ! 下がれ、余の前に出るな!』
『何よけちー! まさか……私が女だからって舐めてるの?』
『それは違う、それだけは否定させてもらおう』
魔王城を簡単に破壊し、生み出す魔獣も一撃で消してしまう。
その上未だに全力を出しておらず、考えの予想もつかない。
自分が混乱している状態で、リリスを前に出す訳にはいかない。
『紳士だな』
トールは嘲りでも煽りでもなく、ただ単純な感想を伝えた。
だがサタンにはその言葉が罵倒に聞こえた。
『リリス……もっと下がれ。"余"が巻き込む』
『え? なーんだ、そういうこと? ならそうと言ってよー!』
玉座の後ろに隠れ、あざとく耳を塞ぐ仕草をするリリス。
サタンはそれを確認し、両の手のひらに魔力を溜める。
『ああ、そうだ。桃は好きか?』
『……は?』
『缶詰を持ってきていてな、少し焦げてしまって……あれ? ない』
トールはエアに与えるつもりでいた空っぽの缶詰をサタンに見せる。
城を破壊した時に中身を落としたのに気が付かなかったのだろう、不思議そうに缶詰を覗いている。
『ふざけているのか? 貴様』
『いや? 大真面目だが』
『もういい、時間はたっぷりと貰った』
十二分に溜められた魔力を焔に変え、打ち出す。
浮遊した玉座付近の瓦礫を巻き込み、無事だった魔界の土地を壊しながら、焔はトールへ一直線に進む。
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