第206話 魔王の妃

女から逃げてしばらく、また地響きが起こった。

大蛇が追ってきた時とは違う、地の底から揺れている。

土は胎動し、波打ち剥がれ、鱗が露出した。

地面が持ち上がる、アルは足を止めて体勢の維持に努めた。


「……なに、これ、どういうこと」


『走っていた地面そのものが蛇、か。やってくれるな』


「なんだよそれ! そんな……こんな大きな蛇! どうしろって言うんだよ!」


『落ち着いてくれ、ヘル。最下層の地が全て蛇など有り得ん、足場もある筈だ』


「どこにあるんだよ……そんなの」


見渡す限りに蠢く鱗、波打つそれは人間の生理的嫌悪を最大限に引き出す。

視界は酷く狭いが、それでもこの蛇の巨大さと逃げることの難しさはよく分かった。

僕はいつの間にかアルの首に回した腕を外し、体を起こして蛇を真っ直ぐに見つめていた。


「はぁ……いや、大丈夫。落ち着く、落ち着くよ、僕は落ち着いてる、大丈夫」


『……ヘル?』


「出来る、出来る、大丈夫」


逃げられないなら逃げなければいい。

追いかけられなければ逃げる必要はない。

追いかける者がいなければ追いかけられる心配はない。

至極当然のこと。


『ヘル! 待て、止めろ。貴方はまだ成長途中だ、この蛇の大きさでは魔力が足りん!』


「……集中、溜めて……大丈夫、大丈夫」


『聞いているのかヘル! 止めろと言っているんだ!』


アルが僕の狙いを察して止めようとしている、だが僕は聞こえない振りをして巨大な蛇を睨んだ。

丁度良くこちらを向いた蛇と真っ直ぐに目が合う、眼球だけで僕の体の何倍もある。

また、繋がる感覚。弛んだ糸が張り詰めるような、心地良い感覚だった。


「 僕 に 降(くだ) れ 」


そう言葉を発した瞬間、右眼に激痛が走る。

反射的に閉じてしまった目をすぐに開き、また蛇を睨む。

無数の針を刺されているような激痛、それは次第に瞳から頭へと広がった。

頭蓋骨の裏を走り回られるような不快感と痛み。

ローブに描かれた魔法陣の痛覚消しは発動してないのか? 方向違いの恨みを兄に向けた。


力を使うなと叫び続けるアルを無視して、眼前の蛇に魔力を流し込んだ。

舌をチロチロと動かしながら、鈍重な動きで頭をもたげ牙を近づける蛇は、まだ止まらない。


「……僕の、言うこと聞けよっ! 僕に従え、僕に服従しろ!」


理性では抑えられない本能的な苛立ち。

僕に従わないモノが、僕の元に降らないモノが、気に入らない。

いや、許せない。

意識が飛ぶような眼と頭への痛みと共に、その苛立ちが僕を支配した。


『ヘル、分かっただろう? 無理だ、貴方はまだ完全な魔物使いでは無い。分かったら私にしっかりと掴まれ』


「アル、君さ、誰に口聞いてんの?」


『……ヘル?』


「僕に従わないヤツなんて、いるわけないだろ! 見てろよ、この蛇も今すぐ跪かせてやるからさぁ!」


『ヘル、待て! 貴方は今……』


アルの言葉を遮ったのは蛇の咆哮だった。

吼えたのは僕達を喰らおうという意思表示ではない。

これまでの主人を裏切ることへの謝罪と、それを強制させられたことへの憤りの意味だった。


『……従えた、のか。ヘル、貴方は……貴方は今、力に振り回されている。私が分かるか? ヘル。早くここを出ような、早く元の貴方に戻ってくれ』


「やっ…た、やった、はは……出来た、あはははっ……」


『そんな貴方は、見たくない』


笑いが止まらない、可笑しくて仕方ない。

僕はアルが辛そうに僕を見ているのにも気が付かず、ただ笑っていた。

力を振るって乱れた呼吸をさらに乱すその笑いは、傍から見れば気味の悪いものだっただろう。

魔力と酸素を失って、僕はゆっくりと体を前に倒し、アルの首元に腕を垂らした。


「アル……見たぁ? 僕、やったよ? ね……ほめてよ、アル……アル? そこにいるよね、アル、返事、してよ……」


アルは何も言わずに、僕を乗せて蛇の背を歩いた。

僕は疲労と単調な揺れに眠気を誘われ、完全に意識を失うまでうわ言のようにアルの名前を繰り返し呼んだ。




地面と見まごうほど巨大な蛇は、すっかり大人しくなっていた。

自らの背を走るアルを眺め、アルを上の階層へ進めようと体をよじった。

そんな蛇の前に、かつての主人であった女が現れる。


『ねぇだーりん聞いてよー、ひどいのよ、ワタシが飼ってる一番大きな蛇いるでしょ? あの子ったら、私のこと裏切ったのよ』


アルは女に気がつき、反対方向に走り出す。

だが、道は無数の蛇に阻まれる。

これまでと違って大きくはない、むしろ細いと言える。戦って勝てない相手ではない。

問題は量、そして背に乗せたヘルだ。

落とさないよう傷つけさせないように戦うのは至難の業だ。


『ねぇだーりん、私、もうこの子いらないわ』


女がそう言った直後、蛇の体が真っ二つに裂けた。

少しの時間差もなく、仕掛けもなしに巨大な蛇を頭の天辺から尾の先まで綺麗に二等分。

そんな芸当、並の悪魔に出来るものではない。


『ありがと、だーりん。さて……ね、オオカミさん。少し取引しない?』


女は指を鳴らし、周囲の細蛇達に威嚇行動を取らせた。

綺麗に整列した細蛇達は皆同時に鎌首をもたげ、牙と舌を見せつける。


『もうあなたも着いてきていいから、その子ちょうだい。断ったらこの子みたいに割ってもらうわ』


『取引と言うにはこちらに得が見られないな』


『得ならあるわよ? 寿命が伸びるわ』


『……それはそれは、素晴らしい。断る理由など微塵もないな』


わざとらしく喜んでみせる、女はアルの本心を分かっていながら、いや、分かっているからこそ微笑んだ。


『賢いオオカミさん、どうすればいいか分かるわね?』


『あぁ……不服ながらな』


『うふふ、最初はその子だけのつもりだったけど、なんだかあなたも欲しくなっちゃった』


『……光栄だ』


『ふふ、可愛い』


本音と建前を使い分けつつも、その本音は態度に出ている。

言葉は繕うが本心を隠さない捻くれた素直さを、女は気に入っていた。


『こっちよ、おいで』


裂けた蛇の体の上を渡り、本当の最奥へと歩んでいく。

蛇の体と土の隙間は血で埋まり、赤く毒々しい川となっていた。

人間ならば吐き気を催す景色に、アルは食欲をそそられていた。


『ここは……!』


蛇の断面ばかりに向いていた目は、女が指差した建造物に釘付けになる。


『だぁーりん、開ーけーてー!』


ひとりでに開いていく城門、姿を現した豪奢な城。

アルの身長と城との距離では、その全てを目に収めるには至らない。


『まさか、まさか、貴様は……いや、貴女様は』


アルの驚愕や畏怖の感情なんてつゆ知らず、女はドレスを楽しげに踊らせて城の中へ消えていった。

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