第155話 何度言わせれば気が済むの

ロキは屋根を破壊し、僕とアルを抱えて空を駆けた。

倒壊寸前の家が握りこぶし大に見える程の高さで止まり、地上を振り返る。

先にアルを離し、その上に僕を乗せた。


『アイツ……出てきやがった!』


忌々しげに地上を睨むロキに倣い、僕はアルの首に腕を回して片目だけで下を覗いた。

あまりの高さに頭が痛くなる、視界がクラクラと歪む。


家の跡から少し離れた位置に巨大な穴が空いている、底が見えない黒い黒い穴。

深淵から湧き出る無数の黒い柱、それは血管が浮き出てているようにも見えた。

見るもの全てに嫌悪感を覚えさせるその姿は、ヘルヘイムで見た肉塊と似通っている。


「なに、あれ」


『ヘルだ、馬鹿な真似しやがって……こっちじゃまともに動けねぇくせによ』


ヘルヘイムで嗅いだあの腐臭が鼻に届く、ロキの言葉と合わせて僕の結論は完成した。

伸縮しながらアスガルドを破壊する肉塊の体積は少しずつ膨らんでいる。

腐った肉のところどころから黒い粘液が染み出している。

アレは僕を探しているのだろうと直感した。


『あー……どうするかな、落ち着くまで逃げて弱ったところをぶっ叩いてヘルヘイムに帰すか。いつも通りだな』


ロキは一人で策を練っている、呟かれた作戦は酷く単純で穴だらけだ。

いつも通り、の安心感は知っているがそれに裏切られた経験も沢山ある。

だがアースの神々に詳しくない僕が口を出すのもはばかられる。


『とりあえず、てめぇらは向こう行ってろ。ヘルが出してる黒いのに触れたら即死だ』


ロキはしっし、と手を振ると肉塊を挑発するために地上に降りた。

アルにしがみついているために僕の状況認識は朧気だが、この問題が僕のせいだというのは明白だ。

ぽっかりと空いた深淵から遠く離れ、肉塊の先も見えなくなった位置でアルは地上に戻る。


「………ね、アル」


『何だ?』


震える手で翼の先を掴むと、アルは僕の顔を舐めた。

落ち着かせようというのだろう、実際それはとても効果的だ。


「僕……僕、ね。約束しちゃったんだよ、ヘルちゃんと、ずっと一緒にいるって。だからなのかな、約束破ったから、怒って追いかけて来たのかな。もし……そう、だったら、僕は………僕は、どうすればいいのかな」


死んだのだから、ここからどこへも行けないのだから、アルにも会えないのだから、あの時はそんな思考を持っていた。

短絡的な考え方だ、最低な僕をよく表していると言えるだろう。

最愛のモノに二度と会えないなら、近くにいる者で妥協しよう。

仕方ないからこの子で我慢しよう──なんて。


「………最低、だよね」


『ヘル、貴方は悪くない。貴方が気に病むことなど一つもない』


「アルは優しいよね、優しすぎるよ。僕みたいなのに構ったって良いことないのにさ」


『貴方は自己評価が低過ぎる、貴方はもっと尊大に構えてもいい才能を持っている』


「才能……ね、それもだよ。何で僕なのかな、魔物使いなんてさ、僕よりもずっと似合う人がいるだろ? 何で僕なの? ねぇ……なんで? 僕じゃなかったら、きっともっと良い結果が出せたはずなのに」


魔物使いが僕でなければ傷つく人も死ぬ人もずっと少なくなっていただろう。

もし僕が僕でなければ魔法の国を襲ってきた連中だって追い返せたかもしれない。

可能性を考えれば考えるほど、心は蝕まれる。


『貴方は……いや、この話は後だ。奴が来た』


僕に背に乗るよう指示しながら、アルは翼を広げた。

僕が跨ればすぐに空へ飛び上がれるように。


「……アル、一人で行って」


アルは一瞬目を見開き反論しようとしたが、次の瞬間にはその場から消えていた。

遠くに離れる羽音が聞こえる、右眼に鋭い痛みが走る。


「僕は、どうしたいんだろうね。もう分かんないや」


目の前に黒い真円が現れた、そこから伸びるのは白骨だ。

大きさから幼い子供の腕だと推測する。


「……そっちにいた時はね、死にたくなかったなって思ったんだよ? アルと離れたくないなって。でも……今ね、なんでかな、死にたいなって思っちゃった。どうせまた後悔するのにね。アルに会いたいって言うくせに、会ったら会ったで僕に付き合わされてるアルが可哀想になっちゃうんだよね」


ゆっくりと引きずり出されるように、黒の可愛らしいドレスを着た白骨が眼前に落ちる。

力なく倒れ込み、カタカタと風に揺れる。


「……ごめんね、ヘルちゃん。やっぱり僕はまだそっちに行けないや」


動いているようには見えなかったが、骨の腕はいつの間にか僕の足を掴んでいた。

彼女の純白は人を不安にさせるには十分すぎる。


「また……僕が死んだら、いつになるか分かんないけどさ、その時にしてくれないかな。本当にごめん、約束先延ばしにしちゃうね。でもお願い、今行ったら僕はきっとヘルちゃんが嫌いになる」


僕の足首を掴んでいた力が弱くなる、指の先が肉に食い込んでいるのは相変わらずだが、それでも痛みはマシになった。


「多分、僕はまだ死にたくない」


拒絶の意を込めて足を軽く引くと、驚くほど簡単に腕は外れた。

最後にカランと音を立てて、骨は穴に落ちていった。

穴が見えなくなって腐臭も消える頃、背中にドンと何かがぶつかった。

速くもなく強くもなく、温かいもの──アルだ。


「………アル? 何してるの?」


『それは私の台詞だ! 何故だ、何故私を遠ざけた!』


「それは、その……巻き込みたくなかったから、かな」


『ふざけるな!』


アルは僕を後ろに引き倒して、眼前で牙をむく。

原始的な恐怖が呼び起こされる光景だ、なんて僕はどこか他人事のような感想を抱いた。


『無事だったから良いものを、もし死人の国にに引きずり込まれていたらどうする気だった!? 同じ手が何度も通用する訳が無い、本当に死ぬところだったと、貴方は理解しているのか!?』


アルは全身の力を抜いて──いや、抜けてしまったのだろう、顔の上に落ちてきた。

押し付けられる頭を無理矢理に退けて、空気を確保する。


『貴方は……貴方が死んでしまった時に、私がどう思うかも分からないのか? 貴方が自分を粗末にする度に、私がどう思っているのか分からないのか?』


怒気を含んで震える声、荒く不規則に繰り返される呼吸、何度もぶつけられる額。

それら全ては僕に''理解させる''ためだけに繰り返された。


『貴方は私のただ一人の主人だ、他の者が魔物使いだったら……など、そんな貴方の勝手な妄想は関係無い、貴方だけが私を使役できる、その権利がある。だから私は貴方だけに尽くそうと言うのに、貴方だけを愛すと言っているのに、何故貴方は私を遠ざけようとする? なぁ……ヘル、答えろ』


答えろと言われても、自分でも判然としない考えを説明するなど不可能だ。

黙ったまま目を逸らすと、アルはさらに顔を近づけた。

鋭い目に射抜かれて体の動きが止まった。


『私が気に入らないのか? 嫌いなのか? ……要らないのか?』


「ち、違う! 違うよ、そんなんじゃないよ!」


それだけは違う、僕の勝手な思考においてアルに落ち度はない。

全て僕が悪い、何もかも僕が、僕だけが悪いのだから。

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