第78話 片想いの再会


朝、というか昼。

僕はようやく目を覚まし、ベッドから這い出て洗面所に向かった。

鏡を見ると、ふわふわモコモコの寝間着を着た少年が映っていた。

服に似合わず仏頂面で僕を睨みつけている。


「リンさんの趣味なのかな……早く着替えた方がいいかな」


リンの嗜好にそこはかとない疑心を抱いたが、僕の服も買ってもらった服も洗濯されており、仕方なくそのまま部屋を出た。


「おはよーう、写真いいかな?」


「嫌です、リンさんも今起きたんですか?」


「科学者の生活リズムはめちゃくちゃなんだよ、朝はフレークでいいよね? あと写真撮らせて?」


「もう昼ですけど……フレークは好きですよ。でも写真は嫌いです」


「冷蔵庫から牛乳出して。あ、あと写真撮らせてー」


後の言葉を無視し、冷蔵庫を開く。

牛乳は何本も入っていたが、その殆どの消費期限が切れていた。

臭いも漂い始めたその中から新しい物を選び取る。

消費期限は……あと三日か。


「やっぱチョコ味だよね、ところで写真は?」


「撮りません、何でそんなに撮りたがるんですか?」


「可愛い男の子が好きなんだ。まぁ女の子でもいいけど、とにかく十代かそれ以下の子供が好き」


「…………フレーク美味しいですね」


「別に性的な意味じゃないから誤解しないでくれよ? あくまでも見て楽しむだけだから……あからさまに目をそらすのやめて!」


リンの弁明を無視してフレークを食べ終え、庭に出る。

僕の服はちゃんと乾いていた、柔軟剤らしいいい香りがする。

物干し竿から引っ張り下ろし、寝室に戻る。

ドアを開くとリンが立っていた。


「撮らせて! お願い! 他人に見せたりしないから! 見せる奴もいないし……個人で楽しむから!」


「嫌ですってば、出てってください!」


「ここ俺の家……もう着替えるの? 可愛いのに、もうちょっと着ておきなよ」


「嫌です、女の子みたいじゃないですか」


「それがいいんじゃないか。あっ、着替え撮らせてもらってもいい?」


「……出てってください」


リンを無理矢理部屋から追い出し、ドアに背をひっつけて着替えた。

悪い人ではないのだろうが、人を趣味に巻き込むのはやめて欲しい。

着替え終わって寝室を出る頃にはドアの前にリンはおらず、僕はテレビのある部屋に向かった。

そういえばまともにテレビを見たのは初めてかもしれない。

ぼうっと眺めていると、開きっぱなしの地下室への扉からリンの悲鳴が聞こえた。


急いで階段を駆け下り、瓶の隙間を抜けて部屋の中心へと向かう。

リンが銀色の狼に腕を噛まれていた。


「アル!?」


ばぎ、と嫌な音が響いて、リンの腕が喰いちぎられた。

血が吹き出す……ことはなく、火花が飛んだ。

アルは忌々しげに喰いちぎった腕を捨てる。

僕の足元に転がったそれは機械のように見えた。


「リンさん! 大丈夫ですか?」


「あ、ああ、腕は両方義肢だから、何とか大丈夫かな。これ高かったんだけど……」


「アル? アル……なんだよね?」


不機嫌に尾を揺らすアルに手を伸ばす。

きっと混乱して噛みついてしまっただけだ、僕が撫でれば落ち着いてくれるはず。


「ダメだ! 記憶の復旧に失敗して……今のそいつはただの魔獣なんだ!」


そんなリンの叫びよりも先に、アルは僕の手に牙を突き立てた。

アルの牙は容易に皮膚を裂き、肉に届く。

だがアルは骨を砕く前に口を離した。


「……アル? ねぇ、僕の事分からないの?」


『貴様のようなガキなど知らん』


「そ…っかぁ、分かんないんだ、忘れちゃったんだ」


「……俺の責任だ、起こす前に記憶の測定を行うべきだった」


手の痛みなど感じない、ただアルに知らないと言われたことだけが痛い。

心臓を握られているみたいに、肺を潰されてしまったみたいに、苦しい。

息が吸えない、吐けない。


肩を震わせて泣いていると、誰かの体温を背に感じた。

リンが慰めようと僕の肩を抱いていた。

だが、その腕はアルの尾に払われる。


『……触れるな、人間』


唸り声をあげ、僕とリンの間に体をねじ込む。

意図の見えないその言動に、ただ戸惑う。


『泣くな』


「アル…? 僕のこと、分かるの?」


『知らんと言っただろう、だが…貴様の泣き顔は目に映したくない』


アルは僕の胸に頭を寄せる、閉じた足に無理矢理体をねじ込む。


『ほら、撫でさせてやる』


「……ありがとう、アル」


『いい手触りだろう? 自慢の毛並みだ』


「うん、知ってるよ、知ってる……君は、撫でられるの好きなんだよね」


『貴様が泣き止まんから仕方なく撫でさせてやっているだけだ、私は人間になど触れられたくもない』


「ふふっ……嘘吐きだね、変わんないよ」


アルを抱き締めて、地下室を後にした。

リンは義手の注文に行くと家を出た、アルはその間ずっと僕の傍から離れない。

庭に出て、アルとひなたぼっこをする。


『ここは覚えがあるな、カルコスとクリューソスと鬼事をした』


「へぇ……あ、そういえばアルの一番新しい記憶っていつ頃なの?」


『ふむ、今の暦から見て……ざっと七十年前か? 書物の国で本を読んでいたな、内容は覚えていない』


「七十……そっか」


アルは僕の胸に頬を擦り寄せ、翼で僕を包む。

黒蛇は両足首に絡みつき、僕がアルを閉じ込めるような体勢になっている。


『貴様は、いつ私と出会ったのだ?』


「……最近だよ、一年も経ってない」


『そうか……会って間もないと言うのに貴様は随分と私を気に入っているな』


「うん、僕にはアルが居なきゃダメなんだよ、独りになっちゃう。君が隣に居てくれないと、僕は何にも出来ない」


『……情けないガキだ』


「だよね、本当に……なんで生きてるんだろ」


アルの言葉は嘲るようだが、その声色はどこか悔やんでいるような、憐れんでいるようなものだった。

アルは顔をつけたまま、僕の胸から腹を調べるように擦った。


『体も情けない、この程度では私は主人と認めんぞ?』


「アルが言ったんだよ、この体型を保てって」


『たかだか数十年で私の趣味は随分変わったらしいな。だが、やはり駄目だ。鍛えてやろう、ほら……私を捕まえてみろ』


アルは僕の腕と足からするりと抜け出し、庭を駆ける。

どんなに走っても追いつけない、アルは僕の手がギリギリ届かない位置で笑って僕を見る。

足よりも先に呼吸が狂う、どんなに吸っても肺に空気が入らない気がした。

膝をついて胸をかきむしるように服を掴むと、先程までとは反対にアルが走り寄った。


『おい、どうした。大丈夫か?』


何ともない、大丈夫だ、そう言うつもりなのに僕の声は言葉にならず、ただ笛のように喉が鳴る。

言葉で駄目なら行動で、とアルを撫でようとした。

だがその手は僕の命令を無視して、美しい銀色の毛を毟るように掴む。

体を起こしていることも出来ない、僕は短い草の上に横たわった。


『おい! 起きろ、返事をしろ!』


微かに開いた視界の端に、リンの姿が見えた。

リンは僕に駆け寄って、胸に耳を当てた。


『離れろ! この子供に触れるな!』


「うるさいな! 君が離れろ! 何をしたんだ、過呼吸になってるじゃないか!

……喘息持ちではないみたいだけど、精神的に相当不安定な子だから……過換気症候群の方かもな」


リンは僕を抱きかかえて中に戻った、ベッドに寝かされ、ゆっくりと胸を叩く。


「落ち着いて深呼吸してればすぐに戻るからね、怖いかもしれないけど大丈夫だから」


揺れる視界の端で、アルが心配そうにこちらを見つめている。

僕に近寄ろうとはせずドアの前に伏せている。

僕は息が出来なくて死んでしまうんじゃないかという恐怖よりも、アルが傍に居ないという恐ろしさが勝っていた。

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