第50話 視線の主


暗い洋館。カーテンは閉められ、明かりらしい明かりもない。

唯一灯った蝋燭の炎は青白く、炎だというのに熱を感じさせない。


寝室からは快楽に悶える少女の声が響く。

その嬌声の主は、自らの首に顔を寄せる──いや、その首筋に牙を突き立てている女に抱きついている。


「あぁ…グルナティエ様ぁ、もっと…もっと…あっ…あぁっ…!」


コンコン、と不躾に扉が叩かれる。

女は少女の首筋から顔を離し、腕も離した。

支えを失った少女の体は崩れ落ち、少女への興味をすっかり失くした女は足にすがりつく腕を払った。


「お食事中失礼します、お母様」


扉が開くと、ふわりと浮かんだ燭台が二つ、男のあとをついてくる。

青白い炎は男の顔の白さを際立たせる、だが男の紅い瞳だけはその色を変えない。


『アンテールか、珍しいな』


「少しお伝えしたい事が有りまして。おや」


アンテールの爪先が少女の腕に触れる、力なく伸ばされたそれは、生きているとは思えない程に青白い肌をしていた。


「へぇ……中々に上等、流石はお母様」


『他国から買った。この国には処女がおらん。残りカスだが飲みたければ飲め』


「いえ、遠慮しますよ」


グルナティエは少女を抱き上げると、再び首筋に牙を立てる。

最期の煌めきとでも言うふうに少女の手足は短く痙攣し、だらりと垂れた。


「魔物使いを見つけました、私を操る程の能力です。あの能力ちからは手に入れるべきではないかと」


『ほう……処女か?』


「お好きですねぇ。男でしたよ、純潔だとは思いますがね」


どこからともなく水晶玉が現れる。

それはグルナティエの指先でピタリと止まり、街中の景色が映し出される。

魔物使いの少年、合成魔獣キマイラの狼、淫魔の青年。

談笑する三人の後ろ姿だ、少年だけが一度こちらを振り向いた。


「勘のいいガキだ」


『このインキュバス……確かお前のお気に入りだったな。まだ手に入れていないのか? 情けないな、私の息子を名乗るのならばこの程度手こずるな』


「……別に、手こずっている訳では有りませんよ。まぁこの機会に手に入れましょうか」


『あの面倒な天使に見つからんように準備を進めろ。……全く、お前の趣味は理解出来ん』


動かなくなった少女を捨て、嫌悪感を隠さずにアンテールを見る。

母親からの侮蔑の視線にもアンテールは微笑みを崩さない。


「私のコレクションを見て頂ければ理解してくれると思っていたのですがね。美しい物は集めたくなるでしょう?」


『一度見たが……気味が悪いだけだな』


「気が合いませんねぇ、獲物が被らないのは有難いのですが」


『お前といいヴェーンといい、どうも人の血が混じると倒錯者が生まれるらしいな。情交に執着しないのは成功への道でもあるが……お前達のは違う。この異常者が』


母の心の底からの侮蔑に社交的な笑みを返し、アンテールは部屋を出る。

向かったのは例のコレクションを並べた部屋。

壁には悪魔のものと思しき''羽''が標本にされ、整然と並んでいる。

ガラスケースに入れられたそれをアンテールは愛おしそうに眺め、いつまでも箱を撫でていた。






夜になっても……いやこの国も娯楽の国と同じく夜の方が明るいようにも感じる。

宿からぼうっと外を眺めていた、退屈なのだ。

参加しなければどんなに華やかな街もくすんで見える、まぁ僕は騒がしいのは嫌いなのだけれど。


『二人とも暇ならトランプでもする?』


『トランプ……UNOはないのか?』


『カード足りなくてもいいならあるよ。緑の1から3と赤が全部、それに青の3から上がない』


『それは無いと言うんだ』


アルとセネカの会話を聞き流し、夜空を眺める。

今日は新月だ。

月の輝きがない分いつもは目立たない星も美しく見える。だが月のない夜空はどこか寂しい。



空から街並みに目線を落とすと、隣の屋根の上に人影を見つける。

星の明かりを受けて輝く白い翼に光輪……天使だ。

それはゆっくりと屋根の上を歩き、街を見回している。


「ねぇ、あれって」


『ん? なになに? あぁ、天使だね。この国の見張り番だよ、割といい人』


セネカは窓を開けて外へ手を突き出す。

手を左右に振りながら大声をあげた。


『おーい! こっちこっち〜!』


『貴様、何をしている! やめろ、天使など呼ぶな!』


アルはセネカの服を咥え、引きずり倒す。

素早く尾で窓を閉めるとセネカに向かって唸り声をあげた。

当のセネカは羽を垂らして落ち込み、謝罪とともにアルの頭を撫でる。

まだ機嫌の直らないアルを横目で見つつ、窓の外を確認した。

あの天使らしき影は消えている、どこへ行ったのだろうか。


『何か?』


背後から透き通るような声が聞こえ、思わず飛び退いて振り返った。

立っていたのは天使だ、真っ白な羽と輝く光輪。

闇色の長い髪と目には、星が散りばめられたような輝きがある。


『レリエル! 覚えてる? ボクだよ、セネカだよ!』


『キルシェ…? 今日は男?』


セネカはレリエルという天使と面識があるらしい、羽がパタパタと嬉しそうに振られている。


「知り合いなんですか?」


『前に道端で倒れた時にここまで運んでくれたんだよ。あのままだったら凍死してたね、きっと』


『最低気温マイナス八度』


レリエルは無表情のままに首を縦に振る、その姿はどこか不気味だ。

しかし、倒れたセネカを運んでくれるとは今まで会った天使とは全く違った性格をしている。

彼がいい人だと言うのも頷ける。


『あ、この子はヘルシャフト君だよ。こっちはアルギュロス。この宿に泊まってるんだ、ボクの友達の紹介で……ああ、友達っていうのはね──



目を輝かせたセネカのお喋りは止まらない。

レリエルは無表情のまま、黙ったまま相槌を打つ。

傍目には全く感情は読み取れないが、悪い人ではなさそうだ。

僕を背後に隠したまま警戒を解かないアルをそっと窘める。


『天使は信用出来ん』


「そう言わないでよ、結構いい人そうだよ?」


『私の経験上いい人そうなモノ程いい人ではない』


「悲しい経験だなぁ」


僕がアルと話し出した途端、先程まで楽しそうに話していたセネカが急に苦しそうに咳をしだした。

壊れた笛の音のような息が聞こえる。

レリエルはそっとセネカの背をさすり、無機質な声をかける。

無表情のままだが、僕には少しだけそこに隠された感情が見えた気がした。

レリエルは不意に僕の手を掴み、セネカの頭に触れさせた。


「えっと……何を?」


意図の不明な行動にただ首を傾げる。


『暫くこのままで』


レリエルは端的にそう伝えると影に吸い込まれるように消えた。

セネカの息遣いは少しずつ元に戻り、弱々しい笑みを浮かべる。


『レリエル……帰っちゃった? 残念。もっと話したいことあったのにな』


「大丈夫なんですか?」


『平気、君のそばに居ると安定するみたいだから、流石は魔物使いってことなのかな?』


元気に振る舞うセネカが僕には今にも消えてしまいそうな程に儚く見えた。

そんな僕の憐憫の情を察したのだろう、アルは深い深いため息をついた。

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