第27話 支配者の血


照明を反射して輝くナイフを見て、体が硬直する。

頭が追いつかない、どういう状況だ?

アルは彼女が素晴らしく正しい人だと言っていた。ならこの行為は? この行為も正しいと言うのか?


「……やだっ……アル、助けっ……ん、ぅ」


『大人しくして、声も出さないで』


馬乗りになったマルコシアスに口を塞がれる。

アルは風呂に行ったばかりだ、それにこの部屋から叫んだところで聞こえる距離ではない。

だが人間の人間たる象徴でもある言葉を封じられるというのは、例えようもない恐怖だ。


『そんなに怖がらないでよ、すぐ済むからさぁ』


優しい声が余計に恐ろしい、黒い瞳の奥底が鈍く紅い輝きを見せる。

細長い瞳孔が膨らみ、怯える僕を映した。


『どこにしようかなぁ、出来れば首がいいけど。君はどこがいい?』


少しだけ口を塞ぐ手が緩む、この隙に叫ぶ……なんていうのは最悪の選択なのだろう。

叫んだ瞬間に首を切られる自分の姿が容易に想像出来た。


「なっ、何が」


『対価は血だよ、君の血が欲しいんだ。その為に少し傷をつけたいんだ。どこがいいかなぁ?』


やっぱり首がいいなぁとにっこりと微笑み、僕の目の前でナイフを揺らす。

この女、なんて嬉しそうな顔をするんだ。

血が……僕の血が何になるって言うんだ。

あのナイフで切らせろと言っているのか。


「手……で、お願いします。その、出来ればあまり深い、傷は」


恐怖を少しでも和らげるためにと掴んでいたシーツを離し、震えながら左手を突き出す。


『手ぇ? まぁ、いいか』


マルコシアスは不満げに僕の上から退いて、僕をベッドに真っ直ぐ座らせた。

マルコシアスは跪くようにして僕の左手を取り、右手で口を押さえさせた。


『声、絶対に出さないでね』


そう言ってまた優しく微笑み、その微笑みのまま僕の手のひらにナイフを突き立てた。

ギリギリ貫通しないかどうかという具合に刺さったナイフを乱暴に回転させて、手のひらの組織を破壊していく。

手という神経の集中した場所を破壊される痛みに悶絶した。手を選んだのは失敗だったか。

声を出さないように、必死になって右手に歯を立てる。

声を出すなと念を押された。

もし出したなら…どうなるかは考えたくもない。


『んふふふっ……いーいねぇ』


マルコシアスは僕の傷をうっとりと眺め、それから優しくくちづけた。

骨に引っかかるのも構わずに引き抜かれたナイフは床に転がっている。

淡い色の絨毯が僕の血で汚れていく、醜い赤はこの美しい部屋には似合わない。

唇が皮を押し開き、舌が肉を抉った。

血を啜り、舐め、満足そうに笑う。


『うん、思った通り。乱暴で身勝手な……いい味だよ』


僕の手から口を離すと、ベッドの下から救急箱を取り出した。

ぱっくりと開いた傷に消毒液を塗りこまれ、また悶える。

じっと目を閉じ、意識が飛びそうな痛みに耐えているとふいに肩を叩かれた。


『終わったよ。ありがとうねぇ』


僕の左手には丁寧な手当が施されていた。

痛みで動かない指に、じわじわと包帯を染める赤。

噛んでいた右手にはくっきりと歯形がついていた。


『じゃ、また明日もね』


そんな最悪の宣告を聞き流してしまうほどに、僕の意識は遠くなっていた。

足をぶらつかせたままベッドに倒れ込むと、視界は暗く、意識はどこまでも落ちていく。






キィ、と扉の開く音に飛び起きる。

入ってきたのがアルだと分かり、安堵のため息をついてまたベッドに倒れ込む。


『ただいま、ヘル。私がいない間寂しかったろう?』


アルはそんな僕の恐怖にも安堵にも気がつかずに、ベッドに飛び乗って僕の顔を舐める。

今までとは違った上品な石鹸の香りが鼻に届き、安らかな気持ちになってきた。


『血の匂いがする』


バッと起き上がり、僕の体を隅々まで調べ上げる。


『ヘル、手をどうした?』


血の色の広がった包帯を見つけ、アルは心配そうに耳を垂らした。

先程の行為は、言っていいものなのか。

アルはあの女を信頼しているようだった、なら先程の出来事を伝えればアルはどう思うだろう。

自分のせいで僕が傷ついたと気に病むだろうか。

それとも、あの女がしたのなら……と理由も無く納得するだろうか。

どちらも嫌な未来だ。


『……マルコシアス様か?』


僕が何も言えずにいると、アルは見事に理由を当てた。


『泊まらせる、か。成程、対価が必要だな。済まない、気がつかなかった』


「ねぇアル、あの人変だよ。僕の血を飲んでた」


『マルコシアス様はそういうお方だ。契約には誠実だから渡した血の分の面倒は見てくれるさ』


「そうじゃなくて! どうして……血なんて」


声を荒らげた僕に驚き、アルの耳が跳ね上がる。


『悪魔にとって強い魔力を持つ血は魅力的なモノだ。前にも言ったろう?』


「え……悪魔?」


『並の悪魔なら貴方の血を見れば我を失い喰い尽くすだろう。必要な分だけ、とは流石マルコシアス様と言ったところだな』


「悪魔なの? あの人」


『気がつかなかったのか? 私よりも年上なのだ、人でない事は明白だろう』


僕に顔を擦り寄せるアルを呆然と眺める。

悪魔、か。

それならば血を欲しがった事にも似せたという事にも納得がいく。


「はぁ……分かんないよそんなの。もう、やだ」


『痛かっただろう、私が気が付かなかったばかりに……済まないな。マルコシアス様は素晴らしいお方なのだ、どうか嫌わないでくれ』


「無茶言わないでよ、怖いよあの人」


『大丈夫だ、血を渡した以上は他のモノからは守ってくれるはずだ』


慌ててあの女の素晴らしさについて語り出したアルにまで不信感が芽生える。

そんなに信頼するものが、そんなに崇拝するものが、あの女にあるとは思えなかった。





壁掛け時計が鐘を鳴らす。7回、食事の時間だ。

アルは慌てて扉を開け、廊下を走った。


広いテーブルに所狭しと並べられたのは、肉、肉、肉、見渡す限りの肉料理だ。

丸焼きにされた豚の目が僕を見ているような気がして、俯いてしまう。

アルは嬉しそうにチキンを頬張っている、骨ごと食べているらしく、ごりごりと音が響いている。


『どう? 口に合うかな?』


『最高です、流石マルコシアス様!』


『うんうん、君はそう言うと思っていたよ。それで……ヘルシャフト君、君は?』


「あ、美味しい、です」


変わらない優しい微笑みを浮かべるマルコシアスにはもう恐怖しか感じない。

目線を逸らしてはしまったが、嘘は言っていない。

本当に美味しい料理ばかりだ、ただ……野菜が欲しい。


『アルギュロス、もう少し綺麗に食べられないのかい? 皿ではなく、口の方だ』


『も、申し訳有りません…マルコシアス様』


耳を垂らして子犬のような鳴き声をあげるアルの口は、ソースや何やらでぐちゃぐちゃだ。


『まぁいいよ、美味しそうに食べているのは見ていて気持ちがいい』


『ありがとうございます』


彼女のテーブルマナーは完璧なのだろう。

だが、アル同様に骨ごと食べている。

時折にナイフやフォーク、口から恐ろしい音が聞こえてくるのだ。

普通に過ごすマルコシアスに今ならば大丈夫かとそっと口を聞く。


「あの…野菜、とか。無いんですか?」


『そんな物、要らないだろう?』


「え……欲しいです」


『変わってるねぇ、あんなもの食べたがるなんて』


『マルコシアス様、人間は雑食です』


『そうなのかい? なら明日は買ってくるよ、今日は我慢してくれるかな』


思っていたよりも上手くいった。

野菜代だと血を取られないかだけを心配し、僕は出来る限りの笑顔で頷く。


「ありがとうございます……ところで、その、悪魔って肉食なんですか?」


『さぁ? 悪魔によるよ。魔力さえ吸収出来るのなら何でもいいから、食べるという行為すら必要ない』


『マルコシアス様は元の姿が狼だ。だからだろう、あまり野菜は好まれない』


「元の姿? 」


『人に化けてるんだよ、こっちの方が色々と都合が良いからねぇ。見たいなら今度見せてあげよう』


「え……いい、です」


『マルコシアス様の狼姿は格好良いぞ、私など比べ物にならん』


『見た目は大して変わらないと思うけどなぁ』


優雅に微笑む姿を見ていると、とても悪魔とは思えない。

あんな事をする、とも。

食事の時間はとても楽しいものだったし、その後に話した彼女は確かに素晴らしい人物に思えた。

だが、明日もあの行為をされるかと思うととても気が重い。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る