テオはコットの好意を知っている。その上で、ただ傍に居られればいいと、その距離を保ってきたはずだった。しかし、コットの言葉は、二人の関係が変化しようとしていることを告げていた。

「それはできない」

 迫るコットを押しとどめようとしたテオは、反射的にそう答えた。コットの大きな緑色の瞳が衝撃に揺れたかと思うと、すぐに伏せられる。テオはこの一瞬の間に何が起こったのかを理解しようとし、しばし沈黙しなければならなかった。

「……イルダンテ嬢の食事を作るのに食材を買い足すつもりでいる。彼女はまだ本調子ではない。放っておくことはできない」

 何とか絞り出したのは、すでに埋まっていた明日の予定だった。

「そ、そうですよね」

 コットははっと気づいたような顔をして、頷いた。納得してくれたようでテオは安心したが、心臓はまだ早鐘を打っている。

「司教様は、何とも……?」

「あれから何度か連絡をしているが、取りつく島もないな」

 コットの問いに、テオは努めて冷静に答えた。

 クラウディアはまだ庇護を必要とする年齢だ。親がその監督を放棄した場合は、教会アトリアが面倒をみることになっている。しかしそこからも拒絶されたとなれば、なんとか一人で生き抜く道を見つけるか、里親を探すしかない。クラウディアの性格では、後者は難しいだろう。

 テオには士官学校という道があった。そして今は憲兵として職を得ている。だからといって、クラウディアに同じ道を歩めとも言えない。そもそも彼女は官憲に対して良い印象を抱いていない。

「どうしたものかな……」

 保護という形を取っているが、それもいつまでも続くわけではないのだ。彼女が父親と和解してくれさえすれば話は早いのだが、とそこまで考えて、テオは分かり合えないままに死に別れた自身の父親のことを思った。

 父イーダンは、テオのことを最後まで見ていなかった。過ぎ去った時間をずっと抱きしめていたのだ。ゆえにその最期まで、会話も、心を交わすこともできなかった。

 後悔はないが、クラウディアに同じ苦しみの道を歩んでほしくはない。テオは電話口で何度か話した司教の印象を反芻する。

 クラウディアに話を聞いてみないとはっきりはしないが、司教はクラウディアを甚振りたいようにも、使い捨てようとしているようにも思えなかった。テオには時期尚早に思えるが、司教はクラウディアをすでに大人として扱っているのだ。

(しかしイルダンテ嬢があの様子では……)

 テオの思索を邪魔しないよう、コットは静かに声をかける。

「とにかく、まずは元気になってもらうことですね。囀旋律ジャジィのこともありますし」

 その話もしなければならないことを思い出し、テオは頷いた。囀旋律ジャジィは一人で弾く音楽ではない。テオがコットを誘ったように、二人か、それ以上が望ましい。

「コット、その……どうだった? 楽器に触れてみて」

 コットを家まで向かう道すがら、テオはコットに尋ねた。コットはとびきりの笑顔で、「楽しかったです」と答えた。

「また、一緒に弾いてくれますか?」

「君が望めば……任務中以外でなら、いつでも」

 真面目な上官らしい返答に、コットはくすくすと笑った。

 二人の手は、自然とつながっていた。最初に触れてきたのはコットのほうだったが、テオはそれをすんなり受け入れることができた。寒空の下、暖を取ろうとしたのかもしれないし、二人の時間を終わらせたくなかったのかもしれない。

 それは、好き合うもの同士が身を寄せ合っているというよりは、ひとりがひとりにならないよう繋ぎ止めているような、優しいものだった。

 テオがコットを送り届け、寮舎に戻っても、その温もりが残っている気がして、テオはしばらく自分の手を見つめていた。

「何してんの? 突っ立って……」

 そこへ、咳混じりの掠れた声がかかる。テオが戻った靴音を聞き分けて、クラウディアが起きてきたのだ。

「寝ていないとだめだ、イルダンテ嬢。具合は?」

「だいぶましになったわよ。……おかげさまで」

 テオはクラウディアを寝室に連れ戻そうとするが、クラウディアはそれを拒否する。手には紙束が握られていた。見覚えのあるそれに、テオは緊張する。

「これ、あんたの机から見つけたんだけど」

「……人のものを勝手に漁るのは感心しないな」

「紙とペンを探してたのよ……見られるのが嫌なら引き出しに鍵でもつけておきなさいな」

 理不尽極まる物言いだが、テオはそれ以上何も言わなかった。クラウディアが手にしているのは、テオが仕事の合間を縫って密かに書き溜めていた囀旋律ジャジィの譜だった。

「典型的な教会音楽の進行を、囀旋律ジャジィらしく崩してある。あんたの作譜?」

「だとして、君の興味を引くものだったかな」

 クラウディアの性格なら、鼻で笑って上から自分の譜を書き出しそうなものだったが、彼女はそうしなかった。近くの椅子に腰掛けて、一枚一枚めくりながら、改めて目を通す。

「あたしからしてみればあくびが出そうな出来栄えだけど、嫌いじゃないわ」

「それはどうも」

「好きなの?」

 クラウディアの問いに、テオは頷きもせず肩をすくめてみせた。

「君の演奏からは学ぶべきところが多くあったよ。ところで君に、話があるのだが」

「父さんのことなら……」

 クラウディアは顔をしかめた。テオが連日連絡を取っていることを知っているのだ。テオは「そうではない」と首を振って、クラウディアの前に椅子を寄せ、腰掛けた。大事な話だ、と声を潜めると、クラウディアは楽譜をる手を止める。

「フェリクス殿下が君の演奏を一度聞いてみたいと仰せだ」

「誰?」

「……帝国キアラン第三皇子の、フェリクス=パルストリス殿下だ」

 その名を聞くと、クラウディアは目を瞬いた。驚きに唇がわずかに開き、手に持った楽譜を取り落としそうになったのを、慌てて胸に掻き抱く。

「皇子様? どうして? あたしは別に、王侯貴族様に楯突いた覚えはないわよ?」

「何故と聞かれても、こちらが知りたいくらいなのだが……フェリクス殿下は囀旋律ジャジィについて調べているようだった。〈砂の民レベク〉の音楽を起源とすると……」

 テオの言葉を聞くうちに、クラウディアは冷静さを取り戻してきたのか、ああと頷いた。

「そうね。囀旋律ジャジィの原型は、〈砂の民レベク〉と、帝室と、深い関わりがあるの。皇子様が興味を持つのも、まあ不自然ではないわね」

 クラウディアは立ち上がり、壁にかけられた大陸図を指差した。帝国キアランがある場所から指で図をなぞり、山脈を越え、南部の砂漠地帯を示す。

「二百年くらい前、ドレニー大陸南部のチャドリ地方の遊牧民、〈砂の民レベク〉の族長と帝室のお姫様が駆け落ちしたの。そして生まれた子供がまた帝国の人間と交わって……そこで〈砂の民レベク〉の音楽と帝国キアランの古典音楽とが混ざり合った。〈砂の民レベク〉はもう滅んでしまったけれど、他の部族との交流が深かったみたいで、チャドリ地方の文化として根付いたの」

 そして、とクラウディアは続ける。

「三十年前、帝国キアランがチャドリ地方を領土に組み込んだことから、〈砂の民レベク〉の音楽が帝国キアランにもたらされた。そして今、再び帝国キアランの古典音楽を取り込んで、囀旋律ジャジィという新しい子供を残そうとしてる——あたしたちは、その証人になるのよ」

 クラウディアの声には熱がこもっていた。昂奮のせいか、頬は赤く、息も浅い。テオはクラウディアに席に戻るよう示し、水差しからコップに水を注ぐ。

「しかし、君は病人だ。そこで殿下は、私に代演を申し付けた」

「あたしは元気よ?」

 テオはクラウディアの手首を取り、額に手を当てた。脈は早く、熱もある。胸の上に手を当てると、喉が鳴っているのがよく分かる。

「たちの悪い風邪だ。熱心になる気持ちはわかるが、自分のことを大事にしたまえ」

「よ、余計なお世話よ」

 テオの手を払い、クラウディアは腕を組む。かさり、と楽譜がその腕の中で音を立てた。

「代演なんて認めないわ。皇子様はあたしの演奏が聞きたいんでしょ?」

「しかし、一人で弾くものではないだろう」

 クラウディアはむっとした表情で、テオと、腕の中の楽譜を交互に見た。

「……分かったわ。きちんと安静にして、病気を治す。それからあんたと組んで皇子様の前で演奏する。それでいいのね?」

「もし殿下が囀旋律ジャジィをお気に召したのなら、この音楽は帝室の庇護を受けられるだろう。……君も」

「だから、そういう気遣いはいいの!」

 テオが付け加えると、クラウディアは楽譜をテオに押し付け、水の入ったコップを受け取ると寝室へと戻って行った。

「あたしは囀旋律ジャジィを生かしたいけど、囀旋律ジャジィは誰の庇護も受けない。いいわね」

 薬を飲んでベッドに横たわるクラウディアに毛布をかけながら、テオは答える代わりに、「おやすみ」とだけ言った。クラウディアは釈然としない様子だったが、やがて眠気に誘われたのか、うとうとと夢うつつをさまよい始める。

「少なくとも、あたしが演奏中に寝ないような譜を作りなさいよ……」

 そして、そのまま眠りに落ちていく。テオは、難しい要求だな、と苦笑して、しばらく手元の楽譜を見つめていた。

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