コットはテオの好きなものを知らない。これほど近くにいるのに、フェリクスが知っていたことを、コットは知らなかった。

 宮殿からの帰り道、コットは馬車の中で物思いにふけっていた。テオもまた考え事をしているらしく、窓の外に視線を投げて難しい顔をしている。

「……隊長」

 半ば無意識に、コットはその横顔に声をかけていた。少し遅れてテオがコットを見る。

「なんだ?」

 青い双眸に見つめられ、コットは言葉を探した。特に用があったわけではない。ただ、気づかぬうちに名前を呼んでいたのだ。それをそのまま伝えるわけにもいかず、コットは膝の上で揃えた手に視線を落とす。

「先程、フェリクス殿下が仰っていた……」

 言葉を濁すと、テオは、ああと頷いた。

「殿下にお聞かせするには、練習が必要だな」

 コットはほっとした。コットの頭にぼんやりと浮かんでいたのは、「どうしてフェリクス皇子がテオの好きなものを知っているのか」ということだったが、テオはコットが言い淀んだことを、囀旋律ジャジィのことだと思ったらしい。もちろんそれも、コットには気になることではあった。

「練習して、できるようになるものなのですか?」

「それは……」

 テオは両腕を組んで考え込み、しばらくの間をおいて、質問には答えないまま、コットに尋ねた。

「少尉、このあと時間はあるか?」

「えっ? えっと、はい。問題ありません」

 今日の勤務はこれで終わりだ。しかし、テオが仕事を終えた人間を引き止めるというのは珍しい。誰かと会う予定も入っていないので、何だろうと思いつつ頷くと、テオは馭者を呼び止めて行き先の変更を告げた。

 アレヴァーレ通りの三一番地は、郊外にぽつんと建つ一軒家だった。隣家との間隔は広いが庭はなく、窓は閉め切られている。

 テオとともに馬車を降りて家の門をくぐり、テオが玄関の鍵を取り出してようやく、コットはここが彼の家であるということを理解した。

 そう思うと途端に緊張してきて、コットは所在なさげにもじもじと背で組んだ指を動かした。テオは玄関の扉を開けると、コットを招き入れる。

「しばらく帰っていないから、埃っぽいかもしれない。すまないな」

「お、お邪魔します……」

 テオの言った通り、家の中には人気がない。テオはカーテンの引かれた窓をひとつずつ開放していき、薄暗い部屋に光と風が通るようにした。

「少し寒いか。すぐ火を入れるから、座って待っていてくれ」

 全ての部屋の窓を開けて戻ってきたテオが、そのまま居間リビングへとコットを案内する。二人がけの椅子ソファにかけられた埃除けの布を取り払い、片側の背もたれに外套と上着を乱雑に引っ掛けた。

「皺になりますよ」

 コットは床下から薪を取り出すテオが振り向くより早く、外套と上着を手に取る。しかしそこには、当然ながらテオの温もりと香りがまだ残っていて、コットは罠にかけられたように動けなくなってしまった。

「ああ、すまない。癖で……」

 テオは薪を暖炉に放り込むと戻ってきて、コットの手から衣類を受け取った。それから少し考えるような素振りをして、動けずにいるコットの肩に上着をかける。

「着ていなさい。空気を入れ替えたら窓は閉めるが、部屋が暖まるまで時間がかかる」

 コットは言葉もなく、そのまま倒れこむようにして椅子に座った。体は暖かいというよりも熱い。暖房などいらないとさえ思われた。いつもよりずっと近くに感じられるテオの体温と残り香は、コットの頬を朱に染める。

 コットにとってはありがたいことに、当の本人はさっさと薪に火をつけに戻ってしまったので、それに気づかない。急いで襟元を緩めて軽くあおぐと、ひんやりとした空気が胸を撫で、ようやくコットは落ち着くことができた。

「よし、」

 薪に火がついたらしく、テオが立ち上がる。そして風で火が吹き消されないように、居間の窓を手早く閉めた。カーテンを引くと再び部屋は薄暗くなる。

「あまり人には見られたくないんだ」

 そう言って、テオは居間の中央に置かれた大きな箱物に手を伸ばした。それにも埃除けの布がかけられていて、テオが一方を引っ張るとするりと落ちる。それは、音楽に詳しくないコットでさえ一目見て分かるほどの上等な鋼琴ピアノだった。

 テオは慣れた手つきで音響板を開け、鍵盤蓋を起こし、椅子に腰掛けると、鍵と踏み板ペダルの調子を確かめる。

帝都アヴィオルに来る時、叔父が贈ってくれたものだ。寂しくないように、と。幼い頃から、母と叔父と三人で、こいつを弾いていた」

 今は一人で弾く、とテオは小さく付け足す。その横顔が、コットの心が軋むほど寂しいものだったので、コットはそっと立ち上がると、テオの傍に寄り添った。

「私は音楽が得意ではありませんから、これは弾けませんが、聴くことなら……」

 間を置いて、ありがとう、と掠れた返事があった。

「君は、いつも私の近くにいてくれる」

 ぱち、と暖炉の火が爆ぜた。

 コットは断りを入れてから、テオの体を後ろから抱きしめた。なまじ感受性の強いコットには、テオの抱える孤独が痛いほどわかってしまう。イェルスタで彼とその父親の溝の深さを目の当たりにしたあの日から、コットは彼への想いを一層強くした。

(傍に居られるだけで十分だと、思えたなら……)

 テオは、この距離にフェリクスを留め置いたりするのだろうか、とコットは思った。テオの指が奏でる旋律は、フェリクスのためのものだ。

 コットは目を閉じて、伝わる体温だけを感じることにする。今この時の、この鼓動だけは、誰にも奪うことはできない、テオとコットだけの思い出だ。コットは、雪が降っていなくてよかったと、小さく息をついた。

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