コットはテオの過去を知っている。それは、テオとコットだけが共有している秘密だ。コットがテオの傍を離れない理由であり、それを知ったことで、コットは彼を大切にするという思いを新たにした。

 彼は、帝国キアランの東端の港町イェルスタで生まれた。しかし母親とともに父親に疎まれ、虐げられていた。母親の死後、傷ついた心身を引きずって帝都アヴィオルにやって来た彼は、そのことを誰にも告げず、辛い記憶を胸の奥に押し込んで、孤独でいることを選んだ。

 そんなテオがコットを笑って受け入れた理由までは、コットは知らない。知らずとも、テオがコットを信頼し、見捨てることなく「大切な部下」と言ったのを、コットは覚えている。それで十分だった。

 十分なはずだったのだが、人間は欲のある生き物である。コットはそれを、今ひしひしと感じていた。

「どう? 君の好みに合わせたんだけど、おいしい?」

 満面の笑顔で涼やかな声を響かせるのは、帝国キアランの第三皇子フェリクスである。

 コットはテオの付き添いで、彼ら帝室の居住地である宮殿へと上がっていた。見たこともない調度品の数々と重苦しい空気に圧倒されながら、コットはテーブルを挟んで向かい合うテオとフェリクスから、少し離れたところに立っている。

(好みってなんだ)

 コットは一番にそう思った。テーブルの上にあるのは、茶器と、色とりどりの木の実が乗ったタルトレット、おまけにすみれの砂糖漬けまで添えてある。

(隊長はこういうのが好きなのかな。……どうしてこの方はそれを知っているんだろう)

 胸の内に湧き上がるのは、平たく言えば嫉妬である。コットが知らないテオの姿を、彼は知っている。それを思うと、何かもやもやしたものが腹の底に溜まっていく気がした。

 フェリクスはテオに対する好意を隠さない。机に肘をつき、組んだ指の上に顎を乗せて、にこにことテオの様子を眺めている。雪のように白い髪と肌、少し高い声、華奢な体つきはテオと同じ『男』とは思えない。女と言われれば信じてしまいそうだ。

 それに比べて、とコットは自分の体を見下ろした。本来ならライオネルと並んでいてほしい身長は、同年代の少女達よりも低い。フェリクスのような美しさもなければ、テオのような精悍さもない。とにかく中途半端なのだ。

「少尉、……少尉?」

「はいっ?」

 テオに呼びかけられて、コットの声は裏返った。どうやら何度か呼びかけられていたらしい。

「も、申し訳ありません。考え事をしておりました」

「殿下が、君もどうだ、と」

 コットは緊張した面持ちでフェリクスを見た。呼びかけを無視したことを、彼は特に気にしている風もなく、おいでと言わんばかりに手招きすらしている。

「し、失礼します……」

 コットはぎくしゃくした動きでテーブルに近づくと、空いている席に座った。フェリクスの後ろに控えていた侍女が、コットの分の茶を注ぎ淹れる。テオとフェリクスの間に挟まれる形となったコットは、緊張のあまり味のしない紅茶を一口飲みくだした。

「君のことは、テオから何度か聞いているよ。こんなに可愛い子だとは思わなかったけどね」

「殿下。コット少尉は幼く見えますが、それは奏術の行使による影響です。少尉は奏術に秀で、訓練でも繰り返し用いることが多かったため、成長に支障が出ており……」

 テオの言葉に、フェリクスは驚いたようだった。

「そんな無茶をしてはだめじゃないか」

 まさかたしなめられるとは思わず、コットは小さくなる。「違うんです、私は隊長のお役に立ちたくて望んでそうしているのです」——そう言えたら良いのにな、とコットは思った。言ったところで、テオはいい顔をしないだろうし、フェリクスもそうだろう。テオは厳しそうに見えて優しく、コットが無茶をすることを嫌う。

 テオは自分の説明が悪かったことを悟ると、言い直そうと言葉を選んだ。

「現在、コット少尉は私の許可なしには奏術の使用はできません。大切な部下です、無理をさせたくはない」

「そうか。……大事にしてもらっているんだね」

 二人の言葉に、コットの頬が熱くなる。茶器で隠して誤魔化そうとするも、耳まで赤いのではどうしようもない。それを見て、フェリクスは喉の奥で楽しそうに笑った。

「羨ましいな」

 何が、とは聞くことができなかった。テオに言ったのか、コットに言ったのか、あるいはその両方か——ただ、その言葉を発した時、フェリクスの目はどこか寂しそうに揺れていた。

 しかしそれは一瞬で、すぐに穏やかな表情に戻った。コットに茶菓子を勧めながら、フェリクスは話題を変える。

「ところで、君たちは〈砂の民レベク〉の音楽を知っているかい?」

 聞き慣れない言葉に、コットは首をかしげた。コットは音楽にあまり興味がない。幼馴染みのライオネルが音楽を嗜んでいるために多少聞きかじっている程度だった。

イルダンテ嬢は囀旋律ジャジィと呼んでいるようだけれど……」

 その名前が出て、テオは紅茶を飲む手を止めた。

 先日、テオは、教会前で騒ぎを起こしたクラウディア=イルダンテという少女を保護した。クラウディアは教会アトリアお抱えの作曲家だったのだが、囀旋律ジャジィに傾倒したために教会アトリアから放逐されてしまい、行く宛もないので、テオが面倒を見ているのだ。

「イルダンテ嬢は街のあちこちでそれを演奏しているらしいね。一度聞いてみたいんだけど、ここに呼んでもらうことは可能なのかな」

「なりません」

 テオが即座に否定したので、フェリクスは目を瞬いた。

「どうして? 異民族の文化だから?」

「いえ……」

 テオの言いたいことが、コットにはよくわかる。あの破天荒な少女が、皇子に対してどんな口を利くものか、想像するだに恐ろしい。特にクラウディアは、感情が昂ぶると口汚くなる傾向にあるのだ。テオは言い澱み、フェリクスからの視線から逃げるように目を泳がせる。

「その……囀旋律ジャジィが異文化であるがゆえにここに持ち込めない、というわけではないのです。ただ、……そう、イルダンテ嬢は今、風邪をひいていて」

 それは嘘ではない。テオがクラウディアを保護した翌日、彼女は熱を出したのだ。あの冬の寒空の下、水をかけられては当然の帰結だ。熱はなかなかひかず、医者にも診てもらったが、薬もあまり効果がない。とにかく安静にさせている現状で、演奏などできる状態ではないのだ。

「それは大変だ。お見舞いに行かないと。今どこにいるのかな」

「お控えください、殿下。見舞いに行く人間が病気をもらってはことですし……」

 テオはフェリクスをなだめる。クラウディアは自分の演奏を聴きたいと言っている相手を拒まないだろう。病床だろうが死の床だろうが起き上がって楽器を手に取るに違いない。彼女の音楽に対する情熱は、それほどのものなのだ。しかし、テオはそれを認めるわけにはいかなかった。

「うーん……そうか。それもそうだね。じゃあ、テオ、君が聞かせてよ」

「……は?」

 テオとコットは同時に声をあげた。

「君、鋼琴ピアノを弾けるだろう? 写譜や作譜は得意じゃないか」

 コットはテオを見た。フェリクスが言ったことは、またコットの知らないことだった。テオは固まってしまっていて、咄嗟に反応できていない。

「難しくは、ないと思います、が……」

 テオの歯切れは悪い。だがフェリクスはそれを気にすることもなく、「楽しみだな」と笑った。それに、テオは念を押す。

「よろしいですか、殿下。囀旋律ジャジィは、教会アトリアから弾圧を受けている文化なのです」

「分かっているよ、テオ。僕の言動の影響力は大きい。だから、このことは秘密だ」

 唇の前に人差し指を立てて、フェリクスは声を潜める。そしてコットの方を見ると、片目をつぶってみせた。コットは頷いたが、どこか釈然としない気持ちのままでいた。

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