コットが任を終えて第五駐屯所に戻った時、日は傾き始めていた。テオは少女を椅子に座らせ、机に向かって調書を作成している。コットが戻ったことに気づくと、テオは顔を上げて、「ご苦労」と短く言った。

「仕事分の俸給は出る。引き止めて悪かったな。助かった」

「いえ。街の秩序を守ることが、小官の務めであります。……」

 答えながら、コットは先程から一言も発さずに黙々と楽器の手入れをしている少女を見た。濡れた上着を脱いで、毛布にくるまり、時折くしゃみをしながら中弦琴ヴィオラの弦をいじっている。

 その横顔をどこかで見たことがあるような気がして、コットは腕を組んで記憶を遡った。確か、隣には幼馴染みのライオネルがいて、その時は音楽を聴きに公会堂に来ていたはずだ。壇上に登った第一奏者は、周囲に比べてずいぶん幼い姿をしていた。

「クラウディア=イルダンテ?」

 その名を口にすると、少女は楽器をいじる手を止めてコットを見た。その名は帝都アヴィオルに名高い『天才作曲家』のもので、同時に、教会アトリアが抱える典礼曲奏者のものでもあった。

 コットはその名と姿を知るのみであったが、まさかこんな場所で対面することになるとは思わず、目を瞬いて少女を見つめる。それに対し、野に慎ましいすみれ色の瞳は、思いのほか鋭くコットを射抜いた。

「だから?」

「あ、えっと……」

 苛立ちを含む声音に、コットはたじろいだ。明らかに気が立っている。クラウディアを初めて見かけたあの日は、もっと淑やかな雰囲気を纏っていたような気もするのだが、今はまるで別人のようだ。

「イルダンテ嬢、確認だ。君は教会前で自作の譜を演奏していたところ、中から出てきた司祭から水をかけられ、譜を奪われて火をつけられた——間違いないか?」

 テオが助け舟を差し入れ、クラウディアの視線がコットから外れた。クラウディアは「そうよ」と頷き、不服そうに身を乗り出した。

「あたしがずぶ濡れになる分には構わないけど、楽器は人間よりずっと繊細なのに、それに水かけようってんだから正気を疑うわ。しかも、普通その場で楽譜を燃やしたりする? 本当、火事にでもなったらどうするのよ」

「火の始末については厳重注意が下されるだろう。彼もなかなか思い切った行動をしたものだが、イルダンテ嬢、それほど苛烈な反応されるような心当たりは?」

 テオはクラウディアの言葉を聞き流しつつ、質問を続けた。コットは司祭の言葉を思い出す。確か、異民族の文化がどうと言っていた。クラウディアは顔をしかめ、吐き捨てるように答えた。

「あいつら、自分たちが作ってきた音楽以外は異端だっていうのよ。南部文化を毛嫌いして、最近とうとう『ケルスを侮辱する野蛮な営み』って言い出したわ。あんなやつらに曲を書かされるなんてもうごめんだから、お別れついでに一曲お披露目してあげたの。このクラウ様の生演奏に感謝こそすれ文句をつけるなんて、まったく、礼儀というものを知らないやつらだわ」

 礼儀の話なら、クラウディアもそれなりに口汚い言葉で司祭を罵っていた気もするが、コットはそれを飲み込んだ。テオはクラウディアの言葉が切れるのを待ってから、一呼吸置いて重ねて尋ねる。

「つまり、君が演奏していたのは——」

囀旋律ジャジィよ」

「ジャジィ……?」

 コットがその聞き慣れない言葉を繰り返した瞬間、クラウディアの目がきらりと輝いた。毛布を払ってすっくと立ちあがり、楽器を構えると、得意げな表情で弓を添える。

「知らない? こういう——もんよ!」

 止める間もなく、クラウディアは弓を思い切り引いた。音は矢を射るように速く、遠く伸びやかに響き、コットが知っている教会音楽とは一線を画していた。

 御堂に満ちる静謐さなどどこにもない。野原を駆け抜けたかと思えば木陰で休息し、息が整えばまた走り出す。彼女は楽譜を燃やされたというが、彼女の音楽は、楽譜という小さな紙片に収まりきるものではないように思えた。

 コットは声もなくただ立ち尽くし、体に直接響き渡り、語りかけてくるその旋律に引き込まれた。その韻律リズムはめちゃくちゃで、聞いたこともないはずなのに、どこか懐かしさを感じさせる。

 その時、コットは、この旋律は言葉そのものだ、と直感で理解した。クラウディアが奏でる音色は、まるで人と人が会話しているように聞こえる。喫茶店で、通りで耳にする人々の声そのもの——ゆえに、囀旋律ジャジィなのだ。

 演奏は、行列パレードが通りすぎるように、消え入るようにして終わった。クラウディアは満足げに弓を弦から離し、残響に耳を傾ける。そして深呼吸ののち、弓を持つ手を下ろした。

「どう? 本当は一人で弾くもんじゃないんだけど、楽しかったでしょう?」

 コットは我に返り、賞賛を込めて手を叩いた。クラウディアはそれに気を良くしたのか、腰に手を当ててうんうんと頷く。そこに、注意を引こうとするテオの咳払いが響く。

「イルダンテ嬢、ここは音楽堂ではない。憲兵隊の駐屯所、詰所だ」

「なによ、いいじゃない、たまには。それともこのクラウ様の演奏にご満足いただけなかった?」

 じゃあ特別にもう一曲、とクラウディアが再び弓を構えたところに、場違いなほど呑気な声が飛び込んできた。

「随分と賑やかだね、テオ-シャン少佐殿。誰か慰問に来てるのか?」

 コットは背後を振り返った。半開きになった硝子扉から帽子を取って顔を覗かせたのは、灰色の髪に赤い目をした男だった。

 焦げ茶色の外套を脱いで腕にかけ、畳んだ傘を脇に置いて、まるで自宅に帰って来たかのごとく自然に入って来たので、コットは慌てて道を塞ぐように男の前に立った。

「帰ってくれ」

 そして、テオは開口一番に男に冷ややかな声を投げかける。男はそれに大仰に肩を竦めた。

「出会い頭の挨拶にしては、ひどくないか? ……おや、そちらにいるのは、もしかしてイルダンテ嬢?」

 小柄なコットを押しのけることもなく、ちょっと背伸びするようにして、男はクラウディアに話しかけた。そして胸ポケットから名刺を取り出すと、流れるような動作でクラウディアに差し出す。

「〈ラダンジュ〉で記事を書いている、アレン=オレリックというものです。はじめまして、そしてどうかよしなに。まさかこんなところでお目にかかれるとは思っていませんでしたけどね」

「帰ってくれ、アレン。君に出す茶はないし、ここで商売をさせるつもりもない」

 テオがアレンの手から名刺を奪う。アレンは「ただの挨拶じゃないか」と口を尖らせて不満を訴えたが、テオにひと睨みされると黙り込んだ。どうやら二人は知り合いらしい、とコットはテオとアレンの顔を交互に見やる。

「珍しい音楽が聞こえたから覗いてみたら、子供が二人。どこかの教室と間違えても仕方ないだろう?」

「しょ……小官は子供ではありません!」

 コットは反射的に反論した。確かに、コットは同じ年齢の子供たちに比べると小柄だ。士官学校に入学した頃から、成長はほぼ止まってしまっていた。

 さすがにクラウディアほど小さくはないが、上官のテオとは頭一つ分の差がある。憲兵服も特別に仕立ててもらったもので、それを着ていなければ機関車に子供料金で乗れた。友人たちには羨ましがられるが、不法行為であるし、何より悔しい思いがする。コットが頬を膨らませていると、アレンはくすりと笑った。

「本当に憲兵さんなのか。じゃあ、今後の成長に期待だな」

「アレン、仕事の邪魔だ」

 テオは立ち上がり、アレンを詰所の外に連れ出そうとした。アレンは慌てて、クラウディアに手を振る。

「さっきあなたが弾いていた曲に興味があるんですよ。お手すきの際にご連絡を」

 ぴしゃりと扉が閉められ、傘とともに締め出されたアレンの声が遠くなった。アレンはそれ以上食い下がることなく、程なくして雑踏に紛れ通りの向こうに消えていく。

「なんだったの、彼。新聞記者とか言ってたけど」

 コットの疑問を、クラウディアが代弁する。机に戻ったテオは、面倒臭そうに名刺を端に放り投げた。それを、クラウディアは手に取る。

「ラダンジュ、って文芸関係の新聞でしたよね」

「そうなの? 新聞とか読まないから、分からないわ」

 コットの言葉に、クラウディアは少し考えるそぶりを見せた後、名刺を楽器の弦に挟み入れる。雑だと思わなくもないが、濡れた服のポケットに入れるわけにもいかないのだろう。

「売れない記者だよ。記事になるものをいつも探している……が、陰口は嫌う」

 テオの評にある種の親しみを感じ取って、コットは合点がいった。二人はそれなりに仲の良い知人なのだ。テオは公私を分けるが、アレンの公私は同じ延長線上にあるものなのだ。

「ふーん……それで、私に聞くことはもうない? そろそろ帰りたいのだけれど」

 もう一曲と言っていたが、その気はもう失せたらしい。気分の移り変わりの激しい子だな、とコットは思ったが、テオは慣れた様子で頷いた。

「十分だ。だが外での演奏には気をつけなさい。また水をかけられたくなければ」

「そういう理不尽な仕打ちから善良な市民を守るのが憲兵隊の務めでしょ?」

「もちろん、力は尽くそう。だが、我々は人々の感情まで制御できるわけではないし、その権利もない」

 だから無謀は控えるように、とテオは念を押した。クラウディアは納得しかねると目を眇めていたが、最終的には折れて頷いた。

「イルダンテ嬢、君の家まで付き添おう。少尉、君の仕事も終わりだ」

 テオは調書に判を押すと、それを引き出しにしまった。

「嫌よ」

 馬を呼ぼうと壁にかけた外套に手を伸ばしたテオに、クラウディアは短く答えた。

「付き添いなんていらないし、家にも戻らない」

 テオとコットはクラウディアを見つめたまま、咄嗟に反応できずにいた。

「どうして?」

 コットがそう尋ねたのも、ごくごく自然なことだったろう。十三歳の子供が、家に戻らずに行くあてなどたかが知れている。ゆえに、理由が重要だった。

 コットの疑問に答えたのは、クラウディアではなくテオだった。

「彼女は教会アトリアのバラルド司教の息女だ。教会前で騒ぎを起こした以上、責めがあるだろう」

 クラウディアは沈黙でそれを肯定した。そして、テオに向き直る。

「送ってくれるなら、さっきのアレンとかいう記者の所に連れていって」

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