序曲 – Ouvertüre

 行きつけの喫茶店で遅い昼食を済ませ、コットは店の外に出た。古い石造りと鉄が相なす街並みを行く人がまばらなのは、ちょっと前に降り出した雨のせいもあるかもしれない。

 憲兵隊の外套はある程度水を弾いてくれるが、道行く人々の服はそうでない。傘を持たず屋根を必要とする者が、コットと入れ替わるように、何人も店の中に消えていく。コットは憲兵隊の制帽を被り直し、なるべく雨に濡れずに家まで帰ることができる道筋を頭の中に思い浮かべた。

「コット」

 と、その時、コットは突然横合いから声をかけられた。店の角を足早に曲がってそのまま大通りの向こう側へと渡ろうとしていたその青年は、喫茶店の前に佇む憲兵服を見咎めて戻ってきた。

 青年の声を聞いて、コットは思わず背筋を伸ばした。青年——テオ−シャンはコットの上官であり、先程屯所で別れたばかりだった。

 この帝都アヴィオルではほとんど見かけることのない黒髪は、海の向こうの東の大陸の血を引くことを示す。今は雨にしっとりと濡れ、前髪は額に張り付き、その隙間から青い瞳がコットを見下ろしていた。走ってやや乱れた息遣いが思ったよりも近くに感じられ、コットの心臓が跳ねる。

「すまない。帰る前にもうひと仕事手伝ってもらえないか」

 憧れの上官からの頼みごとを、コットは断れない。頭一つ分も高い彼を近くで見上げると首が痛むのだが、そんなことも気にならないほど、コットは彼から頼りにされたことを嬉しく思った。

「はい。ご命令とあらば、隊長」

 踵を合わせ、胸に右手を添える帝国キアラン式の敬礼で応えたあと、コットは小首を傾げた。

「それで、そんなに急いでどちらへ?」

 テオが制帽を被るのも忘れ、徒歩でいるというのも珍しかった。帝都アヴィオルの憲兵隊は騎馬を用い、見回りも出動も馬と一緒だ。しかし彼の青毛の愛馬ロッドは姿形も見えない。となれば近場で何かあったのだろうと推測できる。テオは頷き、大通りの建物の向こうを指し示して声を潜めた。

「教会前で騒ぎだ。それにくわえて暴れている奴がいるらしい。少尉、君は前に出なくていいが、状況を確認次第、他の隊への伝令を頼みたい」

「了解です」

 コットは伝令兵だ。半年前に士官学校を卒業し、士官候補生としてテオの下で訓練を受けた後、先日正式に少尉に任じられた。少尉、と呼びかけられるたびに、コットの心は浮つく。それを見透かしてか、テオはコットの肩を軽く押さえるようにして叩く。

「逸るな。落ち着いて対処せよ」

「はっ」

 喫茶店の前で何やら神妙な面持ちで話し込む憲兵二人を、人々は訝しげに見ていたが、テオがなんでもないと手を振ると、視線を外してそれぞれの日常に戻っていく。その合間を縫うようにして、コットはテオの後を早足に追いかけた。

「隊長、というのは……」

 コットは前を行く背中に尋ねた。昨今、教会絡みの騒動が絶えないのだ。それはこの帝都アヴィオルに住まう移民と深い関わりがある。テオは腰に下げた二本の軍刀サーベルに軽く触れ、荒事になるかもしれないことを示唆した。

 教会前には、騒ぎを聞きつけた見物人の垣ができていた。それを、先に到着していた憲兵たちがなんとか解散させようと試みている。

「ふざっけんじゃねェわよ!」

 声をかけながら人垣をかき分ける二人の耳を、甲高い少女の怒声がつんざいた。

 コットは思わず足を止めて、階段の上を見上げた。少女は、鉄桶バケツの水を頭からかぶったように全身ずぶ濡れで佇んでいた。その手には、少女の小柄な体躯も相まってやや大ぶりに見える中弦琴ヴィオラがあり、足元には焦げた楽譜が散らばっていた。

 観衆に背を向けている少女の表情は見えないが、相対する司祭は厳しい顔つきで少女を睨み下ろしている。

「この、クラウ様が書き上げた楽譜の、どこが気に入らねェのか言ってみなさいよ!」

 少女が司祭に掴みかかろうとしたのを、テオが階段を駆け上がって少女の体を後ろから押さえ込み、阻止した。少女は力一杯暴れているようだったが、背も高く成人している男の筋力に敵うはずもなく、引き剥がされる。

「消火!」

 テオが周囲の憲兵に鋭く指示を出す。コットは手際よく近くの消火栓を開け、他の憲兵たちと協力して、くすぶる大量の紙片を鎮火させた。ものの数分の出来事だったが、あたりは騒然としていた。

「楽譜も読めねェ憲兵なんかに用はないわ!」

 少女はまだ昂奮の最中にあった。

 その潤んだ紫色の瞳と目が合い、コットは息を飲む。その目元は悔しさに赤く滲み、表情は悲痛に歪んでいた。年の頃は十二、三といったところだろうか。幼い体躯に余る怒りが行き場を求めて荒れ狂っている。テオはそれをなんとか押さえ込みながら、司祭と向き合った。

帝都アヴィオル憲兵隊、テオ−シャン少佐です。司祭様、これはどういうことでしょう」

「彼女がこの神聖な御堂に異民族の文化を持ち込もうとしていたので、廃棄したまでです」

 司祭の声は、まるで説法の一節だと言わんばかりに大きく響いた。それに反応した聴衆がざわめき始めるのを見て、テオは声を低くして応える。

「……処理は焼却炉でお願いしたいものですね。灰も飛びますし、なにより火事の危険がある。あなた方の信仰に口を挟むつもりはありませんが、お互い節度ある言動を心がけてください」

 司祭は鼻を鳴らし、不満そうに本堂の中に消えた。取り残され、暴れ疲れた少女が大人しくなるのを見計らって、テオは後処理を他に任せる。

「君からも話を聞かせてもらおう。いいね?」

 有無を言わせないテオの様子に、少女は不承不承頷いた。

「少尉、『は鎮火、応援の必要なし』だ。各隊に報せよ。その後、一度屯所に戻るように」

「はっ……」

 テオは外套を脱いで、ずぶ濡れの少女の体が冷えないようにと、その細い肩にかける。コットは二人の様子が気になったが、命令を優先し、その場を離れた。

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