『8番』さんは大凶です。

 舟橋丁ふなばし あたるは冴えないサラリーマンである自分の人生に嫌気が差していたところだった。

 かといって何か行動を起こせるわけでもない。

 日々の生活に溜まった鬱憤を何かで、誰かで晴らしたいけれど、忙しさにかこつけて、出来ない振りを続けて来た。

 だから、それはほんの出来心だった。

 たまたまたどり着いたそのサイトで、つい、参加してしまった。

 当選の通知が届いて、スマホで登録の手続きをしたものの、詳しい説明はすっ飛ばして読まなかった。長ったらしい文章に、何が書いてあるのか怖くなり、なんとなく読む勇気がなかった。

 丁の悪い癖である。嫌な事は目をそらして取り敢えず先延ばしにしてしまう。

 分かっていることは、逃走役に選ばれた『運の悪い人間』を捕まえればいい、ということ。要するに鬼ごっこの鬼になって、勝てば良いのだ。しかも、自分には同じ役割の仲間が他にも沢山いる。丁は多数の内の一人に過ぎない。

 なんなら、ソイツに出くわす事なく実験が終了してしまうなんて事も十分あり得る。

 丁はくじ運が悪い。

 どうせ、外れる。

 いつだって、そう思って生きている。


 その日、丁は休日出勤だった。

 つまらないトラブルに巻き込まれたのだが、巻き込まれるのは丁の日常茶飯事なので、仕方がない。

 報告書をまとめに会社に戻ろうと、信号待ちをしながらもう何度目か分からない溜め息を吐き出した丁の目が、ふと、ある青年に吸い寄せられた。

 なんの事はない、普通の青年だ。

 それが、妙に目を引いた。

 落ち着きなく視線を迷わせて、まるで『何か』から逃げているような。

 いつの間にか、スマホに通知が来ていた。面倒事からはなるべく逃げたい丁は普段通知を無視する傾向にある。

 あの実験のサイトから、逃走役の画像が送信されていた。

 目の前の青年だった。

 いきなり大当たり。朝のテレビの占いでは真ん中より下の微妙な順位だったこの俺が。

 一見すると大学生ぐらいに見える青年だった。三十代も半ばになり、最近運動不足が気になる丁の脚で追えるのか?

 正攻法では無理だろう。スタミナがもたない、絶対。

 実験の開始までのカウントダウンが始まった。最近忘れていた胸の高鳴りを震える手で押さえつつ、青年の後をつける。尾行なんて初めてだ。刑事にでもなった気分だと多少浮かれる。

 それにしても可哀想にと、少し前を行く若者の背中を見ながら思う。

 あっち側じゃなくて良かった、と。


 そして、始まった。

 スマホからアラームが流れ、びくりとする。

 ビルの狭間で、青年が何やら腕時計に向かって誰かと会話をしているのを、丁は好機と踏んだ。

 今しかない。

 丁には、これしかない。

 相手が油断している内に、後ろからそおっと近付いて、捕まえよう。

 卑怯とか考えるな。実験の主催者の思惑とか主旨とか丁にはどうでもいい。

 これで賞金が貰えるなんて、なんておいしい話なんだろう。

 さっきまでの青年への同情なんぞなんのその。

 丁はその哀れな背中に近付いて手を伸ばす。


 その時である。



「あーーーーーーーー!!ずっこいでおっちゃん!」


 ビルの谷間で若い声が反響する。

 そして、あっさりと、丁の獲物が逃げ出した。

「ああっ、」と嘆いて、反射的に丁も駆け出すしかなかった。何の準備もなく、ただ走る。

 こんな筈じゃなかったのに。畜生。

 案の定、少しずつ引き離されていく。意地でなんとか見失わないように付いていく。すぐに息が上がった。死にそうだ。

 ネクタイに手を掛ける。それは、丁の目印だった。

 この実験に参加する為の、丁に与えられた目印『赤いネクタイ』。丁は派手な色が似合わないので、なるべく地味なのを選ぶのに苦労した。

 丁は『8番目』の追跡者だ。今日の占いの順位と同じ。しかも、

 ラッキーカラーは『赤』。何もかもが運命のように思えた。

 いやそれなら、どうせなら可愛い女の子を追いかけたかった。とか言ったら捕まるのは俺か…。

 程なくして限界が訪れた。

「うわっ、とっ…」「ッ!?」

 キャップをかぶった高校生ぐらいの少年が脇道から飛び出してきた。突然の事で対応がしきれない。避けようとして、転びそうになる丁へぶつかりかけた少年がさっと手を差し伸べてくれた。

 大丈夫かとか、そういった類いの声を掛けられたと思うが、丁はそれどころではなかった。

 止まらざるをえなくなった丁は荒い呼吸を整える。咳き込みながら、青年の背中を恨めしく見送って、日頃の運動不足を後悔する。明日は筋肉痛に違いない。嗚呼、損をした。自分は肝心なところでいっつもこれだ。情けない。

 しかし、どこかほっとしている自分がいる。

 これで良いのだ。

 あの青年の目を見たか?

 あの、怯えた目を。思わず追い掛けて捕まえたくなる、あの『獲物』の目を。あんな目をされたら、放っておけないではないか。

 嗜虐心なんか感じたことはない、今日までは。だから、怖くなった。こんな事、きっと自分には向いていない。

 さっきの少年には感謝しなければいけない。お陰で踏み外す前に、日常へと戻る事が出来る。

 途中で鞄を投げ捨てて来てしまったようだ。少し後方、遠目に見える路上の鞄にほっとしつつ、来た道を戻りながらひたすらに反省した。

 せめてもの罪滅ぼしに、このまま登録だけはしておいて、丁が『8番』枠を埋めておけば良いだろう。神に誓ってもう追わない。だから、どうか、先程の卑怯な自分は無かったことにしてくれないだろうか。


 そんな――それこそ卑怯な『逃げ』を考えていた丁の視界が

 急に、大きく傾いた。

 何かに一瞬にして奪われた。それだけを悟る。理解は出来ない。しかし、確信する。今ので何かを失ったのだ。間違いない。

 何が起きたか分からないまま、いっぱいに広がる空を呆然と見つめる。丁の好きな空だった。暫くはこんなにゆっくり眺める時間も無かった。いや、時間はあっただろうに。ただ、余裕が無かった。いつでも出来るから、いつかやればいいと思っていた。丁にとってはそういうものの一つだった。


 そういえば、今年のおみくじは大凶だった。

 なんとなく思い出してしまい、後悔した。

 思い出した事を?おみくじを引いた事を?どちらかは分からない。


 もう

 何も かも


 分からない。

 わからなくてもいい。



 丁の出番は、これで終わりだ。


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