藻屑になりたい女の子に出会った夏の日

「海の藻屑になって消えてしまいたい!」


 そんなふうにひとり、崖の上で叫ぶ女の子に出会った夏の真昼。

 真夏だ。日は容赦なく燦々と照りつけて、地面をこんがりと焼いていた。安っぽいビーチサンダルの底からじんわりとぬるく熱が足裏に伝播する。

 ぬるい潮風と規則正しい波の音をかき消すように、全身全霊の絶叫をぶちかました女の子は驚いた顔で僕を見る。

 誰もいないと思っていたのだろう、誰もいないからこそ叫べていたのだろう、ぱくぱくと口を動かした。

 まるで酸素が足りていないみたいに。鰓呼吸を忘れられない陸に打ち上げられた魚みたいに。


 大きなまん丸の瞳を見開き、きょどきょどぐるぐると動かして「あ」だの「う」だの言葉にならない掠れた呻きを吐く。そしてケホンコホンと季節外れの軽い咳を繰り返す。

 どうやら叫びで喉がすっかり焼き付いてしまったようで、女の子は喋るのを諦めた。


 言葉なく、じっとりとこちらを睨む。まるで不審者を見るように。事実僕は不審者なのだろう。

 うら若き乙女の背後に気配なく現れた取り立てて特徴のない大学生こと僕は、年下らしき少女にとっては警戒すべき相手らしい。


 いやはや近頃の女の子は警戒心が強くていらっしゃる。

 いいことだ。良いことだろう。

 きっと今時、一目惚れなんてものもありはしないのだ。そんなのは治安悪化の助けにしかならない。

 

 けれどいくばくかの理不尽さに首をすくめてみたくなるのも僕の至極真っ当な心境だった。だって、ほら。

 誰かさんが奇声絶叫ぶちかましたせいで、僕はうっかり見つけてしまっただけ。見つけさせられたと言ってもよく、いわば被害者に過ぎない。


 まったく。

 平穏で凡庸な夏休みのど真ん中に、あんな……今にも死んじゃいそうな、悲鳴を。聞かされる身にもなってくれ。

 まあ、今際の叫びにしては少々元気と威勢がよすぎたわけだけど! 

 よすぎたから、そのままアグレッシブ身投げをしそうでちょっぴりはらはらしたりしなかったり、しないわ。普通にしない。


「いや、僕は通りすがりの見知らぬ人なので。どうぞお気になさらず、藻屑さん」


 何言ってるんだこの人、みたいなすごい目で可愛い顔を台無しにして、藻屑さんは僕を睨む。

 呼び名に意を唱えようとしたのだろうけど再び咳き込んでは諦めた。

 ここから立ち去る気はどうやら無いらしい。


『去るのはあなたの方でしょ』 


 そんな雄弁な表情。こっちの事情なんて御構いなしだ。

 僕だってここに来たのには結構のっぴきならない事情があったりなかったりするわけなんだけど。藻屑さんにはどうだっていいらしい。


 自分の事情が一番大事で、それだけがおおごと。そんな意見には僕だって大賛成。

 別に彼女は何も言ってはいないけど。


 第一、人が崖に来る理由なんてそうそうあるわけもないのだから。

 釣りか身投げか絶叫か、追い詰められた犯人でもなくば来やしない。

 僕だってそのどれか。


 さて問題だ。一体僕は何のためにここにいる?

 釣竿もなく遺書もなく、当然凶器の類もない。

 僕が持っているのはポケットの中でチャラチャラとうるさい小銭とアイスだけ。

 快晴みたいな色のアイスは袋の中で少し溶けかかっている。


「藻屑さん、アイス食べる?」


 なぜ? と首を傾げる彼女。


「喉を冷やした方がいいだろうから」


 彼女はしばらく考え込んで、黙って頷き受け取った。



 僕らは丸太模様のベンチに座りこむ。

 アイスを齧る藻屑さんはやはり口を利きはしない。

 ちみちみと小さな口で水色を齧り、焼けた喉を潤していく。


「海は好き?」


 藻屑さんはかぶりを振る。控えめで確かな否定。

 口をゆっくりと動かした。

『あなたは?』と。


「嫌いだね。楽しい思い出しかない。思い出したくもない、最高の思い出ばっかりだ」


 海に攫われもう二度と帰らない、そんな思い出が多すぎる。


 そして沈黙。響くのは波と海風、シャクリとアイスを噛む音だけ。

 藻屑さんは陸に打ち上げられた人魚のような途方にくれた瞳に、遠く、水平線を映している。


 ああ、本当に。このまま消えていけたらどれほど素敵だろう。

 僕は目を瞑る。

 少しだけ。


 ──とん、と肩を叩かれる感触。

 ぱちりと目を開く。

 いつの間にかアイスは食べ終えていたらしい。

 藻屑さんは苦笑して、棒を僕へと差し出した。

 残った棒には味気なく、『あたり』の文字。


 僕は驚き顔を見合わせる。この世にあるのは知っていたけれど、実際に見たのは生まれて初めてだ。

『どうしよう?』と目で問いかける。まるで僕まで喉が焼けてしまったみたいに、声の出し方を忘れてしまった。


『決まってるでしょ』そんな笑み。

 まだ喉は焼け付いたまま。

 藻屑さんは立ち上がる。

 無言。有表情。坂道の下を指差した。


 僕に背を向け駆け出していく。

 魚のように緩やかに、泳ぐように駆けていく。向かうは坂道の下の売店へ。

 あの安っぽい青色を、焼けた喉には気休めにしかならない砂糖と氷の塊を手に入れなくっちゃいけないから。


 濡れた髪、焼けた喉、白いワンピース、伸びる白い足。

 僕は彼女の後ろ姿を眺める。

 ふ、と無理矢理に硬直しきった頬を動かして、笑って。


 ──誰にだってきっと、藻屑になりたい日はあるのだきっと。


 その理由は彼女だけのもので、そして僕だけのもの。

 彼女は振り返り、手を振った。

 僕は急ぎ後を追う。




 声は叫びと共に崖から落っこちて、海に溶けて消えてしまったけれど。

 その足で、どこまでも駆けていけばいい。

 泡になるには今日は天気が良すぎるから。

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