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「に、兄さん!やったよ!ぼ、僕…新しい魔法、使えるようになった!!」


 綺麗な物を見出して持ち寄る子供のような眩しい表情を浮かべ、息を切らして俺の部屋へ飛び込んできたノアは。初めて魔法を成功したことにこの上ない達成感を得ていたあの頃の様子を彷彿とさせる明るさを纏っていた。


 ノアが十五歳、俺が十七歳の頃。

 ついに、ノアの中に眠っていた潜在的な才能が長い期間を経てその片鱗を開花させたのだ。

 濃紺の色を持つ弟は、俺の濃い緑と近しい存在に例えたその昔。俺が大地でお前は空の色だと言う言葉に喜んで、照れくさそうに笑っていたのを思い出す。それならあの子は太陽だねと純粋に空に手を伸ばしていた子だった。時が経つにつれ、自分の色には全く遠く及ばない状態の力に落ち込むことが重なっていき。理想の図と年々掛け離れていくことに諦めと悲しみを増幅させていた。

 魔術を引き出すと言う、魔術師であればそれこそ息をするように自然に出来る行為でさえノアは一苦労した性質だったから。例えるなら、赤ん坊が床を這いずり、そこから掴まり立ちを覚える過程のようにそれこそ別段教えなくても自然に出来る工程がそれに当たる。俺も当然、魔術を引き出して魔法発動に至るまでは何の教えも無く出来た性質だ。外の世界じゃ、赤ん坊の頃から魔力が強すぎてその時点で無意識に目茶苦茶に魔法を使ってしまうという現象もあるらしく。ピンからキリまで事例はあるが、魔術師の体は基本的に魔力器官と密な関係として収まっている。

その頃から既に、出来て当然のことが出来なかった弟に対して誰も責める人間はいなかった。日常での様子も健康そのものであったし、人より少しだけ苦手なだけの子供なのだと皆で微笑ましく見守っていたくらいで。その微笑ましさが、まさか錯覚していたものだと思わなかった。誰が大病の兆しだと知り得たことだろうか。


「ほ…え?本当か!?え、えっ!ノア!?」

「ほ、ほんと、ほんと!天啓って言うのかな、魔力器官の調子が少しだけ良くなった感じがして!それで試したらね、すごい魔法が、出来るようになったんだよ……!」


 すごいんだよ!これならいつか絶対どこでも行けるよ!

 瞳に星の瞬きを宿しながら、心から喜んでいたノアに俺も抱き付いて。良かった、良かったなあとその大きな幸せを分け合ったものだ。どう説明していいか分からず嬉しさで一杯になった頭のまま、それだけが先走った話し方は…まだ諦めを持っていない頃のあどけないノアそのものだった。

 俺の弟が駄目なわけなんか無い、報われないわけも無い。どんなに落ち込んで、大きい壁の前で突っかかって泣いたことが多かったとしても、それは力が弱いと言う証明にはならないのだから。立ち止まったことも山程あれど、それでも絶対に後ろの方へ逃げることはしなかった。大きな悲劇が襲い来ようが、幾ら俺に遅れようが、苦悩した日々の階段をひとつひとつ前だけへ進んでくることしか弟はしなかった。そこに驕りも自惚れも無く、ただ努力を積み重ねてきた。秀才と評される程の色を持ちながらも実力が全く追いついていなかった現状を受け入れて、その恐怖と戦いながら独学で俺と頑張ってきた。


 だから、ようやく報われることがノアにも許されたのだと思った。


 …個々が行使出来る魔法は己にのみ与えられた祝福である。

 魔力さえ通せば設定された魔法が使える魔道具や、汎用魔法として広まっている非常に威力が弱く安全性が確立されているもの以外。自分だけの珍しい性質の魔法を持っていることは、濃い色を纏う魔術師にとっては少ないことでは無いと聞く。

 かく言う俺も最近は山神の権能しか表立って使うことが無いが、水魔法の他に空間魔法を習得したノアのように…俺本来の魔法として与えられた特別な祝福がある。ただ接客業には相応しく無いものであると言うのと、ノアと動物もとても怖がると言う点があり。小さい頃に数度練習してとりあえず覚えた後は使う陽の目にも当てないようにして来た。

 才能を秘めた魔術師であるならば持てる特別な魔法が、長い期間を経てついにノアの扱えるものになった、彼のここまでの過程を知っているだけにこの時の感動も一入ひとしおで。


 ノアが新しく使えるようになった移動魔法は、非常に珍しい空間系の魔法である。魔術と錬金術の併合技術が発展した今では魔道具だけで無く、陣にシステムを組み込むことで移動出来ることには出来るが、それを人間の身体ひとつだけで可能にする移動魔法は希少価値が高い。例え元素魔法を極めた者だとしても、教えられて習得出来るわけでも無い領域の話になってしまう。それこそ、家継魔法や元から使えるような術者で無ければ扱う資格さえも無い程の珍しさ。

 それ程までの能力をノアが秘めていたこと、発露したこと。それはこの世界の下で、弟が輝くことを許されたと同義。自分のことのように幸せだった。


「ああ、嬉しいなあ。本当に、嬉しいよ、兄さん」


 これからもっともっと一人前の魔術師になれたら、と国民識別書の更新の際に刻まれた「空間魔法使用者」の文字を何度も指でなぞり確認するノアがそこにはいた。精霊魔法使用者として既に登録されていた俺と同じように、特別な魔法使用者であることを認められた証拠の写しを彼は今も自室へ大切にしまい込んでいる。

 すっかり高くなった背丈に長くなった手足。年月が経ったことで、全てが遥か昔のことのように俺達二人は小さく弱いかたちから一変した成長を見せていた。


 それからも、弟はあの子の為にと努力を重ね続けた。あの子を迎えに行ける力を手に入れたからには、と移動魔法の特訓を初めて。最初は山奥の家の範囲だけの距離しか飛べなかったと言うのに、コツを覚えて経験を積めば積む程ノアの可能性は広がっていったのを覚えている。眼を見張る成長の幅を見せつけられた、徐々に蓄積されてきた空間魔法使用者としての経験がかつてのノアの自信の無さを少しずつ補強していって。山から王都の市場までへの移動でさえこなせるようになった日には、えらくきつい反動に泣きながら嘔吐していたが。やったよ、と俺に何度も嬉しそうに言うものだから。

 例えばもしここで、病の疑いを勘付いていたとしても。俺はきっと、止められなかった。無茶で無謀に見えたとしても、夢への階段をもうじき登り切る彼を前にして、その魔法を使うなと言えないのだ。

 だってノアにとって、あの子の存在はノアの命よりも大事だと感じていただろうから。あの子に対する覚悟は、俺が山神に捧げる信仰の色とよく似ているように思った。それは言葉に出して確認したわけでは無い、血の繋がった兄弟だからこそ自然に感じたこと。言葉にしようも無い想い。ある存在へ全てを捧げて生きていく、そんな希望を持った点が、俺達を似た者とする要素。



「兄さん、出掛けて来るね」

「ああ、気を付けて行ってこい、ノア。告白うまくいくといいな!」



 だから、俺はあの背中を晴れやかに見送れた。ようやく迎えに行ける、産まれた日から一番待ち望んだ日とまでこの弟に言わせた存在を、攫いに行ったあの背中を。

 お前の努力は無駄なんかじゃなかった。例えその愛の終着点が純粋でも、歪でも、お前の中に出来た揺らぐこと無い芯が決して不幸にはさせまいと足掻き続けるだろうから。

 …弱虫だった。泣くことも昔は多かったし、不遇さに足を止めることもあった。それでもその日を迎えるまでに歩いてきた道のりは、絶対にノアを裏切らない。何度だってノアを立たせてくれる筈。それは、あの子を無事に連れ帰ってきてから余計に強く感じるようになって。

 これからだ。結ばれることがゴールなんかじゃない、本当のノアの幸せは、これから積み重なる筈だったんだ。無茶を通し続けた分、いつかは報われると信じて疑わなかった。

 …振り返らなかった後ろの道の影の中に、病魔と言うものが沈んでさえいなければ。


 × × ×


「――なるほど、わかりました。お辛いでしょうに、お話ありがとうございます。症状もこと細かに記憶されていたようで、大変助かります」


 話せるだけを、ありったけ話した。

 今思えばあれは異常だったのかもしれないと、気にも出来ず通り過ぎていた記憶を拾い上げて。元々のノアの性質、ノアが魔法が使えなくなった頃、本当の才能が開花した際の様子も記憶にあるだけを取り出して非常に細かく話せるところもあった。そうならざるを得なかった背景も語らねば成り立たない故、横にいるエリーゼちゃんにとっては初めて知らされることばかりだとも思う。

 いつかはノアから教えただろう、辛い記憶をこんな形で彼女に聞いてもらう事になるだなんて。ただそのことに申し訳なく思う。


「…先生、少し休める場所はありますでしょうか。今の兄君は、ひどく顔色が悪いです」

「エリーゼちゃん、」


 どんな様相を俺はしているのだろう、自覚のある感情ばかりをひっ被ったせいかもしれない。ラム先生にそう申し出る彼女が、神妙な面持ちで俺を見つめていた。


「いいです、今は喋らず。…震えています、無理だけはしないで下さい」

「…ごめんよ、二人してこんなんじゃ、情けないなあ…」


 彼女の気遣いが骨髄にまで染みてきそうだ。

 こんなに良い子を、どうしてこのように悲しい顔にさせてしまったのだろうか。

 眠るノアを思う。

 目を覚ましたら、この子とまた会えたことを何よりも喜んでほしい。家のことも、治療費のことも、何もかもを気にしないで、この子とまだ生きれることに夢中になってほしい。この子を一番最初に、目に映してほしい。

 ぐったりと疲弊した精神のまま、そんな当たり前のことを俺は願っていた。

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