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 ノア。そう呼べば、いつだって弟は返事をくれた。何をしている途中でも、反応してくれた。弟を呼ぶ時に、おい、だのという呼び方は一切使ったことが無いくらい、名前を呼ぶ行為が好きだったのかもしれない。何故かって、父さんや母さんに名前を呼ばれるのが俺も大好きだったから。

 けれど。自分の名前を呼ばれても、反応することが出来ないくらい。ノアも、俺も、ひどく憔悴しきった時期がある。あの頃のことは、もう二度と思い出したくない程。けれどこれを話すことで少しでも、今のノアの状態を良くする為の役に立つのなら。心の傷ごと抉り出したって構わない。

 大切な人の最期が何より無惨な形で訪れた時のことは。まるで永遠に完治しない火傷のように、いつまでも心を焦がし尽くす。じわじわと中から嬲られる悲しみの傷は、二人にとってあまりに深すぎた。


 あれは、ノアが九歳。俺が、十一歳の頃。俺達が子供のまま、それでも生きなければならない決意をせざるを得なかった出来事。


 両親を、土砂災害で亡くした日のことだ。


 × × ×


 地獄を模した光景のようだったと、今もあの錆びついた色が思い起こしてくる。


「母さんっ!!父さんっ!!返事をして!声を、こえをだして、お願い!瞬きだけでもいいから、動いて…動いてよ……」

「救護隊!救護隊に連絡つけてる人いますか!!誰か!お願いします!!こっちにも直撃した人がいるんです!」


 湿った土を濡らすのは、雨だけでは無い。そこかしこで人の血を吸った土石流の中には、先程まで命だったものが無理矢理に詰め込まれていた。

 ノアが呆然としながら呼びかける、大きな岩の下。今にも千切れそうな片腕だけが、そこから生えて、いて。かあさん、とうさん、壊れた機械のように二人で何回も何回も呼びかけ、血がどんどんと抜けて冷たくなる腕を握っていた。ぼろぼろとこぼれる涙も地面は吸っていく、けれど無慈悲に命と共に全てを奪う土は、抗う術など既に無いとでも告げるかのような冷たさになっていた。

 誰か、誰か呼ばないと。

 いち早く現実へ戻ったのは、俺の方だ。連絡を取れるもの、それで助けを呼ばないと。はっ、はっ、と呼吸が乱れることも構わず荷物を取ろうとしたけれど。既にそれらも岩の下…父さんが全てを持っていたから、もう大の大人の手でも掘り出さない場所に埋まってしまったことを察して余計に涙が押し出された。大声を出して、周りに助けを求めに行く。どうして、俺達はただ旅行に来ただけなのに。さっきまで本当に楽しんでいたのに、何でこんなに簡単に全てが変わってしまったんだよ。

 家族皆で見た綺麗な海の風景の記憶が、血に濡れた土に穢されていく。王国への帰路を辿る最中のこと、観光客も多く通る緩やかな参道を馬車で行く平穏な時間を過ごしていた筈だったのだ。

 誰か助けてと叫んであたりを走り回った。周りにも被害を受けた人はたくさんいて…片足が飲み込まれてそこから動けない人、ひどい裂傷を受けてぽたぽたと血を垂れ流しながらしゃがみこむ人。俺以外にも聞こえる、更に小さな子供と思われる泣き声。痛みに苦しみ、呻く声がそこかしこに響き渡る。平時なら有り得ない程の土砂が注いだ道には元の面影は既に無く、この場所の自然を壊した土石流が壁のようにそこかしこで高く積まれた状態で止まっていた。こんなの、救助が来るまで、まともに外側へ出ることすら叶わない。

 泣き声が溜まり続ける空間、叫びすら出せなくなった人。何をどう見積もろうが、夥しい血が流れている人間が幾人も埋まり土石に殴られた怪我人が視界に相当いる時点で大惨事だ。助かりたい、死にたくない、子供ながらにそこに渦巻いていた皆から漂う負の感情を肌で味わい、何度だって吐きそうになった。でも、泣いてるだけなら誰も助けてはくれない、だったら何も出来ないよりはと、怯える足に鞭を打ち走り回った。この逃げられない土の壁は、どこまで俺達を阻むのかさえ分からないままに。


「――こっち!父さんと母さんが、はっ、ぜえっ、お、俺達をかばって、下敷きにっ、ち、血がっ、いっぱい、出てて、」

「分かった、手伝おう!坊主、無理すんなよ!」

「おおい、怪我が軽くて動ける男手こっち側にいるか!?重傷が二人ほどあっちにいるらしい!手伝ってくれ!」


 走り出して数分後。

 絶望に満たされた蠱毒の中。崩れた膝を土につけながら、「救護隊に連絡がついたぞ!」と言う大声を前方から聞いた。助かるという希望が出てから駆け回り、この事故に遭ってしまった人間全員に知らせようと息を切らせてやってきた、同じく観光に来ていながらにして被害にあったらしい大人の二人組が働きかけてくれていたのだ。藁にも縋り付く思いで、彼らに懇願した。父さんと母さんを助けてくれ、と。

 ノア、母さん、父さん、今行くから。お願いだから、無事でいて。

 ………そんな、必死の祈りでさえ、とうに無駄になっていたと知るのは、すぐ後のこと。


(ああ、あの時、あの時ノアは、きっと一番傷ついた)


 かろうじて兄と言う矜持があった俺と違う、自信を持てず自分自身を拠り所にしていなかった弟はただ悲しみに打ちひしがれたに違いないのだ。俺以上に傷ついたのだ。

 この記憶は。俺達が生きてきた上で、一番最初の喪失と絶望を司る物。不幸と題する物。

 本当なら。あの事故さえ起きなければ。最高の思い出になっていたかもしれない、輝きを秘めた記憶になったかもしれない物だった。


(誰も悪くなかったから、自分でさえも、責められなかった)


 繁忙期も無事過ぎ、注文や出店も落ち着いた頃。母さんと父さんが計画してくれた、他国への旅行。たまにはカナリア王国を離れて外の世界を見るのもいい経験になるでしょうと、俺達とはあまり縁の無い海が綺麗な国へ連れて行ってくれたのだ。

 トオヨオ海に浮かぶ巨大列島・ナギ王国。その地で培われた独特の文化は和風と呼ばれ、伝統的な舞踊や芸術的価値に溢れた国と評価が高い場所。その領土のうちのひとつである、観光名所の離島に船で向かい。実に充実した時間を数日過ごし、煌いた世界を目に焼き付けて帰るつもり、だったのだ。

 ひどい事故だった。それを災害と呼ぶことを知ったのは、父さんと母さんの遺灰を持ってカナリア王国へ帰して貰った頃だった。

 …孤島付近の休火山と指定されていた火山が、突如活動を始めたらしい。ナギ王国の領土は世界の中でも現存する活火山の数が多く、活動状態の有無に関わらず火山周辺には人が近寄れないように施されているのだが。その日の事情だけが少し違った。ナギ王国三千年の長い歴史的に見れば、休火山と思われていたものが活動を始めることは珍しくは無いらしいのだが。人間の寿命の内で考えれば滅多に無い不運に当たったのが、当時の被害者達であった。

 爆発的噴火を起こした火山の噴石による被害が、その災害が齎した爪痕である。あまりの勢いに宙に張り巡らされていた噴火時対策の魔法障壁でさえ破り、人里の方にまで届いてしまった。人の力ではどうにも出来ない自然の力、その衝撃波は俺達が乗っていた馬車を揺らし。何だと参道に自分の足で出て見れば、神社の裏山に直撃した噴石が生んだ二次被害……大規模な土砂崩れが、その下にいた一帯の人間を一瞬で飲み込んだのだ。後で撮られた現場の画像ではその裏山が神社の後ろで跡形もなくなっていただけである。山そのものを崩すレベルの土砂崩れを、観光に来ただけの一般人が止められるものか。


 …岩の下、には。父さんと、母さんが、確かにいた。

 二人の亡骸を、「命だったもの」と言えるくらいの心の強さがそこにあれば、まだ救いはあったかもしれない。…どんなにひしゃげていても、どんなに千切れていても、どんなに抉れていてもどんなに潰れていてもどんなに足りなくてもどんなに減っていても。どんなに人に見えなくなっても。

 どんなに。原型が、なくなって、も。

 命だったらしいものは、間違いなく先程まで生きていた父さんと母さんだった。魂がそこにあった二人の姿そのものだった。これは二人だ。この人間は、二人なのだ。昨日まで生きていた、昨日までずっと、ずっとずっと俺達を愛してくれていた、大事な人。ぐちゃぐちゃになった身体を岩の下に見つけた時、ノアも俺もあまりのショックを受け止めきれずに気絶してしまっていた。


 気が付けば、ナギ王国の大きな癒術院のベッドの上。錯乱状態で泣き喚き、病室の壁を指の皮と爪が剥がれるくらいに引っ掻いて赤くしていたノアの泣き声で俺は目覚めた。父さんと母さんがいない、初めての日を、俺達はそうして迎えたのだ。


 火山噴火により生まれた被害は、カナリア王国の紙面にも載り。カナリア王国民が二人死亡した、とも書かれていた。

 災害事故により、一夜にして孤児となった俺達は王国へ、自分達の山へ戻ってからも心が休まる暇が全く無かった。父さんと母さんが残した仕事を引き継ぎ、自分達が本気で生きる為に身を粉にする必要があったから。

 その頃。病院で目を覚まして以降瞳から一切の光を無くした弟。心を壊し、精神が崩壊しかけたノアは部屋に閉じこもることが多くなり。泣き声と嗚咽がいつだって、両親の部屋から聞こえていた。その影響で作業をすることでさえ辛くなり、少し使えるようになった魔法も完全に使えなくなる期間へ突入してしまったのだ。


 兄さんも辛いのに。何も手伝えない。死にたい。何の役にも立ってない。立てない。どうすればいいのかわからない。

 うわ言のように呟くノアに、気にするなよと笑顔で接していた。泣きたい時は泣いてもいい。悲しみを無理に隠そうとしなくていい。だって、ノアには俺がいる。俺が愛する、失いたくない弟。ノアがいたから俺は壊れずに済んだ、ノアがいるから俺はノアを愛することが出来る。…ノアが生きてくれているだけで、悲しみを分かち合える弟が生き残ってくれただけで、たったそれだけのことかと言われても俺は、ノアの命がそこにあることにこの時期救われていたのだ。


 いるだけでいい。それだけで、俺は幾らでも働ける。お前と俺の為に動ける力を出せるから。だからゆっくり調子を戻せ、遅れた勉強は後で全部兄ちゃんが見てやるから。俺より遅く起きて、俺より早く寝てほしい。仕事のことも気にするな、父さんと母さんと付き合いが長かった人から全部教わってきたよ。むしろ超若い子供が営業してる、って前面に出して商売出来るいい機会だからな。二人なら絶対、そんな機会は逃すなよ、って言いそうだし。

 だから、だからさ。俺の分まで悲しんで、俺の分まで泣いてほしい。俺がその分、ここを護る為に頑張れるから。俺の悲しみを、お前に背負ってほしい。俺が立ち止まらないように、見守っていてほしい。

 たった一人残ってくれた家族に出来ることなんて、それだけしか無いと思うから。



 ――話して。

 …話して、話して話し出した。

 時折喉につかえて出損ねる言葉も、強引にひきだして。俺はその頃のノアの様子を語った。

 ああ、今度目覚めた時。弟がその目からまた光を失っていたら。……いや、失ってしまったとしても。またやり直せる。絶対に、やり直せる。それ程までに、今は俺自身を信じられるようになっていた。

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