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「昔っから避けられてるのは子供ながらに感じていたからねぇ、そこからこっちも避け返し始めたってのもある。下らない意地の張り合いだったけど、無駄に関わらないでくれるだけでも少しは楽になったんだ。……本当さ」


 新鮮で瑞瑞しい野菜をたっぷりと挟んだサンドイッチを噛むと、しゃくりと小気味いい音がする。やっぱりここで採れた物は、いつだって舌の上に美味しさを濁り無く届けてくれる。例え、彼女の過去に触れる話を聞けるこの時でさえも、気を使うように安心する味のままだ。

 畑から少し離れた地面に座り込み、サンドイッチを入れたバスケットを二人の間に挟んでいた。僕の横で彼女は、エリーゼは躊躇無くさらりと話し出す。ひとつ食べ終わった後のパン屑がついた指を舐めとりながら、さっきまでその話の続きをしていたかのように。真紅の瞳が、今までと違いひどく鈍い輝きへと劣化していた。


「正直親しい奴はほとんどいない、とは思う。同年代の兄姉とは特に仲も悪かったから、アタクシが出ていったくらいであの家は騒ぐ筈は無いさ。連れ戻す程の価値がアタクシにあるとも思えない…だから、オマエが必要以上に心配することも無い」


 いざその唇から、自分を卑下する発言が続くととてつもなく悲しい気持ちになってしまう。自分の欲に正直すぎる我を貫き通す強さを持ち合わせつつも、芯が一切揺らぐことの無かった悪女エリーゼ・リースの決して明かされることの無かった部分に、僕は触れてしまっているのだ。


 前世の記憶で見たものが全てでは無いことなんて、イレギュラーとして生まれた僕が存在し始めた時から、言われなくても自覚している。アプリの中の世界では無い、ここは僕にとって真実でいて現実だ。言ってしまえば、前世での僕達はアプリユーザーと一枚の画像と言う決して理解しあえることの無い異次元の関係性であって、エリーゼに関する情報と言うのも公式が出した分だけしか無いと言う、極めて狭い一面しか知らないのだ。前世で得た彼女の知識が、一体彼女の本質の何割を示すのかなんて予測が出来ない。僕が知っている情報が、エリーゼ・リースを構築する情報のうちたった一割にも満たないことだって十二分に有りうるわけで。

 僕の性格や嗜好が前世の人間のままであったのなら、今こんなに複雑な心境でエリーゼの言葉を待つことも無かっただろう。僕は、あのアプリがあった世界で、たった少ししか語られなかった情報を彼女の全てだと勘違いするような男などでは無いから。


「…ご両親とかも、心配して下さらないような方なんですか?」

「いや?そもそもアタクシは、両親の顔すら見たこともないし、知らない」

「………え?」

「物心ついた頃には、自分の部屋に一人だったからね。誰かと一緒に朝晩を過ごしたのなんて、数えるくらいしか無い」


 建物の二階から脳天に向かって石が落とされたような衝撃とはこう言う時に使われるのだ。聞いている方でもこんなにガツンと精神を抉られると言うのに、それを言葉に出して教える方はどれだけ辛いのだろう。

 ……彼女は、確かに悪いことをした。

 僕が知るのも一部分だけではあるが、正規ヒロインの愛され者ヒイロ・ライラックに対する行いの一部は生死に関わる物であったことも知っている。その悪行故に今度こそ我慢ならなくなった群衆キャラ達が反旗を翻した結果が、あの礼拝堂での断罪事件。他人からの憎悪や嫌悪を受け止める覚悟の上で、ヒイロへの態度を最後まで変えることの無かったエリーゼは、彼女なりの美徳の中に属する悪だったように僕は考える。……ただ愚かしく思慮も浅いような量産型の乙女ゲームシナリオにいる馬鹿な悪役等とは比較の対象にすらならない程、美しい悪だ。

 彼女の背景に、少しずつ色が浮かんでくる。それは新しく書き足された物ではなく最初からエリーゼ・リースを構成していた色。彼女が、僕に明かすことによってようやくベールを剥がされた……僕の全く知らない彼女の欠片。幼少期の家庭環境と言うものは、どの種族にも通じる話だがそれ以降の人生を大きく左右する影響を与えるものだ。地球の方でも陰惨な家庭環境が原因で起こった事件や、異常な家庭で育った子供が後に事件の加害者になるケースも多発していたのは嫌な話で。勿論、家庭環境が悪いから、という理由は言い訳に出来ないこともある。複雑で凄惨な家庭の中にいたとしても善人を貫ける人間も中にはいる、けれどそれはよっぽど特殊な例だとも僕は感じるのだ。

 とても多感な幼少期、僕も兄さんもかつて両親を亡くした。確かに物心ついてから彼らと過ごした時間は短かったがそれでも僕たち二人は親からの愛情と言うものを知っている。彼女は、平民の僕でさえ持っているその愛情も、加護も、一切与えられなかったのだと言う。伯爵令嬢だとしても、何不自由無い暮らしが出来る立場だとしても…自分の出自が分からずに両親の顔すら見たことが無いなんて、そんなひどい話があるか。物心ついた頃から、彼女は幼くして「自分は一人だ」と自覚してしまったのだろうか。

 ――エリーゼを捨てた者がいるなら、僕が貰い受ける。ただまっすぐにそれだけを叶える為に必死になっていたが。彼女の背景を少しずつ剥がしていく度に、「何故エリーゼの手を引こうとした者がいなかったのか」という点に、僕はこれから怒りを覚えてしまうのだろう。誰からも手離された存在だからこそ、僕だけがこの手を掴めたと言うのに。掴めたらいざ、どうして誰も彼女を救わなかったんだと文句を言いそうになる。矛盾している。

 これは、彼女があのエンディングに至るまで。今の彼女をエリーゼたらしめる為の、辛くとも大切な記憶。昔話を僕に明かしてくれると言うのなら、僕もそれを全身で受け止めてみせよう。今の僕がするべきは、同情などでは無いのだから。


「…アタクシの面倒を積極的に見てくれていたのは、一番上の兄様と、極一部の大人くらいのもんさ。だから、もし。……もし、アタクシがオマエに連れられてきたことに、ほんの少しでも気にかけてくれるなら……その兄様だけだろうなとは、思う」

「その人は。…貴女を愛してくれたのですか」

「オマエから向けられる物とは全く違うがな。多分、あの兄様はあの人なりに、アタクシを守ってくれたよ」

「でも、貴女は今。僕の隣にいますよ」


 それでも、冷静でいようとしても。つい、かっとなってしまう。家庭に事情があるだろう、守りたくても守りきれなかった事情もあるだろう、そういった可能性を視野に入れていたとしても、僕の心に沸き上がる感情が性懲りもなく顔を出す。何度潰そうと僕の内に黒い染みを作る、負の側面が。

 エリーゼを愛するのは僕だけでいいと思うと同時に。何故彼女は世界に愛されないのだと憤怒するのだ。


「僕、嬉しいです。貴女に、そう言って貰えるだけの人がいたこと。でも、同時にひどく憎らしい。……だって、貴女は、まんまと僕に連れ去られて下さったじゃないですか」

「ふふ、言葉がおかしくなってるねえ」

「ごめんなさい、おかしいんですよ僕。……皆が貴女から離れたから、僕は貴女を手に入れられたのに。あの瞬間、貴女が慕う人でさえも、誰も貴女を守れなかったことに、すごく怒っている。今更ながら思います、僕が出る幕など無くて、今も貴女が……その人達と伯爵令嬢として暮らしている未来があったかもしれないって」


 でも、貴方の貴族生活を台無しにしたこと、今は全然後悔してません!

 僕は、泣きそうな顔で、笑ってしまったと思う。


「ずるい男だし、馬鹿な男です。貴女を拐いたくて拐いたくて仕方なかったのに、貴女が孤独になった瞬間を狙うような真似をしてしまったのに。……僕のそんなずるさでさえ、褒めてくれる貴女を見ていると、まるで全てが許されたみたいに自惚れてしまう」

「そうだね、オマエのような大馬鹿で、言わなくても良いことまで話し出す正直者は。確かに見たことが無かった。珍獣だぞ」

「はは、わんちゃんからは少しレベルアップしましたかね」

「珍獣の子犬だ」

「レア種じゃないですか、僕普通に喜んじゃいますよ」


 貴女に恋して生きてきた。ならばこれからは、貴女を愛して死んでいく。それだけのこと。

 僕には、家族の思い出も、兄さんも、帰る場所もある。この土地に染み付いた過去の記憶も、山を下って出来た貴重な交遊関係だってある。学んだ知識がある、心を満たす出来事がある。十七年間分の生きた証が確かに存在する。だからこそ、その全てとエリーゼを天秤にかけた時……エリーゼだけに天秤は傾くのだ。彼女の幸せの為には、僕の全てを身を粉にして捧げるべきだと信じているから。

 彼女の人生をこれから大きく変える分、僕は躊躇うこと無く彼女の為に人生を尽くして捧げよう。人生のひとつぽっち躊躇うような男には、エリーゼを愛する資格は無い。


「聞かせてください、エリーゼ様。もっと、もっと貴女の周りのことを深く。その全部を聞き終わっても、僕はきっと言えますよ。……この世で貴女を一番愛せるのは、このノアしかいません、って」

「まあ、言うだろうな、オマエなら」

「お褒め頂きとても嬉しいです」

「…何を言っても褒め言葉と捉えるのも、オマエくらいだ、なかなかにイカれているが。そういう所も嫌いではない」


 昔話なんて、話せる人間もオマエが初めてだよ。と、彼女は笑う。

 もう少しだけ休憩を長めに取りましょう、と。とうに空になったバスケットをそっと取り除いた分、近付いた距離で彼女の艶やかな唇が動く様子を見ていた。


 × × × 


「あらあら、寂しいわ。私もあの子とお話したお友達の仲なのに。王女でも、ちょっと悔しいわ」


 太陽を閉じ込めた煌めきの瞳。その双眸を開いた先に、彼女は全てを見ることが出来ていた。愛らしい額が見えるように、前髪も後ろの方へ流し、高い位置で結ったのは金より眩い金の髪を止めていたのは光を全て吸う深い黒さを持ったバレッタだ。

 人のかたちを取っただけの女神……カナリア王女は、ふふふと微笑みを浮かべながら、この部屋にいる二人の男と話す。


「私と視界を共有するのは、貴方には初めての経験でしたね、エドガー様」

「……っ、失礼、お見苦しい、ところを、」

「ごめんなさいね。この魔法は、共有する側も慣れていないととても酔うと思うわ。謝らないで。眷属の視界をそのままに見た私から、更に視界を共有して繋ぐのですもの。人を盗み見ている人間の視界を無理に埋め込むようなものですから」


 優雅にティーカップを唇に運ぶ余裕があるカナリア王女を前には、その青白い肌を更に冷水に浸からせたかのように具合の悪い色をしたエドガー・リースが座っていた。その席に出されていたティーカップを、とても飲む気にすらなれない程の違和感が今彼の目を襲っていたのだ。


「でも。流石、貴女は慣れているわねウィドー……それとも、今回は貴方の忠誠ぶりが酔いすら感じさせないのかしら」

「…………光栄にございます、カナリア様。ワタクシ共の我儘でこのようなことをさせてしまい、本当に申し訳なく思います」


 カナリア王女の、その後ろ。底冷えする程の低い声色に、今日だけは更に殺気まで感じ取れる様子を見せる存在がいた。

 オールバック気味の前髪に、余った後ろ髪をうなじで結んだローズグレイの色の持ち主。その左目は片眼鏡を装着し、執事服を身に纏った姿の長身の男だ。


「…私からも、再度謝罪をさせて下さい。その為にどうしても、訪問させて頂きたかった。王の名を借りた場所で、親族が無礼を働いてしまいました。しばらく謹慎の身とさせ、彼らは学園には行かせません。十二分に躾をして、学園長とも既に対応を取らせて頂く姿勢です」

「いいえ。学内では、貴方も私も、立場が上すぎる故においそれと手を出せないものですから。尽力、感謝致しますわ。だって、貴女は王より私より、今は大切なあの子を思っているのですから」


 この場にいる三人は、見ている。カナリア王女の視界を通して、脳に直接送り込まれる映像を、その目に焼き付けている最中だった。

 景色も良く、空気も澄んでいるだろうことが一目で分かる、山の光景。高く深いその山奥に建てられた家と、その畑の近くに座る、紺の青年と真紅の少女。王都にいた頃よりも喜びを露にして笑む少女を、エドガーは知っている。知らない筈も無いのに、その見慣れない表情のお陰で困惑しそうになった。


「それで、ウィドー?やはり私にも、ベニアーロにも話せないのかしら?……どうして貴方が、この男の子に会いたがるのかを」

「お許し下さいませ。それだけは、昨日から申し上げるように、話せないのです」

「言わない時の貴方は口の堅さだけで王国一ですものね、…分かったわ。これ以上聞かれても、気分が悪くなるかもしれない。許してね、ウィドー。でも、久々にそういうことをされたから、私の好奇心の犠牲にしてしまうところだったわ」

「ご迷惑をおかけし申し訳ありません。……エドガー様が、エリーゼ嬢にお会いしたいことにも。ワタクシが彼にお会いしたいことにも、大差はございませんことだけでも、貴方の安心の為に伝えさせて頂きます」


 ワタクシは、ノア・マヒーザに何としても会わなければならないのです、と。化け物でさえ逃げ出しそうなオーラを醸し出す彼を、ウィドーと呼んだ男を横に、カナリアは怯えること無く悪戯っ子のような表情を浮かべていた。

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