春の嵐・16
その夜。
サリサは部屋に戻っても落ち着くことができなかった。
黙っていれば、エリザの言葉を思い出す。
ラウルに寄り添い、ほろほろ泣いている姿を思い出す。
その度に頭をかきむしり、うう……と唸るしかなった。
このようなことになったのは、自分が愚かだったからだ。
へんな見栄をはったばかりに、ラウルに出すべきではない採石許可を与えた。
そして、ラウルにエリザを奪われたくない気持ちから、自分の能力を信じ切ることができず、夢見を見誤った。
さらに、ついうっかり、まるでエリザに責任を転嫁するような事を言ってしまって……。
サリサの心の狭さが、皮肉にもエリザの心をラウルへと偏らせてしまった。
ラウルとの婚約をしていても、エリザの心は揺れていた。だが、この事件を通して、エリザは完全に自分の心を決めてしまったのだ。
――私、ラウルといっしょに生きていきたいの。
その言葉は、死にかけたラウルの心を蘇らせ、完全にサリサの心を殺した。
ひとつ心を分け合う恋愛に、勝者はたった一人しかいない。
エリザはラウルを選んだ。
所詮は、自分のもとを去っていった人だ。
だから、この結末は充分に予測していた。だが、言葉を聞きたくはなかった。
他の男を選ぶ言葉など……。
サリサは耐えきれず、部屋を飛び出した。
そして、よろよろと、最高神官の秘所へと消えていった。
この場所は、マサ・メルが果てた場所でもあり、サリサにとっては嫌いな場所だった。
だが、今、サリサの苦痛を和らげるものがあるとすれば、ここだけだった。
転がるようにして階段を下りて行くと、そこに見事な水晶の台がある。かつて、マサ・メルの命を吸ったと言われる『呪詛の石』だ。
闇の中にあって、透き通った闇が映る。その中に白い筋が躍る。ムテの気が、石に反射して見えるのだ。
心を消し去る力すら秘める石。そして、同時に寿命を吸い取る。
石に身をゆだねれば、サリサは苦しみから解放されるだろう。エリザのことを忘れ、もっと楽になれるだろう。
サリサは、その石の上に身を横たえた。
別に、死を望んだわけではない。むしろ、もっと楽に生きたかった。
――心さえ、切り離せたら……。
最高神官の仕え人が夕食を運んだ時、サリサは部屋にいなかった。
彼女は、机の上に食事を置くと、しきりの向こうのベッドを覗いてみた。狭い部屋では、かくれんぼはできない。だが、やはりサリサの姿はなく、気配すら感じなかった。
かなり長い時間、この部屋は人の気配がなかった。
彼女は、少し不安をおぼえた。
ラウルの命が助かって、最高神官はほっとしていた。が、時間の経過とともに、また、新たな苦悩が彼を襲っていた。
それが、ましてやエリザ絡みの事であると……。
部屋を出て、ふと見渡す。
延々と続く渡り廊下の果てに、最高神官の銀の光は見えない。だが、岩屋の奥の闇を渡る風に、何やら気を感じた。
最高神官の秘所と呼ばれる場所に通じる道。その祠の入り口の扉がかすかに開いたり閉じたりしている。
サリサがその先に行ったのは間違いなかった。
その祠は深く大きかった。マサ・メルは、そこを住居としていた。だが、サリサは、その場所を嫌い、あまり行くことはなかった。
とはいえ、その奥には貴重な資料や書籍を納めた書庫や宝物庫があり、全く足を運ばないわけではなかった。
だが、今宵、サリサがそこへ行くのは、とても奇妙に思われた。
最高神官の許可無しでは、足を踏み入れてはならない場所である。しかし、仕え人はもやもやと胸に湧く不安から、規則を破ったのである。
燭台を掲げて長い階段を降りて行く。
時々、霊山の気が渦を巻いて漂っているのが見える。この場所は、力が強く働くのだ。だが、最高神官の仕え人は、飲まれることも動揺することもなく、深い底へと降りていった。
霊山の気がまるで薄いヴェールのカーテンのように揺れる。それを何枚もくぐった先で、さすがの彼女も燭台を落とした。
灯りは消えたが、逆に青白い光が際立った。
霊山の気は、ゆるり、ゆるりと、銀の光を放ちながらうごめいた。
その向こう、水晶台の上に身を横たえた最高神官の姿があった。
「……サリサ様」
仕え人は動揺した。
彼女が守るべき最高神官は、今、銀糸の髪を水晶台の上から滝のように落し、手を胸の上で組み、目を閉じていた。その胸に、上下の動きは見られない。まるで死に絶えたような静かさである。
水晶台は、かつてマサ・メルという稀代の最高神官の寿命を吸いとった。その台に身を任せるのは、まさに寿命を捨てる行為だった。
「サリサ様! サリサ様!」
仕え人は、何度も名前を呼び、最高神官の冷たい体に触れ、揺すった。
何の気も感じられず、命の光は失われたかに見えた。
だが、サリサは目を開けた。そして、弱々しい声で彼女を呼んだ。
「……リールベール……」
仕え人は、一瞬、ぎくりとし、そして態度を一変させた。
「捨て去った名前で呼ばないでください。心が戻ってきてしまいます」
かつて薬草の仕え人、今は最高神官の仕え人。だが、霊山に上がる前、リールベールと呼ばれていた彼女は、眉をひそめた。
その名を、霊山の誰にも知られていなかったはずなのに。
だが、サリサは再び彼女の名を呼んだ。
「リールベール。教えてください。名を捨てれば、本当に心を捨てられるのですか? この世にある喜びも悲しみも、忘れることができますか? 何も苦しみのない、無我の境地に至れますか?」
青白く透き通るような顔で、サリサは言った。
「最高神官であらせまするあなた様が、リールベールという一般人に『真の道』を問うのは、奇妙です」
言葉こそ辛辣であったが、名を呼ばれてしまった仕え人に、いつもの表情はなかった。彼女は、悲痛な面持ちで、サリサの手を取って握りしめた。
「僕だって、ただのサリサだった……」
「サリサ様……」
さすがに仕え人の口から『尊きお方』という言葉は出てこなかった。
「ラウルはいい。死んでしまった足を切り捨てることができたのだから。でも、僕は……死んだ心を、この胸から切り出して捨てることはできない」
殺された心は毒素を吐き出し、サリサの生を脅かすだろう。
いっそ、心など捨て去り、何も感じないでいられれば、どれだけ楽なことだろう。
サリサは、再び目をつぶった。
「死ぬつもりなんかない。ただ、エリザのことが、どうしても忘れられない。あの人を求める気持ちを抑えられない。どうやって、諦めればいい? もう、僕に残された道は、この水晶に身を任せ、心を切り捨てることだけ」
「ですが……それでは寿命も失います」
「この心がある限り、僕は死ぬ……」
「サリサ様……ですが……」
「最高神官は、ただの器だ」
かつて、そう言ったのは仕え人のほうだった。だが、彼女は、サリサのかわりに涙を流した。
「でも……それでは、サリサ様は失われてしまいます」
結局、心のために身を滅ぼすのは、自殺である。
どのような言い方をしたとしても、最高神官がこの台の上で、自分の意識を解放し、石のなすがままに身を任せることは、死を選ぶことである。
サリサは、再び目を開けた。
「そう……。苦しみが癒えるなら、僕は消えてもいいと思った」
でも、消えなかった。
サリサは、ゆっくりと体を起こした。
まさに消えようとした時、思い出したのはエリザの事だった。
エリザを忘れたくて消えたかったのに、エリザを思い出して消えなかったのは、何とも矛盾していることなのだが。
やや、頭痛がして、しばらく頭を抑えたが、仕え人の手を借りて、水晶台から降り立った。
「小さなエリザと約束したんだ。君の支えになるって」
仕え人は、不思議そうな顔をした。
「小さな? エリザ様?」
「僕に、この道を選ばせた人」
最高神官という存在が、どれだけ人の救いになるか……ということを、教えてくれた人だ。
サリサとエリザの出会いを知らないリールベールは、そう言われても何がなんだかよくわからなかった。
「僕は、こんな情けない男で、弱虫で、気が小さいけれど。いるほうがずっといいってこと」
「言っている意味がよく分かりませんが……」
だが、サリサがエリザのために、消え去ることを思いとどまったのは間違いない。
「それは……よいことです」
彼女はそう結論づけた。
――最高神官として生きること。
サリサは、自分でも知らないうちに、そのことに責任と誇りを持つようになったのだと思う。今や、最高神官であることと、サリサであることは、切り離して別とすることはできない。
毒素を吹き出し、自分を蝕んでいくだろう心を胸に秘めつつも、自分の責任は全うしなければならない。
そして……エリザの幸せも見届けなければならない。
それが決意だったはず、そして、エオルとの約束でもあったはず。命を捨てていいはずがない。
春の嵐が、季節の変わり目を呼ぶように、サリサの季節は変わる。それは、より厳しい季節になるだろう。
燭台の光りを掲げながら、前を歩いていたリールベールがぽつり……と言った。
「サリサ様、心は何度捨て去っても、戻ってきますの。その度に、我々仕え人は何度も捨てるのです。でも……」
彼女は振り向いて微笑んだ。
「サリサ様に仕えている限り、もう捨てる必要はないと思いました」
そういうと、彼女の足取りはやや早くなった。
トントン……と、岩に足音が響いてゆく。
「心は唯一、生き返ることができる部分だと思いますわ」
サリサは、重たい心を引きずりながらも、軽く響く音に、励まされるようにして、石段を上った。
=春の嵐/終わり=
*銀のムテ人=第四幕・下 に続く
銀のムテ人 =第四幕・中= わたなべ りえ @riehime
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