エリザの手紙・3


 仕え人たちが利用する岩屋が使われた。

 巫女姫が使う風呂場よりは少し小さいが、だいたいは同じ構造である。霊山には、このような浴室がいくつかあった。

 岩屋の扉を通り抜けた所に、リュシュがいた。

「サリサ様、これから先は、私がエリザ様をお手伝いします」

 サリサのほうは、すっかり手伝う気満々だったのだが、仕え人たちは許さなかった。

「はい、お願いいたします」

 サリサの前に、最高神官の仕え人が返事をした。

 でも、今のエリザにはそのほうがよかった。最高神官に赤子のおむつ替えとお風呂を手伝わせてしまったら、申し訳なさで死ぬところだった。


 リュシュは、大きめの桶を持ってきてくれた。

 香り豊かなお湯に包まれて、ジュエルはやっと気持ち良さそうに笑った。

「ああ、リュシュ。ありがとう」

「エリザ様。私は、もうその名前を捨てた身です」

 リュシュはにこりともせず、手桶に新しいお湯を運んで来た。

 やっとほっとしたエリザを、再び落ち込ませるに充分な言葉だった。

「そんな……リュシュ……」

 それっきり、エリザは言葉を失ってしまった。

 二人は、ただ黙々とジュエルを入浴させ、おむつを取り替えただけだった。


 ――あんなに仲良くしてくれていたのに。



 この騒動で、最高神官がエリザに面会してお礼を言う……という機会は失われてしまった。

 最高神官の仕え人が、代行として、お礼の文章を読み上げただけである。

「一の村の癒しの巫女エリザの、霊山への多大なる奉仕と『祈りの儀式』への援助に対し、最高神官は感謝の気持ちを込め……」


 エリザはガッカリしてしまった。

 どこかで、親子水入らずで過ごせる時間が取れたなら……などと、あるまじき願いを持っていた自分に気がついてしまった。


 忙しい最高神官が、そのような時間を取れるはずがない。

 ましてや、最高神官の子といえど『神官の子供』には、親がいないのだ。

 今まで、自分の子供と言ってくれているほうが、特別だった。それだけ、弱いエリザを助けたいと思ってくれているのはありがたいが、期待してしまう自分が情けない。

「今日一日、特別に霊山のラタの林への入林を許します。帰りは、荷物運びの者も用意しますから、心行くまで採取なさい……とのことです」

「はい、ありがとうございます」

 エリザは深々と頭をさげた。

 これだけでも、エリザにとってはありがたいことだった。

 ジュエルがいるから、霊山には上がれない。

 霊山にしかないものは、エリザには手に入らない。

 ラタは、高級石けんや消毒薬にもなる実用的な木の実だ。霊山のどこにでもあるので希少価値はないが、採れるのはこの時期だけ。しかも実用品になるので、常に使われる。

 つまり、よく売れるということだ。安定した収入になる。

 まして、霊山で管理された林のラタは、最高級品質である。エリザがそこからラタを得ることは既に知られているから、実だけ売るのもいい値がつくだろう。



 普段は書類係であるという仕え人とともに、エリザは林にやってきた。

「監視するつもりはありませんので、どうぞご自由に」

 彼は、エリザに敬意を示し、姿を消した。

 何となく不思議な気がした。

「……ねえ、ジュエル。今の人、いつも私を見張っているような言い方だと思わない?」

 エリザは、芝生の上にジュエルを置き、話しかけて笑った。

 こんなにかわいい我が子を、先ほどは動揺して心の中で罵ってしまった。

「至らないのはあなたじゃない。私なんだわ」

 泣きたくなった。でも、泣いてはいられない。

 エリザは、むんず……と、腕をまくった。


 ラタの実を採る方法。

 それは、落ちているのを拾うのだ。薄緑の皮を剥くと、つるりとした美しい茶色の実が顔をだす。

 だが、落ちているものだけを拾うのは、効率が悪い。

「さて……」

 エリザは一呼吸置いた。そして……。

「えいや!」

 木を蹴っ飛ばした。

 これを見たら、きっと誰もがエリザの印象を変えてしまうかも知れない。内気でおとなしく、しおらしい彼女であるが、子供の頃は木登りだってしたのだ。

 やるときはやるのである。

 バラバラバラ……と音をたてて、ラタの実がふってきた。

 ジュエルが横で、キャッキャッと声を上げて喜んでいる。

 それを見て、エリザも何となく元気になっていきた。

 篭にどんどんラタの実を入れる。最後は、面倒になって、ぽいぽいと遠くから投げ込んだ。

「私って、なかなかコントロールがいいかも?」

 そう思って、また、篭に向かって実を投げ込もうとした時。

 エリザは思わず実を落とし、走りだした。

 なんと、ジュエルがラタの実を拾い、口に入れてしまったのだ。

 渋くて食べられない実だ。しかも……。

「だめよ! のみこんじゃ!」

 遅かった。

 ジュエルは、なんと大きな実を飲み込んでしまったのだ。さらに悪いことに、喉に引っかかってしまった。

 あっという間に、ジュエルは苦しみ出した。

 エリザは慌てて、ジュエルの足を捕まえると、逆さにしてふった。

「ほら! 吐き出しなさい! 吐き出しなさいってば!」

 膝で背中を叩く。

 必死だった。


 が……。

 ジュエル越しに人影。

 銀色の髪を風になびかせた……。


 はっとした瞬間、ジュエルの口からぽろん……とラタの実が落ちた。

「サ……サリサ様」

 エリザは、呆然としたまま、最高神官を見つめていた。

 だが、ジュエルが泣き出した。慌てて逆さ吊りをやめて、抱き直した。口の中を覗き込んだが、怪我はないようである。

「いったい……どうしたのですか?」

 サリサに聞かれて、エリザは真っ赤になってしまった。

 足首をもって振り回したうえ、膝蹴りである。これでは、まるで子供を虐待していたような……。しかも、ものすごい形相だったと思う。

 そんな瞬間を見られてしまった。

「あ、あの……。ジュエルがラタの実を飲み込んでしまって……」

「吐き出せたんですね? よかった……」

 サリサは、エリザのすぐ横に跪き、目を細めながらジュエルの髪を撫でた。

 その優しそうな微笑みを見て、エリザは胸が締め付けられるような想いに駆られた。


 ずっと会えなかったけれど。

 ずっと会いたかった……。


「でも……どうして……」

「ここにいるのですか? ですか?」

 サリサは微笑みながら、エリザの腕からジュエルを受け取った。

「そのつもりではなかったのですが、先ほどの面会ではまったく話ができませんでした。あなたもジュエルも緊張していて……。だから、面談の時間を取るよりも、こちらで会うほうがいいと思って」

 そう言っている間にも、元気を取り戻したジュエルは、サリサの髪をひっぱり、ついに髪留めまで見つけて取ろうとした。

 サリサが慌ててやめさせると、今度は機嫌が悪くなり、サリサの頬を引っ張り出した。

「あ……いたた……」

「きゃ! ご、ごめんなさい!」

「い、いや……いいですよ」

 エリザがあわててサリサからジュエルを受け取ると、今度は名残惜しそうに手を伸ばす。

「サシャ、サシャ……」

「え?」

 頬を撫でながら、サリサが聞くと。

「あの……サリサ様の名を呼んでいるんだと……」

 申し訳なさそうに、エリザが説明した。

 正確にいうと、これは呼び捨てなのだ。子供だから口が回らない。

「エシャ。エシャ……」

「え? エサ?」

「いえ、あの……これは、私の名を呼んでいるんだと……」

 サリサはしばらくぽかんとした顔をしていたが、やがてニコニコ微笑み出した。

「ありがとう」

「え?」

「まさか、ジュエルに名前を呼んでもらえるとは思わなかった」


 それは……。

 きっと、エリザがどれだけジュエルに向かって、サリサの話をしているか、と言うことである。


 サリサはもう一度エリザの手からジュエルを受け取ると、高い高い……をした。

 木漏れ日に銀の髪が絡む。その中で、ジュエルも今まで見せたことのないような笑顔を見せた。

 思えば、このようにして遊んでもらったことなど、ジュエルにはないのだ。

 キャッキャ……と喜ぶジュエルに、エリザも思わず微笑んでしまった。

「でも、エサは困りましたね。神官の子供ですから、お母さんを呼ぶときは『母様』でないと」

 いきなりサリサが言い出した。

「え? ははさまあ?」

 思わずエリザは目を丸くした。

「神官の子供達は、そのように母親を呼びますよ?」

 だが、そんなふうに母親を呼ぶ子供を、エリザは見たことがない。それに……。

「ジュエルは……きっと『神官の子供』失格です」

 エリザも思っていることは、当然、サリサも思っているはず。例の手紙にも、望めばいつでも『神官の子供』の肩書きを外す……と書いてあった。

「そうかも知れませんが、決めつけてはいけません」

 サリサの顔が急に真顔になった。

「エリザ。この子は、こんなに利口ですし、いろいろなことに興味がある。今は、色々なことを吸収する時期です。神官だけが生きる道ではありません」

 至らない子と思っていた。

 でも……たしかに成長が早い分、賢いのかも知れない。

「今から神官の子ではないと決めつけると、一の村のあたりもきつくなり、ますます表に出にくくなるでしょう。そうなると、この子の可能性の芽を摘むかもしれません。ですから、今は『神官の子供』であることに、堂々としていなさい」

 確かにそうだった。

 エリザは、ジュエルの異質さを恐れて、できるだけ人に触れさせないし、外にも出さないようにしている。

 これは、霊山にいる時に読んだ育児書からいえば、最悪の環境なのだ。

「漆黒のジュエル。この子の容姿からすると、仕方がないこと。でも、どうにかこの子がこの子らしく育ってゆくよう、二人で考えてみましょう」

 意外な言葉だった。

「で……でも……」

 エリザの口から言葉が出ると同時に、目から涙が溢れ出た。

「でも、サリサ様は、最高神官で……」

「最高神官でも、何でも……。私たちが愛する限り、ジュエルは私たちの子供です」


 ――私たちが愛する限り……。


 サリサにとって、その言葉は予防線だった。

 いつか、きっと、エリザはジュエルの真実を知ることになる。

 その時に、すべてを失ってしまわないように。

 でも、今のエリザにとって、その言葉は純粋な励ましだった。

 そして、今日という日、純粋に三人は家族であった。

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