恋争い・5
万年雪も夏は一部が融け出す。
この季節にだけ現れる湖の横で、エリザとラウルは野営の準備を始めた。
何をしていいのかわからないエリザに、ラウルは次々に仕事を言いつける。全く甘やかせてくれる気配はなかった。
エリザは、近くの石を拾って積み上げ、かまどを作ったり、水をくんだり忙しかった。普段なら疲れないだろうことが、山の上なら疲れてしまう。
確かに空気が薄いのと……。霊山の気はわがままで、異物を感じると追い出そうとする。ムテの力と和するので、力ある者を認めるのだが、同時に、力があるからこそ、霊山の霊気を感じてしまう。
その力をとりまとめ、ムテのために放出する媒体こそ、『霊山』であり、最高神官なのだ。
――こんな力を取りまとめるなんて……。
「知れば知るほど、サリサ様って偉大だわ」
エリザは、中々熾きない火に苛々しながら、カチカチ石を叩き合わせていた。
やがて、どこかに行っていたラウルが戻ってきた。
その気配を感じ、エリザは躍起になった。
先ほどから何をやっても役立たず。まだ、火も着かないの? とは言われたくない。毎日、やっていることなのに。
カチカチカチカチ……。
「エリザ、ほら……」
何やら耳元がひんやりして、エリザは振り向いた。
すると、目の前に、美しい石。透明で向こうが透けて見える。冷たい青白い光を放っている。
「うわぁ、きれいな宝玉……」
思わず火打石を置いた。
そっと手を伸ばし、ラウルの手からそれを受け取り……。
「ひゃ!」
エリザはびっくりして石を落とした。
石は地面の砂利に当たり、白い氷粒が飛び散った。
その様子を見て、ラウルはおかしそうに笑った。目を白黒していたエリザだったが、ラウルがあまりにも笑うので、ちょっと腹がたった。
「な、な、何ですか? これは!」
笑いながら、ラウルが答えた。
「氷河の氷」
「え? 氷河の?」
エリザは目を丸くした。そして、砕けてしまった氷の欠片を拾ってみた。
まるで宝玉。中にひとつの曇りもない。
このように青い氷など、見たことが……。
――あるわ。これほど、きれいじゃなかったけれど。
あの日。紅百合を摘みに行った日。雪に埋もれちゃって……。
助けはいらない?
い、いります!
差し出された手を取ろうとして、エリザは躊躇したのだ。
自分を取り巻く青く澄んだ氷の世界が、あまりにも美しく、はかなげに見えて。
春の日差しに融かされ、まさに消え去ろうとしている世界。エリザの足下で、黒々とした大地が音を立てて水を吸い込んでいた。
大事な時間は過ぎ去っていった。
どうしましたか? と聞く人の姿も、今となってはおぼろげになる。
氷河の氷は、しっかりと凍り付いて、なかなか融け出さない。
それは、エリザの心まで冷たくしてしまった。だが、やがてぽたぽたと涙のように、エリザの手から滴り落ちる。
ラウルの視線が、不思議そうにエリザを観察していた。
慌てて、エリザは手を払った。
「きゃあ、冷たい! 冷たいわね」
冷えきった手を擦り合わせ、エリザは笑ってごまかした。
――夜。
こんなに早く、野営の準備? と思っていたのだが、夜の帳は意外と早くに訪れた。ラウルの判断は正しかったのだ。
エリザは、山に……いや、家以外で眠ることがあまりなかった。旅の途中、馬車の中で寝たくらいだ。
でも、全く恐くはなかった。
霊山の懐は優しく感じた。まるで、巫女姫の母屋に戻ってきたような感覚である。早く眠りに落ち、おとなしく気を落ち着けよ……と、命令されているようだった。
テントの布地を透かして星が見えている。それほどまでに、星の光が強いとは知らなかった。
(そういえば……ラウルがいない)
エリザは、ふらり……と起き上がり、外へ出た。
満天の星空に思わず感嘆の声が出てしまう。
吸い込まれていきそうだった。
天の川が地にぶつかるところに、ラウルはいた。寝転がって星を見ているようだった。
湖のほとりである。
水面に映る星々のせいで、まるでラウルは宇宙に浮かんでぽつんといるように見えた。
「ラウル? そこで寝ちゃうつもり?」
話しかけると、慌ててラウルは起き上がった。
「あ? いや……。う、うん」
エリザは冗談のつもりだったが、ラウルはその気だったらしい。
「なんか……。エリザの隣なんて、照れる」
そのようなことを言われると、エリザだって照れてしまう。
「い、いや! その、冗談だ。ただ……流れ星に願いをかけていただけだ」
ラウルは、さらに慌てていた。
ちょうどその時、湖の中に星が流れた。
空に流れたものが映っただけなのだが、まるで湖の中に落ち、燃え尽きたように見えた。
エリザは、目を丸くして、星が落ちた水面を見つめた。
そこには、まるで宝玉のような色とりどりの星が、競い合うように光り輝いていた。
「ねえ、ラウルはどんなことを願うの?」
ラウルの隣に寝転がりながら、エリザは星を見た。
「そんなの、秘密だ」
「ケチね……」
少し、空気が冷たい。
時間が流れた。また、星が流れた。
今日一日のていたらくを思い出し、エリザはため息をついた。
「ねえ、ラウル。あなたは私のこと、尊敬するとか、強いとか、いうけれど、そんなことないの。今日で充分わかったでしょ?」
闇の中、ラウルがこちらを向いたのを感じた。
「いや、初めてにしては、上出来」
「褒め過ぎ」
「エリザはいじけ虫」
ラウルの言葉に、思わず笑ってしまった。
そうかも知れない。
あまりにも長い間、できない・至らないと言われすぎて……。
自分でもそう思いすぎていたのかも知れない。
「ラウル。聞いてくれる? 私の夢はね、そんな大きなことじゃないの。本当に平凡で小さなことなのよ」
ほんの少し、温かくなった。
ラウルがエリザの話をよく聞こうとして、少しだけ近づいたからだ。
「巫女姫に選ばれた時は、少し慢心して大きなことを考えたわ。村に錦を飾りたいとか、村に救いの手を差し伸べたいとか……。最高神官の力になって、ムテに尽くしたいとか……」
「エリザなら、できる」
うううん……と首を振った時、また、星が落ちてくる。
「がんばればできると思ったけれど、まるで星が流れて燃え尽きるように、全部消えていってしまったの。私に残された夢は、もっと私に似合った小さな……でも、とっても大切なものだけ。なのに、それだって、とても遠くて……」
「あまり考えすぎるなよ」
「うん」
――ジュエルのこと。
ラウルには悩みを相談したことがない。けれど、彼はエリザが悩んでいることを知っている。そして……いくら悩んでも解決できないことも。
ジュエルの寿命が伸び、能力が突然生じない限り……。
ほんの些細な夢さえも、エリザには手が届かない。
「ラウル。私の夢はね、ララァなの。ララァみたいに、明るく楽しく、夫や子供のために、日々を過ごすことなの」
「ララァ? あのお調子者? 似合わないなぁ」
突然、姉の名前が出て、ラウルはおかしそうに言った。
「似合わない? でも、あれが私の理想なのよ」
ラウルの手がエリザの手に触れた。
まるで、約束のことを忘れたかのように。だが、エリザのほうもすっかり忘れていた。
「エリザは、ララァよりももっと幸せになれる」
ラウルはまっすぐにエリザを見ていた。そのやや緑がかった銀の瞳の中にも、星が輝いていた。
「う……ん…」
そうなりたい――エリザはうなずくと、ラウルの手を握りしめた。
きっと。
手を握って欲しいと望んだのは、エリザのほうだった。
この報告を聞いたサリサが、食事も喉が通らないほどに落ち込んだのは、言うまでもないだろう。
それでも、薬湯を飲み、いつもと変わらない仕事を続けたサリサだった。だが、すぐに更なる衝撃が彼を襲った。
――それは、また後の話である。
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