恋争い・4
霊山の控え所の門で入山書類を提出した時、誰もエリザだとは思わなかったようだ。まるで、男の子のように見えただろう。
もっとも、霊山の者は知っていても知らんぷりの、事務的な受け答えしかしない。
半年前までここにいたというのに、今となっては別の国のような印象――それが、霊山だった。
エリザは、そのギャップに時々寂しさを感じる。自分で山を下りておきながら……だ。
一般人になってから、聖職者が居住するこの空間が、どれほど部外者を寄せ付けないところなのか、初めてわかった。
そして、ここからあとほんの少し歩けば、巫女姫の母屋や渡り廊下で繋がれた祠、中庭、最高神官の住居などが見えるはずなのに……と、切なくなる。
祈りのたびに、最高神官の結界の存在や気を感じることはあれど、姿を見ることはない。一の村でさえ、最高神官の顔を知らないという者がいるのだ。
このままだと、エリザだって彼の顔を忘れてしまいそうである。
行き先に『馬の背』とラウルが書き込むのを見て、エリザは不安になった。
薬草採りでは聞いたことがない地名。きっとどのような険しい道が待っているのやら?
しかし、登山道はなだらかだった。心地いい風が吹く、爽やかな道である。
覚悟していた分、やや拍子抜けしたエリザだった。
「風が気持ちいいわね」
などと、ラウルの話しかけながらも、実は置いてきたジュエルのことで、頭はいっぱいだった。
――泣いていないかしら? お乳を恋しがっていないかしら?
ララァも出産したばかりなので、母乳が出る。それに、成長が早いジュエルは、もう離乳食も食べられた。
今頃は、ララァの赤子といっしょのベッドで、仲良くお昼寝だろう。
「ねえ、石には、他にどのような効用があるものなの? 紅玉に子供の健やかな成長を促す力があるとしたら、反対に成長を留めて寿命を温存する……なんてものもあるのかしら?」
どきどきしながら、聞いてみた。
――ジュエルを助ける手だてが、どうにか見つからないかしら?
ラウルの足は速く、エリザは時々駆け上がらなければならなかった。どうも、今日のラウルは、エリザの話にあまりつきあってくれない。黙々と歩くだけだ。
何度も同じ質問をして、やっと答えが返ってきた。
「それは……呪詛に近いな。あることはあるけれど、禁忌の石だ。採掘した者の寿命を吸い取るから」
たとえ、自分の寿命を吸い取られても、それで子供が長生きできれば……。
エリザは、希望の光を見たような気がした。
「ねえ、ラウル。それは、どのような石?」
ところが、ラウルの足は速すぎて、答えが聞こえないほどに距離が開いてしまった。
再びエリザは駆け上がる。息を切らしながら、ラウルの横にやっと追いついた。
「ねえ、今、何て答えたの?」
「……禁忌の石については、語ってはいけないことになっている。そう言った」
これぞ、骨折り損のくたびれ儲けである。
エリザはがっかりして、ぐったりしてしまった。
小走りに付いて行ったのが災いした。
それほど急な道ではないのに、長く続くとさすがに疲れる。
エリザは歩いているうちに息が上がってきた。
「高山は、空気が薄いから疲れやすくなるんだ」
水を差し出しながら、ラウルが言った。だが、手を差し出すことはなかった。
以前の薬草採りの時は、もっと足取りはゆっくりで、時に手を引いてくれたのだが。
「私……。ダメかも……」
荷物のすべては、ラウルが持っていて、エリザは手ぶら。それでも明らかに体力に差がありすぎた。
「ダメじゃないよ。エリザはきっと宝玉を見つける」
ラウルが微笑んだ。
目をかすませながら見上げると、逆光がラウルの肌を黒く見せた。白い歯だけがキラキラと輝いて見えた。
(手を引いてくれないかしら?)
目で訴えたのに、答えてくれない。
ラウルは、どんどん先に行ってしまう。
だが、意地悪なんかじゃない。彼は、エリザが望まないかぎり、触れないと約束している。
(でも、これってそういうのとは違うと思うのだけど)
エリザはふうふう言いながら、あがらなくなった足を必死にあげた。そして、目の前にある石に足を取られて転んだら、助け起こしてくれるとか、休もうと言ってくれるとか、体を支えて歩いてくれるのでは? などと、思い始めていた。
言葉に出てきそうなくらい、心で思っているのだから、伝わっているはずだった。
(……やっぱり、意地悪。気がつかないふり、しているんじゃないかしら?)
ほんの少し先で、ラウルはエリザが追いつくのを待っている。
エリザは、足を止め、滴り落ちる汗を拭いた。
「ラウル……」
ついにエリザは観念した。
「お願い。手を貸してもらってもいい?」
まるでその言葉を待っていたかのように、ラウルは坂道を駆け下りてきた。そして、手を貸すどころか、ひょいっとエリザを担いでしまった。
「きゃっ! ちょ、ちょっと……そこまでしてもらわなくても!」
エリザは真っ赤になって叫んだが、再び自分の足で歩く元気はなかった。言葉と裏腹に、荷物のひとつとなって落ちないようにしっかりとしがみついた。
大きくて少し汗ばんだ背中に、エリザは居心地のよさを感じた。ラウルの肩に頭をこつんと乗せると、ぼうっとした。
――私って……ずるいかも?
はるかに届かない高みにいる人を、ただ、心の頼りにしているよりも。
近くにいる人のほうが、ずっといい……。
ぬくもりを感じる人のほうが、ずっといい……。
そう思えてくると、信じられないほど寂しい気持ちになった。
その後、歩いたり、手を引いてもらったり、担がれたり……をしながら、山を登り続けた。エリザには信じられないペースだったが、ラウルにとってはゆっくりなのだろう。
夏で日が長いとはいえ、夜は来る。
その前に、目的の場所に着かなければならない。おそらく、エリザを担がなければならないだろう……と考えていたラウルには、あまり無駄な体力を使うゆとりはなかった。
別にエリザの無駄話を無視するつもりも、途中で花畑で寄り道したがったエリザを無視したわけでもない。
「えーーー! あれは何?」
エリザの驚嘆の声が峰に響いた。
思っていた通りの反応に、ラウルは微笑んだ。
「氷河だ。ゆっくりと……流れている」
鋭い切り立った山と山の間を、青白い河は流れていた。
ただし、氷の河である。
多くの岩石を氷面にまき散らしているものの、割れ目から漏れる光は青く、清らかだった。
耳を澄ませば、ギギギギ……と、音が聞こえてくるよう。
急に風が冷たくなったような気がして、エリザは震えた。いや、あまりに美しく、雄大な光景に、恐ろしさすら感じたのだ。
「何万年もかけて山を削って流れている。だから、このような低いところでも、時々いい石が見つかることがある」
「低い? ここが?」
ラウルの言葉に、エリザは驚いた。
エリザにとって、ここは天に最も近い場所に思われたのに。
ラウルは、笑いながら、両脇の山を指差した。まるで、剣のように鋭い造形だった。
「採石師たちは、ふつう、あそこまで行く」
気が遠くなるほどの山。エリザは目を丸くした。
「あ、あんなところまで?」
「霊山の最高峰はまだその向こうだ。ここからは、ちょうど山陰で見えない」
エリザは、さらにくらくらした。
通常、ムテの人々が『霊山』と呼んでいる場所は、この連峰のほんの小山にしか過ぎない。一の村から見上げる霊山本体は、夏でも雪が残るような山なのだ。
「最高峰からは、ガラルの山々がよく見える。反対側は、ウーレンの砂漠が広がっているけれど、渡れるのは鳥と風だけ」
エリザは、世界の大きさにおののいていた。
この風景は、ほんの一部にしか過ぎない。山ひとつ隔てれば、また、全く違う世界が広がっているという。
どきどきするけれど、同時に、ビクビクしてしまう。
「この山のどこかに、極上の金剛石があると言われている。いつか見つけたいと思っているんだけれど、さすがに難しい……。自分の能力の限界を知って無理をしないことも、採石師には大切なこと」
ラウルは、少し寂しそうに言った。
そして、斜面を下り始めた。
「エリザ、こっち。日が傾く前に、野営の準備をしなくてはね」
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