「潜在的輿論:壮大なるショー」


アメリカ大統領選がはるか地球の裏側で未だ続いている。情勢はまさに「大接戦」といったところだ。票の入り具合を見るにつけ、アメリカという国は相当な分断をこれからも抱えていくに違いない。その分断が「トランプの」4年間で深まったというのがもっぱらのメディア評なのだろうが私はこの分断はそんな生易しいものではないと思う。

それは4年前にトランプを大統領に選ぶ前から静かに、だが確実にアメリカという国に巣食ってきたものだ。私はトランプの体現するような「第一主義的」な言動はあくまで表層的な現象に過ぎないと思う。メディアが問題とすべきなのはトランプその人よりも、彼に大統領職という公職を与えた背後の大衆の蠢きではないか。だがこの点について主要メディアは未だ4年前となんら変わらず見当はずれの報道を続けているように見える。

私はいわゆるリベラリズムの掲げる民主主義や人権、自由といったものが変容していく社会構造と、それによって「より貧しく」なっていく大衆たちに、なんら有効な政策ないしメッセージを発することができなかったという点が最も深刻であると思うのだ。その反動としてトランプは選ばれたに過ぎない。仮に今回の大統領選挙でトランプが落選し、政権移行が果たされたとしてもこの点について効果的な政策なりメッセージがなければ第二第三のトランプ的現象は今後も容易に起こるだろう。そして、そこに加担する大衆のことを大所高所から見下ろすようなメディアに旧来ほどの意味や価値は置かれなくなる。メディア自身にもその反動は訪れるに違いない。トランプは結果ではなく、あくまで通過点でしかないと私は思う。

民主主義や人権、自由を基調とした社会と政治は実際になにをもたらしたのか?そして、その制度は変容していく世界の中でどのように存続していくのだろうか?

この点は改めて問われてもいいイシューだろう。だが主要メディアは一面的な報道に終始するばかりで、この異様な接戦と熱狂の後ろに控えるものについて全く考えるそぶりもない。

まるでメディア報道も含めて消費される巨大なショーを見ているような、そんな気分に私はなったのだ。



ちょうどそんなことを考えている時に、「岩波講座 日本の思想」の第2集を読んでいた。その中に長妻三佐雄の「声なき声はどう届くか」という項があってこれがなかなか興味深い。

長妻は多様な人々の声について、これらが顕在化するのはほんの一部ではないかという。長妻は一貫して、「日々の暮らしの中で埋もれてしまっている『声なき声』を公共空間に届ける方法」はないものかと主張する。ここで長妻は清水幾太郎の「流言蜚語」の概念を取り上げる。清水は、日常生活に存在する「匿名の思想」に着目し「声なき声」の重要性を認識していた。一方で「声なき声」の持つ表現形態の一種として流言蜚語を捉えていた。こうした流言蜚語の危険性を捉えながらも、既存の公共空間に現れることのない人々の声を流言蜚語の中に見出すのが清水の考えである。また清水は輿論(よろん)を「顕在的輿論」と「潜在的輿論」の二つに分け、流言蜚語を後者に位置付けた。顕在的輿論とは、「自己を実現することを得た輿論」と定義される。これは「人々の間に生き、一つの集団の生命として現れ、自己を公の社会生活の中に立たせることができたもの」といえよう。それに対して潜在的輿論は「自己を実現することができず、かえって可能の状態にとどまっているものであり、社会集団をその担荷者として持つものとして生きることがない」ものをいう。輿論とは、個々人の内部にあるままでは「私の存在」である。そこにマスメディアに代表されるような公の舞台で発表されるか、社会集団に担われることによって潜在的なものから顕在的なものになる。

さらに潜在的輿論の中には顕在的輿論に発展することがないまま消えてしまうものもある。「潜在的輿論が顕在的輿論となるためには人間行動による媒介を必要とする」が顕在化することを阻まれる場合もある。清水は流言蜚語を「アブノーマルな輿論の形態」として捉える。これらは社会秩序によって、表に出てこないばかりか表現することも禁じられている場合もある。こうした表現は潜在的輿論は「住むべき家」を持たないがゆえに流言蜚語として表れる時がある。これらは口頭で人から人に伝えられる流布される。

清水は流言蜚語について、「多くの流言蜚語は若干の知性を含んでいる」とし、「時として公衆の意見にもまさる生産性を有する」こともあり、主たる担い手を「潜在的公衆」と名付ける。この潜在的公衆とは、「閉ざされた魂」を持ち、自己を開こうとするが開いた場合の結果を危惧して自己を閉ざす。

長妻はさらに、こうした流言蜚語からもこぼれ落ちてしまう「声なき声」も数多くあると指摘する。長妻はその中で「安定した社会状況であるならば、表現されることはなかった『声なき声』が『流言蜚語』という『アブノーマル』な形態をとって顕在化する。社会不安や自然災害が人々の不満や欲求を飛躍的に高め、既存の媒体とは異なる表現形態を模索した結果として、『流言蜚語』は生まれた」という。

流言蜚語とは、声なき声の表現形態の一つであるが、さらに「匿名の思想」は慣習のように密かに日常生活を支えている。清水はこうした「匿名の思想」を重視したという。これを無視してはいかなる社会制度も十分に機能しないとも考えていた。また難しいことに、匿名の思想とは明確に言語化することができない。これは「感性に内在する知性」とでもいうべきものだ。

さらに鶴見俊輔の活動を例にサークル活動に代表されるような、草の根の運動がこうした声なき声を公共空間に届けることの意味合いを考察する。長妻は、サークルとは不特定多数の人が自由に参加するため既存の媒体に利用されることが少ないことをあげながらも、サークルそのものも自然発生的なものではなく、「誰かが場を設けること」で始まる。サークルとは目的に縛りるものではない。自由に交流すること自体が目的であり、ここで声なき声を組み上げるという発想そのものが問題ではないかともいう。自発的で自由な交流そのものの中にこそ、声なき声とは浮かび上がってくるのではないか。こうした活動の中で、新しい価値や秩序が形成される可能性がある。そのためには生活空間が異なる他者への想像力とコミュニケーションとが切実に求められている、と長妻は結ぶ。



これは大衆の中にある「言語化のできない思想や言論」を端的に考察したものである。そして、清水の指摘したように、これは群衆心理を基本としたものではなく、一定の知性を基にした生産的なものでもあることも重要な点である。この構図を、今回のアメリカ大統領選挙に当てはめて考えれば、彼の国の混沌具合が少しは説明できないだろうか。

主要メディアの見方とは「潜在的輿論」、「流言蜚語」に対してあまりに一面的であると私は思う。こうした潜在的輿論や流言蜚語の類を「掬い上げている」のはソーシャルメディアである。潜在的輿論とは、個人の内面的欲求から発せられるものである。それは個人の単なる欲求を越えて、社会制度を支えその構造を形作っていくものでもある。こうした点から潜在的輿論、声なき声を捉え直すと現代においてその形態はより複雑である。そして、対になる既存のメディアや公共空間の側の硬直性というものについても考察の目は向けるべきではないか。

声なき声というものは言語化されず、可視化されることのないものだ。今後この傾向はますます大きくなっていくだろう。個人の価値観や欲求はますます細分化していき、こぼれ落ちていく人々は減らないだろう。そうした時に、言論空間や思想というものはいかなる位置にあるのだろうか。

アメリカ大統領選挙の混沌は、そのことを改めて突きつけているように思えてならない。

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