「論証(アーギュメント)」


アンソニー・ウェストンの「論証のルールブック」を読む。

議論の進め方にはルールがある。議論とは、単に自分の意見を一方的に述べるための手段でもなければ、相手を打ち負かすためのものでもない。それは論証の本来の意味ではない。

ウェストンは、本書の中において「論証」を「結論を支える一連の根拠や証拠を提示すること」だと定義する。論証とは、特定の考えを根拠によって裏づけようとする行為のことを指すのである。

論証が重要であるのは、「見解の是非を判断する手段」であるのと、「検討のための手段」であるからだ。だが、論証とは難解なものであってはならない。相手あってこその論証であり、自らの論拠を正しく理解されてこその論証であることも忘れてはならない。ゆえに、いかに分かりやすく、正当性を主張できるかが論証の重要な役割となるのだ。

論証にはいくつかルールがあるが以下にそれを挙げる。

まず第一に、論証の前提と結論を決めることである。これを明快にしておかなければ、論証は論証足り得ない。これが決まったら、それらを補強するための例証を使うべきである。これは一般化を裏付けるための具体的なものとなる。また類推による論証も有効である。これは例をいくつもあげるのではなく、二つの事柄が多くの点で似通っている点を根拠にして一方がある特質を持つ場合にもう一方も同じ特質を持つはずであると推論するものである。また類推には適切な類似性があることも大切である。

権威による論証も重要である。これには情報源を明記し裏付けを取ることが必須である。また公平かつ異なる視点からのチェックも必要だ。

原因についての論証も有効である。これは相関関係から原因を導くものである。またこの論証の特徴は、複数の説明が可能かもしれない点である。また因果関係は複雑であることも知っておくべきだ。

演繹的論証は、前提が真実であれば結論も真実に違いないという形の論証である。適切に作られた演繹的論証は、「妥当な論証」と呼ばれる。このほか反対意見を想定したり、代案を検討したりすることで論証は多彩にかつ明快に展開することができる。

実際の論証文は、冒頭にも述べたように簡潔にそして明快に書くべきである。また全体を概観するアウトラインも重要なものだ。そして、どんな論証も独りよがりなものである限りは有力な根拠を持つことはできない。そのためには、自らの論証に対する反論の詳述と解答が必要となるのだ。そしてこれら一連の流れは、謙虚な姿勢で行われるべきである。

また併せて、良い論証を展開するためのルールに違反する「誤謬」も理解しておく必要がある。その一つが人身攻撃である。これは論証それ自体ではなく、それを主張する人の人格や宗教、民族などを攻撃対象とすることである。また無知に訴える論証だ。ある主張か否定可能であると論証できないのをいいことに、正当化することを指す。衆人に訴える論証もルール違反である。「みんなこうしている」というように扇動することで、支持を取り付けようとすることだ。後件肯定は別の可能性を見落とす誤った推論形式である。同じ誤った推論形式としては前件否定がある。これは別の説明を見落とすものである。また論点先取も、結論が前提に含まれているために、論証のようで論証になっていない誤謬である。これは循環論法と呼ばれるものと同じ種類の誤謬である。複問とは、一つの質問の中に複数の論点が含まれているために、肯定も否定もできなくさせてしまうことをいう。多義による虚偽は、論証の途中で言葉の意味を転じてしまうことだ。不当原因は、因果関係に関して説明の余地がある結論の総称である。誤った両刀論法は、実際は多くの選択肢があるにも関わらず、二つの選択肢のみを提示することをいう。また感情的な意味合いの強い言葉は論証を成り立たせることはできない。不合理な推論は、前提となる論拠に矛盾した誤った結論を導くことをいい、悪い論証に対して使われる用語だ。過度の一般化も誤謬の一つだ。説得定義は、誘導的な表現を使って言葉を定義することである。レッド・ヘリングは重要でない問題を持ち出して議論されている問題から注意をそらすことを指す。カカシ論法とは、相手の意見を戯画化して反論しやすくすることをいう。



ここまで簡潔に論証の方法と、陥りやすい誤謬をあげてきたが、私は論証の方法よりも誤謬の方がより重要であると感じた。これは私たちが論証する際だけでなく、日常の人間関係の中でも犯しやすい間違いとも重なるものではないか。

牽強付会、我田引水。

人は自らの都合の良いように人や事実を解釈し、良く見せようとする。論証は明快でありながら、個人の主観から距離を置いた客観性の担保された主張であるし、そうあるべきである。論証がそうなり得なくなるのは、私たちが自らの論証に酔い、前提に対する反論や可能性、真摯な説明を放棄した時である。日本人は一般にあまりディベートということを好まないとされる。会社の会議は基本的に合議制であり、徹底的な議論よりも前例踏襲型の形式主義的な進め方を好む。こうした姿勢の善悪云々は置くとして、これは一つの特色あるいは企業文化なのではないか。

先日アメリカ大統領選の討論会があったけれど、これは悪い論証のお手本のような討論会であった。トランプの過激な物言いは言わずもがなであるけれど、バイデンの相手を小馬鹿にしたような態度もちょっといただけない。そして、かれは終始「カカシ論法」でトランプを突いていた。彼らは本来、互いの政策を語りアメリカを今後4年間どこへ導いていくのか率直に有権者に示すべきであるが、全くそんな空気はなく終始互いの批判合戦に明け暮れていた。これは論証とは呼べない。またこうした両者の空気を支えるメディアと有権者もまた同じレベルにあるといえる。メディアはここで、異なる視点や説明を社会的に示す義務があるはずだ。トランプの過激かつ無知な物言いをあげつらい、それに比べてバイデンがいかに「まとも」かを比べる手法など、目新しくもなんともない。前回の大統領選挙のヒラリーがバイデンに代わっただけの報道のやり方は退屈なことこの上ない。前回の大統領選で大方の主要メディアが軒並み予測を外しトランプ大統領誕生となった前回から、大手メディアは何も学んでいないように思える。トランプ自身に問題があるのではなく、彼のような主張や手段が社会的に成立してしまう現代アメリカ社会の背景こそここでは問われるべきだ。単純なイデオロギーや経済格差だけではない根深い歴史的構造的な問題がここで明らかになっているのではないか。つまり、自由主義や人権、平等といった西洋の伝統的価値観とされたものが現代にあってはかつての神通力を持たず、そればかりか多くのアメリカ人がそれによってもはやなんの恩恵も受けることができないという漠然とした実感や不安に対して、政治という行為と構造とが、明快な解答を持ち得なかったことへの根深い不信だ。これこそが、アメリカ社会を大きく分断している要素なのではないか。仮にトランプが再選されなくても、トランプ的な人物や現象は幾らでも今後アメリカ社会において放出されるだろうと私は思う。

もっぱら勝者なき討論会と評価されているそうだが、約90分見た感想はまさにそうである。ではLoserは誰なのかといえば、トランプでもバイデンでもなく、それはアメリカという一つの巨大な国家だろう。

話が逸れたが、論証とは武器になる一つの方法だ。自己主張の有効な手段の一つであり、自己を理解される上でも重要な方法の一つである。

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