「論理療法入門」

私たちはの認知(ものの見方)や価値観や信念というものは、必ずしも合理的なものとは限らない。非合理的・非論理的なものも珍しくない。

例えば「私はどうしても希望する大学へ行きたい。だから努力しなければならない」と、「私はどうしても希望する大学へ行きたい。大学へ行けなければ私の人生はダメだ」というのはどちらが非論理的なものだろうか?

それは後者の方だ。大学へ行けなかったからといっても、人生が終わることにはならない。問題なのは、そのように思ってしまう認知の方なのだ。

人は自分はダメだと考えるがゆえにダメだと感じ、その見かけや行動までそうなってしまう。論理療法では、自分で自分を変えることができるという立場を取る。自分の思考や心の中の文章記述を変えることで自己改造へと繋げていく。

非合理的・非論理的な考えの一つに過度の一般化が当たる。自分の今までの経験を不当に一般化し、そこまで言えるはずのない結論を導き出すことだ。また「どうせ思考」というのも非論理的な思考の一つだ。「どうせ」で始まる言葉にはネガティヴなものが多い。


どうせ自分なんてダメだ。

どうせ話しても無駄だ。


この「どうせ」という言葉は、自分だけでなく他人の可能性も奪ってしまう。例えば教師がこのような感情で生徒に接する時、初めからその可能性を奪うことになる。この「どうせ思考」は過度の一般化の事例である。



論理療法では感情が引き起こされる仕組みをABC理論というものによって説明をする。

Aとは物理的世界、Cは感情的世界であり、その間にあるBがその人のものの見方や捉え方に当たる現象学的世界である。このように見ると、物理的世界の出来事がただちに感情に影響を与えるわけではないことが分かる。

ものの受け取り方には、まともな受け取り方(ラショナル・ビリーフ)と、おかしな受け取り方(イラショナル・ビリーフ)がある。この場合問題となるのはイラショナル・ビリーフである。人間の思い込みとは、このイラショナル・ビリーフが多く見られる。神経症者とはこのB(現象学的世界)の部分で事実に基づかないことを固く信じ込んでいる人のことをいえそうだ。

だがこのABC理論は目新しいものではなく、古代からさまざまな文献によって暗に説明されている。

エピクテートスの「人生語録」には以下のような文章がある。


……彼を苦しめるのは、この不幸そのものではない。(何となれば、多くの他の人々は、このために苦しめられはしないであろうから)、却って彼が事物に対して有する概念によって苦しめられるのだ。


事物(物理的世界)そのものが感情の原因ではなく、それに対して有する概念(現象学的世界)こそ感情を引き起こすものであるのだ。

また「自省録」で高名なマルクス・アウレリウスは、「君の不幸は他人の指導理性の中に存するわけではない。また君の環境の変異や変化の中にあるわけでもない。しからばどこにあるのか。なにが不幸であるかについて判断を下す君の能力の中にある。ゆえに、その能力をして判断を控えさしめよ」と書く。

これも物事自体が問題なのではなく、それに対する受け止めや認知が問題である。

このように感情とはその人の思考過程から生まれる。そして、非合理的・非論理的な感情とは、shouldとwishとが混同されている。「こうあらねばならない」と「こうあってほしい」とが混同されることで、人は物事に対して怒りや虚しさを感じるのである。

wishと考えるべきところを、shouldと考えてしまう思考の歪みはよく見られる。

他人と自分とは全く別の感情と思考とを持った生き物である。その感情と行動とは、その人の論理世界に属するものである。他人の行動や感情が自分のwishと合致しないと腹を立てるところから脱皮して人間関係を眺めてみるとずっと楽になれるのではないか。

また持越し苦労も思考の歪みの一つである。これは「〜すべきではなかった」に表されるものである。もう一つは、自己主張への恐れである。「こんなことをすれば〜だろう」といった類いのものだ。これはあくまで推論・想像でしかないが、その人の行動や思考に大きく作用するものだ。

さて、ここまで見てきたが、論理療法の基礎であるABC理論に、D(非論理的な考え方への反論)とE(行動変容)を加えよう。

人の認知や感情にはBつまり現象学的世界が重要であった。ここに、反論と行動変容をつけ加えることでより客観的に自らの感情を捉えるようになれる。

例えば「他人は私を非難するべきでない」という認知があるとする。それによって、私は強い怒りを覚えており、人間関係がうまくいっていない。ここで、Dの段階が力を発揮するのだ。果たして、他人は私を非難するべきでない、という法則など本当に存在するのだろうか?そんなことはないはずだ。だとすれば、この「非難すべきでない」という私の思い込みこそが非論理的なものではないのか。他人は私について思うように発言をする権利があるはずだ。その発言が的を得ているか、いないかだけなのだ。相手の非難が正しければ立腹することはないし、不当であれば「可哀想な人」なのである。こう考えることができれば、非難即怒りという図式にはならない。こうした感情の変化こそEの行動変容である。



まとめると論理療法とは、感情が肥大化してしまった人のイラショナル・ビリーフな認知を、ラショナル・ビリーフ、つまり事実に基づいた考え方に変えることを目的とするものである。

人にはさまざまなビリーフ(信条)があるが、これは容易に人を捉えて自縄自縛にしていくものだ。だがどのようなビリーフも固定的で絶対的なものでもはない。それらを説得と自己説得によって、論理的に再構成させていくことにより、行動の変容を目指していく。

物事自体が、私たちを縛るのではなくそれに対する認知こそが私たちを苦しめているのである。

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