「腐肉 現代という時代」

あらゆる知的問いかけは、たった一つの問いへと回帰していく。

それは、「私はいかなる存在なのか?いかに生きるのか?」という問いだ。

この事実はあまりにも陳腐であり、真正面から問いかけることそれ自体が恥ずかしいほどに単純なものだ。だが未だ私たちの次元というものは、この最初にして最高の問いから抜け出ることはできない。これは集合的な無意識ともいうべきところに深く沈んで、よほど感性を研ぎ澄まさなければ立ち昇ってくることはない。こんなことを誰かにぶつけようものなら、途端に笑われて「そんなこと知らない」と流されてしまうだろう。それは一面では真実で、辛辣な見方をするならば「知ろうともせず」に流して憚らない、この問いかけに対する意図的で宿命的な私たちの不遜な姿勢の表れである。


私は、自分がいつか必ず死ぬことを知っている。それは変えることのできない一つの生物的現象であり、詩的にいうならば運命である。だが、この運命というものについて私は不思議でたまらない。確実に死に向かっていくこの生というものは、一体なんなのか?

そして、その只中にあるこの「私」という存在とは一体なんなのか?


最近思うのだけれど、この問いかけは人類の最初にして最高の知的問いである。未だこの問いに対して、私たちはなんら有効な解答を得てはいない。あるのはそこに至るまでの洗練された知的探究と、更なる「問いかけ」である。

つまり、「いかに生きるべきなのか?」というものがそれである。

人が他の生物と決定的に違うことは、自分が必ず死ぬということを知っていることにある。それは「今を生きている」ことの実感とも表裏を成すものだ。だから人は死の道程にあるこの「生」というものに価値を与え、でき得る限りそれを伸ばそうとする。その意味で生死というものは等価値なものであり、表裏一体となっているものだ。死への恐れはそのまま生への憧憬であり、称賛へとなっていく。



翻って現代へと視点を移すと、この私たちが持つ生物としての基礎的な実感、つまり「生きているという実感」は微妙に異なる様相を見せている。

現代についての考察として、私は三島由紀夫の書いていたことが最も端的で正鵠を射ていると思う。「生きている実感を持てず、それをどう実証するのか?そうした中では、暴力のための政治的行為や生殖を伴わないセックスに陥っていくこともやむを得ない」。

現代といっても、三島の生きていた時代であるからまだ高度経済成長期を迎える日本についてである。だが、この言葉は驚くほどの共感を持って迫ってくるのだ。

私たちは交通事故以外では滅多に死なず、薬は完備され、(不治の病であった)結核や兵役とからは完全に免れている。

そして、ここには巨大な虚無がある。物質的には豊かになっていく日本において、三島自身がその虚無に囚われ、必死にそこから逃れようと己の肉体を人工的に作り変えることで実感を保とうとした。文学者としての成功も、右翼活動も、その他のあらゆる活動的な生活も結局三島の抱え込んだ巨大な虚無というものを癒すことはできなかった。ましてや取り除くことなど、望むべくもなかったのではないか。実際に、三島は自らの人生について、「自分の中の25年を振り返ってみると、その空虚さに今更びっくりとする。私はほとんど生きたとはいえない。ただ鼻をつまみ、通り過ぎてきたのだ」と語っている。三島は自らを殺すということで、ある種の完結を果たそうとしたのではないか。死によってしか、「それ」は完結には至らない。イデオロギーという表面的な理解では不十分で、死に直面することで、自らを終演へと追いやることで、、三島は逆説的にこの虚無というものを越えようとしたのではないか。

日本の中に生まれつつあったこの虚無というものを考えるにつけ、その極致の現代はどんな存在なのだろうか。



少し逸れるが、肉は腐りかけが一番美味いという。

このエッセイのタイトルを「腐肉」としたのには、ちょっとした意味がある。

私は何事にも悲観的で、厭世的なところがある。文明や文化の進歩など疑わしいと思っているし、それによって自らの人間性をも比例して先進的になるなど信じ込んでいる人たちのことは正直軽蔑する。

けれど現代という時代を色眼鏡なしで見るならば、とても良い時代でもあるかもしれない。人は本質的には弱い存在で、自然界の中でもそれほど強い種ではない。そもそもほ乳類という種そのものがひ弱な存在だ。

だが人には知能があり、道具を作ることができた。そして社会集団を築き、複雑で高度な文明を作り出した。人には空間的物理的な限界が多くあったけれど、現代はそれを容易に声出ることができる。国境はもはやあってないようなものだ。インターネットの普及で、ここにいながらして、世界の裏側へだって行くことができる。

そうした意味で、現代とは人類の一つの到達点ではある。これほど便利にそして自由になれた時代とはないかもしれない。

その意味で、再びタイトルに戻るが今が「一番美味い時期」ではないのか?

だがこれは表裏の言葉である。腐りかけのそのあとはただ腐敗していくのみだ。フランス革命前夜のロココ文化が旧時代の徒花よろしく爛熟で絢爛な様相を見せたように、現代という時代もある種の徒花的なもの……そんなアンチテーゼとしての意味をこの「腐肉」に私は負わせている。



こうした点を踏まえて、本題である「現代という時代」について考えていきたい。

以前のエッセイの中で、個人主義が近代的特徴の一つであるであると書いた。この個人主義は現代においてももちろん特徴あるものとして受け継がれている。ここで指摘したいのは、近代における個人主義とは、闘争の末に獲得された個人主義であった点である。ゆえに、個人主義とは一つの理想主義でもあり、その社会的実践でもあった。現代における個人主義とは、すでに獲得された後のものであり、その意味で理想主義というよりは日常的に消費される類いの一つの実感である。そこに高度に情報化された現代という装置があり私たちはその只中に生きている。

そして現代特有のインターネットを基調とする空間的物理的な無制限さは、むしろ私たちを摩耗させ自己への自閉的な傾向を加速させている。私たちのこの内側と外側との枠が個人主義である。個人というものは現代特有の装置によってこれまで以上に世界へと開かれていながら、自閉的な傾向を強めている。このパラドクスが現代という時代の特色である。

私たちは開かれた存在であり、そうあろうとする。それは他者への関心、世界への関心へと端的に現れているが、その機会を日常的に提供するインターネットという空間はむしろ私たちの内面を閉鎖的にしていく。掌に収まるだけの自己完結をした物語を展開するために使われていく。

自己完結と自閉的な自己への関心、世界への関心と、それを支える個人主義は典型的な現代人の生き方としてあるものだ。

分不相応の目的と目標を立てることもなく、もはや物質が幸福の絶対条件ではなくなった中で、それなりにそうした現実を悟って生きていく。病的なほど無気力というほどではないが、情熱的になることはあまりなく、友人や就職、結婚、人生に対しても多くは望まず、そこそこを目指す。人によってはそうした人生のできごとすら煩わしい。社会的にも自己完結を手助けするツールは山のようにあるからだ。抱えきれないほどの幸福も不幸も望まず、自分で抱えきれるだけのものを欲する。それは堅実であり、悟っているのかもしれないがなにか無機質で、深い諦観のようなものを感じる。この現代特有の悟りと諦観はどこか宗教に近いものを感じる。皮膚感覚としてどんな人にもこの種の悟りと諦めは共有されているからだ。学歴や所属する会社のブランドによって、人生が絶対的に良くなることは保障されない。重要なのは、幸福へ至る方程式が崩れたことではない。「ではそのための努力とは一体なんだったのか?」「この時代においてはなにを信じて、価値あるものとして拠り所にすればいいのか」という意味と価値をめぐる現代の無解答性にある。

急速に変わりゆく現代はそれへの解答どころか、腰を落ち着けた思索さえ許してくれる時間を与えない。その中で漠然と唯一私たちに共有されているのが、この悟りと諦めである。言葉にせずとも、「努力は報われない」「いい大学やいい会社は人生を担保するものではない」という感覚は一定の共感と説得力を持って存在していることがその証左だ。

こうした感覚は表面的には無気力で感情を露わにしない、無関心な若者像としてアイコン化されている。これは時代の空気であり、一つの現象である。感じやすく傷つきやすい若者を通して、現代という時代の「顔」がそこに浮かび上がっているのである。そうした現代の顔は病みを抱えている。

それは表面的な無関心や無気力さではなく、先述したように前時代的な価値観が敗れ去った中で、なんらそれに変わるような、あるいは乗り越えるようなものが示されていない点にある。私たちは進んでいながら、進んではいない。開かれているようで、ちっとも開かれていない。

個人や自由といったものは、近代において価値を持ったものであったが、現代の悟りと諦めというものに対し、なんらの解答を出すことができていない。これこそが根深い問題である。



私たちの実存を支えていたのはかつて宗教に代表される神話や物語であった。これは理性とは分離された第六感や直観といったものから派生するものであり、本能に基づいたこうした産物は歴史的に私たちを捉えてきた。

だが理性によって思索を進める哲学の登場で、私たちはもう一歩進んだといえる。世界とは神のみによって成り立つのではなく、人間とは理性と啓蒙主義によって私たちは新たな地平へと降り立つことができるのだ。そしてこの両者を凌駕する科学主義というものが、新たな私たちの主人であり実存を支えている。さらに現代においてはインターネットという強力な舞台装置によって、私たちは空間や物理的な制約すらも飛び越えた世界にいる。

だが何か満たされない。無関心と無気力、そして漠然とした不安とそれを抱え込んだ個人主義はそのまま宗教、哲学、科学の限界をも露呈しているように私には思える。人間の知性の結晶ともいうべきこれらは、洗練された問いかけと道程を示しはしたけれど、冒頭に書いた原初的な問いについて人類的な答えは出せていない。もしかするとそれは永遠と続くメビウスの輪的問いなのかもしれない。

私は宗教でもなく哲学でもなく、科学主義でもない有機的な思想というものが必要なのだと思う。人間的な実存とは一体なんなのか、私にもそれは分からないが、その一つは実感であると思う。

私が今ここにある実感、ここにいてもいい実感。そうした赦しと肯定と共感の単位が、今の世界には必要であり、どこかで欠けている。それこそが現代の病理であり、生きづらさの本質ではないか?

現代とは、そうした時代であり有機的な人間の実存に基づいた統合的な思想を切実に必要とする時代である。そして、そこに生きる私たちはそれを切実に欲していながら、未だもがき続ける存在である。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る