「はじめてのオペレーションズ・リサーチ」斎藤芳正


オペレーションズ・リサーチ(OR)とは第二次世界大戦中にイギリスで軍事作戦研究の技法として創案された。主に軍隊で使われてきたが、現在では企業経営や公共政策など分野を問わずに使われている。

一般的に行われている意思決定の手法とは、以下のような特徴がある。


1.検討対象として、ハード面にばかり目がいき、ソフト面に考えが及んでいない。

2.評価の際に主観的な定性的評価になりがちで、客観的な評価である定量的評価に乏しい。


これらを踏まえて、ORでは「ソフト面に目を向ける」、「定量的観点からの評価に努める」ことに留意し問題解決に臨んでいく。

ORの特徴としては、上記2点の他に、「科学的な方法である」ことと、「スタッフの立場に位置し、意思決定に資する働きを有する」点である。

科学的な方法とは、以下のものを指す。


1.疑問・問題を表現する。

2.仮説を提唱する。

3.仮説から演繹を行う。

4.演繹を観察・実験によって検証する。

5.結論を引き出す。


またORの方法を一般的手順にして示すと以下のようになる。


1.体系を把握する。

2.目的を明確にする。

3.評価尺度を決める。

4.体系をモデル化する。

5.最適な運用方法を求める。

6.意思決定者に提案する。

7.実行状況を管理する。


ORの実践例として、食洗器の例がある。ある軍隊では食べ終わった食器を兵士自身が洗っていた。食器を洗う桶が2つと濯ぐ桶2つとが用意されていたが、いつも行列ができていて非常に効率が悪かった。そこで調査を行うと、食器を洗うのには濯ぐよりも3倍もの時間がかかっていた。そこで濯ぐ桶の1つを洗う方の桶に転用してみたところ、行列ができることはなくなった。ここで注目すべきは、介入したのは桶の配置を変えた点のみということである。新たな機器を導入するなどのハード面での介入を行わずして、問題解決に導いている点である。

このようにORは客観的な手法(この場合は食器を洗う時間を計ること)によって、出来るだけ既存の環境を変えずに問題解決を行っていく。

ただ、こうした手法を取る際に気をつける点は「理論・技法に合うように実際の体系を歪ませてモデル化するのではなく、体系に合うように理論・技法を当てはめ、修正してモデル化する」ところである。

またORを使いこなすことの効用を、著者である斎藤は「あらゆるものを数量化しようとする癖が身につく」ことと、「ものを具体的に考えるようになる」ということだ。ただ一方で斎藤は先述したように、数学的処理にこだわるあまり、「なぜそのような結果になったのかを運用上の観点から説明をしない/できない」というようなことは戒めなければならないという。実学から離れたORのためのORはなんら役に立つものではない。

ORとはあくまで机上の空論ではなく、実践的な理論であり、そうであるべきなのだ。



なぜ、ORを取り上げたのかといえば働く中でいかに普段の意思決定や問題の捉え方が主観に寄り、恣意的な解釈によって行われている。しかも私たちはそれをあまり意識せずに行っている。その対象が機械であればまだ傷は浅く済むのだろうが、例えば教育や医療福祉などの領域で介助者による恣意的な解釈の元での一方的な問題解決の方法とは悲劇であると思うのだ。私は実際に医療福祉の分野で働いているけれど、この功罪は日々感じずにはいられない。

対人サービスに属する分野で「科学的手法」などといえば批判は免れないが、もはやそんなことを言っている時代ではないと私は感じる。むしろ、いつまで個人の主観や恣意性を強く反映した問題解決や評価検討を行い続けるのか、と問いたい。もちろん、意思決定とは主観と客観の両輪で成り立つものであるだろうが、現在はあまりにも主観が幅を効かせすぎであると私は思う。

その意味でORの視点というものは、非常に魅力的だ。表面的な環境への介入ではなく、既存の環境をうまく転用しながら問題解決を目指す。これは現在への客観的な評価と事実への適切な認識と表裏となる姿勢であろう。

客観的かつ具体的な理論とその実践は、社会人にとって必須の要素であるにも関わらず、この点はあまりに過小評価されている。そして、表面的な環境への介入だけで「やった気になる」人間は多い。より批判的に客観的に、事実を認識し評価と検討を行うべきである。

ここまでは、ある程度肯定される部分もあるだろうが、その対象が「人間」となると反応は違ってくる。以前は中室牧子という教育経済学者が著書の中で、「教育にエビデンスを」と主張しても、「人を対象とする教育に科学を持ち込むなんてけしからん」とかなり批判をされたそうだ。統計を取るためのデータすら、国の機関になく、数字を取ることへの忌避と必要性に対する認識不足を改めて感じたということが書いてあった。中室は一貫して教育にもエビデンスが必要であると書いていたが、私もそう思う。同じように人を対象とする薬などでは、科学的根拠なしには社会に流通しないのに、同じく人の一生を左右する教育においては同じことが批判を持って妨げられる。それはなぜか?

それは多くの専門家ではないが「自らも教育を受けた」という主観を持つ人々が、強硬に反対をするからだ。これはなにも一般人に限った話ではない。特に福祉業界にも同じことが言えるだろうと私は思う。

経験に基づいた主観を悪く言うつもりはないが、私たちはその視野の持つ狭さと限界とには謙虚に向き合うべきだと思う。そこにあぐらをかいて、あまつさえ他人を見下す人間が多すぎる。これでは問題解決もヘチマもない。私はこうした現実への一つの処方箋としてORの知見を使っていきたいと改めて思ったのである。

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