「進化は万能である 人類・テクノロジー・宇宙の未来」マット・リドレー 大田直子 鍛原多恵子 細田裕之 吉田三知世 訳

私たちを生物としてのヒトとして捉えた時、今現在の形は進化の「結果」としての姿である。だが、その進化とはどのようにもたらされた結果であるのか?

大抵の場合、私たちを進化させるのは外部による環境によるという意見が多い。だが、リドレーはそうした見方を否定する。

私たちの進化とは、外なるものからではなくて内なるものからの自発的な現象に他ならないのだ、と。進化とは、内部から自発的に行われるものであって、外部の環境によって起こるものでも、起こされるものでもない。こうした見方は科学の世界において長らく異端とされてきたものであったが、徐々に定説を覆す証拠が揃い始め、リドレーの説も受け入れられるようになっていく。



本書の中の一節、「心の進化」では過去の定説がいかに強力であったのかが分かる。まず、デカルトから始まった心身二元論により、心と体とは完全に分離をしているとの説が一般的になる。そこで心は脳に由来する器官であると考えられた。それに対しスピノザは心と体とは互いに延長線上にあるものであり、場面によってどちらか一方の属性が強く認識されているに過ぎない、とした。これは激しく非難され、スピノザの著作は本国オランダでも発禁処分にされたほどだ。

リドレーは、脳のどこかに自己という塊があるという見解を「強力な幻想に過ぎない」という。自己とは、思考の原因ではなくあくまで結果なのだと彼はいう。

だがこれまで私たちが強力に信じてきた、自己や自由意志、さらには魂といった形而上的な概念とは逆にいえば私たちの脳の進化的な現象といえるのではないか?本来、意識や自由意志を生命のない物質から現れて進化したものとみなすことには矛盾が含まれる。その一方でこうした見方は、「魂が存在する」というような信念を説明しやすくもした。

人間には意識があり、哲学的な思索に興味を憶えることによって、意識に機能を与えたのではないか?哲学者のニコラス・ハンフリーは「意識は奇跡を起こし、主体の人生をより良いものにする、ありえない虚構」と表現する。そして、そうした信念は脳の自発的進化によって獲得されたものなのである。

魂や自己意識や自由意志の由来を、歴史や由来を持たない抽象的な存在であると決定づけるよりも、この見方ははるかに納得のできるものではないだろうか。



もう一つ、「人格の進化」をここで取り上げたい。

人は家庭の中で始め育っていくが、当時の見方は親の育てがそのまま子に受け継がれていくものであるとされてきた。控えめな親の元では控えめな子どもが育つ、というように。これを「情動の社会化」もよぶ。子どもとは、「タブララサ」つまり、何も書き込まれていないまっさらな石板という前提が見て取れる。これは、生まれ持った遺伝によって人の形質は決まるわけではない、という考えを強化することに使われ、長らくそう信じられてきた。

だが1960年代になると幼少期にトラウマを求めることや、親の養育のせいにする傾向が極端になった。人格の唯一の原因を親の影響や養育に求めることは疑いなく行われた。そして、人格の形成に遺伝的な要素を求めることは激しく批判をされたのだ。リドレーは「タブララサのドグマ」とよぶが、それは長らく人文科学の世界で支配的な見方であった。

だが、動物行動学の研究から本能から複雑な行動が生まれることを示す証拠を無視することはできなくなっていく。また、別々の場所で育てられた一卵性双生児が似通った知能や人格を示すこと、対照的に一緒に育てられても養子は互いに大きく異なることにも遺伝学者たちは気づいていく。

人の人格にも生得的なもの、つまり遺伝子が大きく関わっているのではないだろうか。子どもの人格は親と似ることがあるがそれは親の遺伝子を受け継いでいるからだ。家庭環境と、親の子育てとは、子の人格形成に影響しない、と心理学者のハリスは主張した。人格の違いとは、その半分が遺伝子の直接、間接の影響で生じ、半分は何か別のものから生じる。だがそこにも、家庭環境の影響は含まれていない。



こうしたことからいえるのは、私たちの中に内なる「知性」による本能的な働きがあるということだ。その進化とは、生まれや育ち、文化や社会環境といった外部の刺激や環境によらず、自発的に自らを進歩させる働きがあるのだ。リドレーは、「私たちの情動や能力は外にではなく、内に由来する」と繰り返し書く。

学習することができるのも、私たちに生得的にそうした能力が備わっているからだ。学習とは本能の反対ではなく、学習することそれ自体が本能の多様な表れの一つであるのだ。人間の脳には言語を学習したり、顔や情動を認識することを理解する傾向がある。

これまでの社会・文化決定論ではなく、よりバランスの取れた進化理論を提示していくべきではないか。



「内なる進化」の概念はとても面白く、刺激的なものだった。私たちの思考はどうしても曖昧模糊たる、自己の内ではなく実体を伴った外部へと向かうことが多い。だが、進化とは内なる力によって獲得されてきたものだあるとすることは、大きな知見を私たちにもたらすだろう。人格の形成が、必ずしも親の養育によるものではないことが明らかであれば、子育てや教育とはより違った意味合いを持ち、そこからまた「進化」が始まっていくのであろう。私たち内部の見えざる手によって。

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