精神医療をめぐる社会課題

なかなか夜眠れなかったので、youtubeを漁っているととても考えさせられる動画を見つけた。

NHKのハートネットtvのある放送回だ。それは、「ある青年の死 『石郷岡病院事件』 隔離・身体拘束、人としての尊厳」という回だった。

「石郷岡病院事件」とは、統合失調症とされ入院していた患者が亡くなった事件だ。患者の死後、病室内(病室というよりも独居房に近い)を映す監視カメラの映像が公開されて精神病院における患者の取り扱いが適切なのかと大きな問題になった。この事件では患者の日常的な介助に当たっていた看護士が暴行罪で訴えられている。

ハートネットtvのディレクターは遺族や故人の友人、精神科医、製薬会社、当該病院など幅広く取材を行い、実際に亡くなった患者が受けていた「身体拘束」まで体験している。



まずディレクターはこの事件で亡くなった当事者、「陽さん」について取材を重ねる。取材を受けた父親は息子について、「友達も多く、明るい方だった」と語る。その際ディレクターに見せた運動会を写したアルバムでは、組体操のピラミッドで1番上に立つ陽さんの姿があった。陽さんは特に大きな病気をすることもなく、大学へと進学するが2年次の年に急に引きこもりとなった。両親は半ば無理やり実家へと連れ戻し、2001年に精神科を受診させる。陽さんはうつ病と診断され、抗うつ剤の処方が始まる。

ここから陽さんは人が変わったような行動を取っていくようになる。路上で突然人を殴ってしまったのだ。錯乱状態、興奮した状態で父親は陽さんと対面する。陽さんの処方されていた抗うつ剤のSSRIは副作用として、時に衝動性を行進させるような働きをするという。この薬を認可した厚生労働省はSSRIの発売から9年後に注意喚起を行なっているが、患者が服用するにあたって適切な副作用の説明がなされたのか疑問も残る。

その後、医師はうつ病ではなく統合失調症を疑い処方される薬剤の数は増えていく。この頃になると、陽さんは首の形が変形し、顎が胸につくほどになってしまった。入院もしたが本人と家族の希望で退院する。だが症状は目立った改善を見せることはなく、この頃は学生時代のスナップ写真を眺めて「僕の周りから人が居なくなっていく」と呟いていたそうだ。

一方で仲の良かった友人たちに年賀状を当てて書くなど、周囲の人間と関係を持とうとする行動も陽さんはしている。特に仲の良かった友人たちとは退院後会ったりもしていた。ディレクターはその内の2人に取材を行なっている。

1人の友人は陽さんの変わりぶりに驚きつつも、話をしていくうちに「あいつはあいつなんだな」と受け入れたという。もう1人の友人は、陽さんの異様さと精神病に対し、心から理解し受け入れることができず次第に疎遠になっていったという。最後に彼は「もしも自分の友達が精神病になったら、どうしますか」と問いかけを残して去っていく。

その後も陽さんの症状は良くなることはなく、両親は半ば逃げるようにして住み慣れた土地から引っ越しをする。これは結果的に陽さんの僅かに残った友人関係を断つことにもなり、より事態は悪化の一途を辿っていくことになる。不意に外出して警察に保護されたり、入浴もせず排泄した下着も変えず家中が臭くなることもあったという。皿を割ったり、外に飛び出して失禁するなど家族で陽さんを見ることは難しくなっていった。

2011年に陽さんは再び入院。それから興奮状態にあった陽さんは全身を拘束される。それから容態は悪化し、36歳の若さで亡くなった。亡くなる間際に陽さんは家族に対して「僕の人生どうしてこうなっちゃったんだろう」と呟いたという。



もう少しこの問題を理解するために、さらに2つの精神医療を巡る事件を紹介したい。

一つ目は「朝倉病院事件」である。

これは陽さんの事件でも出てきた身体拘束に加えて、必要のないIVH(中心静脈栄養)を患者に行ってきた疑いのあるものだ。朝倉病院は、今でいう認知症の患者を多く受け入れていたことでも知られる。さらにその患者の多くは生活保護受給者、路上生活者など他に行き場のいない患者であった。

通常IVHは栄養を経口摂取できない患者に対して行われるものだが、看護師等の証言によれば経口摂取可能な患者に対しても行われていたそうだ。また、認知症患者に対し腰から紐をつけて行動を制限するなど身体拘束が日常化していた実態も明らかにされた。

当時の院長である朝倉重延医師は、「適切な治療だった」と繰り返すが病院側の対応疑問が多く残るものであった。

そして、もう一つは「安田病院(大和川病院)事件」である。ここでも多くの患者は高齢者、路上生活者など他の病院が受け入れない患者ばかりであり、さらに病院側は看護師の水増しなどを行なっていた。レセプトの改ざんなども日常的に行われ、患者の死亡時に医師が来ることはなく夜勤のヘルパーが見つけ看護師に教えるという実態もあった。さらに死亡時刻を弄ったりすることも行われていたという。

病院は少ない人員で回されているにも関わらず、救急車の運転士が患者を福祉施設から紹介してもらって病床を埋めることまでしていた。その際、院長は患者のことを「客」と言い、「客のノルマ」を課されていたと運転士は告白する。

マスコミに吊るし上げられても、安田病院の経営者は「うちでは他では受け入れられない患者を多く受け入れている。うちが無くなったらどうなりますか」と平然と言い放つ。

当時のニュース映像などでこの辺りは一通り追うことができる。最後に内部告発をした看護師の1人が淡々と語る。

「患者さんが危篤になったんです。ご家族に連絡をしたんです、もう危ないですよって。でもね、『今すぐいかなアカンのですか。死んでからじゃダメなんですか』って……」



精神医療を取り巻く社会の環境の一端が、この3つの事件を通じて分からないだろうか。ざっとまとめるだけで以下の問題点をあげることができる。


・過剰な薬剤処方、身体拘束など精神疾患への治療のあり方。


・処方された薬剤及び治療法と患者の扱いが適切なのか否かどのように評価、保証するのか。


・精神医療及び、精神疾患全般への社会的受容。


・慢性的な人不足による治療体制・環境の問題。


・社会の中で行き場のない人たちの受け入れ施設と化す病院の存在。



後半にいくほど、問題の範囲が患者本人と医療の問題から、本人から医療へ、医療から社会へと広がっていくことが分かるはずだ。

そして、もう一つ付け加えるならば陽さんのように、それまでごく普通に生活をしていても一度精神疾患と診断されると容易にそこから這い上がることの難しい現実である。

これは、もう少し一般化すると現代の日本社会において一度失敗をすると容易に大勢の人が歩いている「レール」の上に戻ることが困難である現実とリンクしている。精神疾患は疾病であるが、その特異な行動と社会の側の受容の低さゆえにより通常の社会復帰は困難である場合が多い。

私は一連の動画を見る中で、問題の根本的な所在というのは精神医療その中にあるのではないと感じずにはいられなかった。

ハートネットtv内で、ある精神科医は陽さんの件について、「今取れる選択肢の中で最善のことをしたが、結果は最悪だった」と述べた。

引きこもりという現象自体は、今や珍しくはない。息子の引きこもりについて両親が取った行動は精神科を受診させるということだった。この両親の行動について、結果を見れば賛否は分かれるところだろう。だが、もう少し視点を変えて、「なにかできることはないか」ともがいた先にあったのが、精神医療だけだった、という点が最も大きな問題ではなかったのか。

これは社会の貧困が招いた悲劇でもあるのではないかと私は思う。病院というものが、本来の役割から離れた所にまで役割を持たされていると強く感じた。それはいわば一種のシェルター的な場所にされているのである。行政も自治体もこの事については驚くほど鈍感であり、最も立場の弱い人たちが結果的に命を落とす結果へと繋がっている。

それを助長しているのが看護師や介護士など、実際の治療や介助に当たる人々の劣悪な環境や待遇である。

陽さんの病室に取り付けられた監視カメラでは、夕食介助から陰部洗浄、オムツ交換までが映されていたが全てにかかった時間は約10分だそうだ。

私自身、重度身体障害者の施設で働いて一連の介助を日常的にこなすが、これはありえない。食事介助だけで10分以上はかかるものだ。それから陰洗、オムツ交換さらに更衣(着替え)となると早くこなして30分、全てを丁寧にやると40〜50分ほどかかってもおかしくない。

だが、ここで目に見える看護師や介護士を責めることは何の解決にもならない。一番問わなければならないことは、「なぜそのような事が行われているのか」という原因であって、その結果ではない。もちろん結果も重大だが、原因がなければ悲惨な結果もないだろう。

陽さんの介助に当たっていた看護士は、同僚の評価では「人が嫌がることも積極的にこなす真面目な人」だったそうだ。もちろん、看護士のやったことは免罪されることではない。



だがもう少し、私たちは社会の中で「治療・介助・支援が必要とされる人々」について切実に考えなければならない。同時に、彼ら彼女らと日々接する人たちについても考えなければならない。

虐待や暴行がなぜ起こるのかといえば、それは本来の「治療・介助・支援」から、介助する側もされる側も非人間的な「流れ作業」へと堕していくからだ。その過程で、虐待や暴行は起こっていく。そして、勘違いしがちだがその当事者となる介助者もどこにでもいる1人の人間であるという当たり前の事実だ。この事実は、社会の中で驚くほどなおざりにされていると私は日々感じる。

どのような立場の人であろうと、生身の人間であることは変わらない、変えてはならない事実である。そして、そうした事実によって人権や尊厳は派生している。私たちの社会が本当に洗練され、豊かで多様な在り方を認めるのであればこのことは、「当たり前の事実」として守られなければならない前提であろう。

その事実と、実際の現実のギャップそしてそれを取り巻く社会環境について私たちはどれほどのことを知っているのだろうか。

私はここで求められるのは、感情的な議論よりも事実と現実、そしてそれによってもたらされている結果についての冷静な議論である。そして、これは個人の問題ではなく社会の問題である。精神医療そのもの、患者とその家族の問題ではなくそれを取り巻く社会の問題だ。社会の中で生活をしている1人1人が、精神医療や精神疾患や当事者について、どのような受容をしていけるのか、こうしたレヴェルにおいて様々な社会問題は「個人の問題」といえるのではないか。



一連の精神病院における事件が露わにしたのは、こうした問題であると私は思う。本当に弱いのは、治療や介助の対象とされる人々ではない。

社会の受容、精神医療や精神疾患だけではない。その社会の中で、スタンダードではない在り方をしている人、好むと好まざるとに関わらずそのように存在している人々にどのような受容をしていくのか、いけるのか、いくべきなのか?

これは容易に結論の出る問題ではない。だが、私たちの社会をより豊かに生きやすくするためには最もセンシティヴなものであるだろう。そういうものへの議論の仕方によって、その社会の豊かさというものは露わにされる。

これは個人の問題ではなく、社会の問題である。多くの人が存在するこの社会の中にあって、私はそう思う。

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