不自然なこころ

前回に引き続き、「こころ」について。

こころ、というのはどこにあるのだろうか。医学的に見れば、こころと呼ばれるものは脳の神経生理学的な働きを指す。

この「こころ」は、実に私たちに様々な影響を与える。

少し前に煎本孝の「こころの人類学」を最近読んだ。私たちがこころと呼ぶものは、人間に特有なものではない。いわゆる「母性愛」というような、母が子に対して無償の奉仕を行うことは動物のみならず昆虫にも見られる普遍的な行動だそうだ。そういう意味で、「こころ」とは、そして「こころ」の在りようというのは生物に普遍的な働きであるといえるだろう。

だが、煎本は人に特有の「こころ」とその働きについて、語っている。

煎本は、「人間としてのこころは、本能的なこころの働きそのものではなく、それに源を発しながらも一般化し、制御し、自覚的な働きとしたものだ」としている。

母性愛などに見られるこころの在りようは、本能の一つでもある。だが、人には本能を基盤としつつもそれをコントロールする理性というものが存在する。自覚的な働きとは、理性のことである。そして、この理性というのが私たちの「こころ」の在り方の大きな特徴といえる。煎本は事例として世界各地のシャーマニズムを取り上げていくが、その事例を通して彼が伝えたいことは以下のことである。



「自然の人格化とは自己による自然への共感であり、自己と他者とを区別しない同一性である。しかし、人間が自然を区別し、それを自覚した時が初原的同一性の認識の出発点だった。すなわち、二元性と同時に、同一性も人類に普遍的なこころであり、これらを自覚して統合する論理が初原的同一性なのである。

その上で、初原的同一性と互恵性からなる狩猟の世界観を確立させるため、自然と人間との間に神話的仲介者を登場させた時こそが、神話の誕生であった。神話は世界観であると同時に、動物の群れがまた戻ってくることへの願いである。人間性の起源は初原的同一性にある。そこから、自己と他者とは異なるものではなく本来同じなのだということ、したがってその関係は対立ではなく互恵性なのだというこころの働きが生まれる。他者へのおもいやりや生命に対するいつくしみの感情は、この人間性に深く根ざしているのである」



自然というのは、私たちと同じ存在ではないが実は一つに繋がっているということ……それがまず最初のこころの発見であった。そして、そうした発見を自覚的に統合していくこと、それがこころの第一の発達である。そして、この「実は繋がっている」という観念は対立するものとしての世界 (自然)という存在ではなく、互恵性のある存在としての世界を私たちに成立させていく。そして、そこから生まれた思いやりや、利他性というのがこころの第二の発達であるといえるだろう。

人間らしさ、というのは一体どこからくるのか。それはこうした「こころ」の在りようからくるといえる。



さて、話は少し変わるが私は福祉職に従事をしている。人の在り方を眺める上で、福祉職というのは正直言って気持ちの良い仕事ではないと思う。「やりがい」という抽象的で、まとまりのない言葉で知った気になれるほど甘くはない。人の在りようというのは、時に残酷で腹立だしいものだ。だから、こういう仕事をしているとどうして古代から人が宗教や哲学を志してきたのかが分かるような気がする。

人の本性 (それもこころの一側面かもしれないが)は、理性でコントロールできるほどぬるいものではない。同じ個体で集まり、そこに大なり小なり集団という枠をはめられるとその中では必ず争いが起こる。そして、人というのは傲慢で無知なものだ。だが当の私たちにはその自覚がない、むしろ「私たちは知っている」という気でいる。

だから宗教が説くところは、結局は一つのことだ。

曰く、隣人を愛せよ、神を畏れよ。

私たちは自らの本性 (こころ)について、もっと思いをいたすべきなのだ。そうすれば、他者のことを裁くよりも自分を大切にするように他者もまた労わるべきであることが見えてくる。その連鎖の中で、恐らく私たちは動物的なこころの在りようから、互恵性へと至れる発展したこころへと成ることができるのではないか。

そして、自らの存在に対して尊大にならないこと。より大きな存在を畏れること……。

そして哲学が説くところも、結局は一つのことだ。

私たちはなぜ、生まれたのか。どう生きることができるのか、生きるべきなのか。

理性を使うことで、私たちは動物的なこころの在り方から一歩抜け出た。ただ自然界にあるがままの弱肉強食から出て、より良く生きるにはどうすればいいのかを私たちは模索してきた。

そうしたもがきの中に、こころもある。

そういう視点から私のこころ、他者のこころを眺めると社会福祉というのは一見こころの在り方の理想形のようだが、私は生物としてはかなり不自然な在り方ではないかとも思う。

自らの普遍的な情動をコントロールする理性という存在そのものが、そもそも不自然である。人間特有というのは、それだけ動物特有の働きと隔たっているということでもあるからだ。社会福祉は、他者のこころの働き (ネガティヴなもの、理不尽なものも含めて)に寄り添う職業である。寄り添う、というのは美化しすぎている気もするので、巻き込まれるという方が適切かもしれない。

人のこころに特有の働きがある。そこには多分な不自然さがある。その不自然さに、私たちは今どれほど聡くあれるのだろうか?

私は社会福祉という領域は、かなり不自然なものであると感じることがある。そして、矛盾するようだがその「不自然さ」の中にこそ、私たちの「こころ」「人間らしさ」があると思うのだ。



こころは、どこにあるのか?

こころというものは、ある意味では生物の本能である。そして、私たちにとっては時として不自然なものでもある。だが、生物としての単なる生存欲求というところから超え出た先に、倫理や真理といった普遍的なものがある。

人のこころはそういうところにある。

まことに不自然、不思議なことに……。

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