ネット投稿サイト発の小説と、商業ジャーナリズム

本屋に行くと、ここのようなネット小説投稿サイトから書籍化された作品を見つけることがある。ジャンル的にはなんといえばいいのだろうか。ライトノベルと言うにも、ちょっと違うような感じがしている。それで、投稿サイト発の作品はどこの本屋でも結構なスペースを与えられていて、巻数の多い作品もあるしアニメ化している作品もあるみたいだ。

少し前に、十返肇という評論家の評論集を読んだ。それであの野放図に(あえてこの言葉を使ってみる)広がりつつけていく投稿サイト発の小説たちとそのスペースについて重なるところがあった。投稿サイト発の小説と、商業ジャーナリズムとの関係について考えてみたい。



「今日、作家的位置を維持する困難さは、デビュウ後に、ジャーナリズムから要求されるある一定の量を書ききれ、しかも平均点は常に取らなければならぬという点にある。いつも舞台に出演していなければならないのだ。かような状態では、当然、文学者の気質も戦前のように孤高を誇ったり、書けぬことが良心的であるような境地に安住はしていられなくなった。同時に、文学者以外の社会人との接触も多くなり、文壇的モラルだけでは生活できなくなった。一般社会人に共通するモラルを持ち、その上で新しいモラルを追求してゆくべく努力をしなければならなくなったことは、文学者の精神を、これまでの偏狭な文壇意識から解放させた。今日の文学者は、文学者であると同時に、一個の社会人としての意識をもって、文学しているわけである。(文学界人物史より)」



書く行為は特別なものではなくなった。

文壇という極めて限られた、そしてそこだけでしか通用しないような律法めいたものの中に安住していられる時代ではないのである。それは時代が下るごとにごく自然にやってきたことである。そして現代の投稿サイト発の小説の隆盛は、最終形態とも言えそうだと思う。

ここでは「誰だって」作者になれるし、自分の思う小説を書くことができる。運が良ければ、そこから「本当の」作家にだってなれるのだ。

作品の巧拙は措くとして、私はこうした現状を良いことだとは思う。元々が作家になれるルートが限られすぎていたのだとも言える。

だがこれだけ敷居が下がると、別の弊害だって起こるのだ。十返は別の評論でこう書く。




「一方、新人が容易に進出できるということは、また忽ちにして忘れられるという結果も呈する。……井上靖が指摘しているように、『昔は文壇にデビューするまでの苦労が大変だったが、今はデビューは割に簡単だが、それからジャーナリズムの大量注文に耐えて一定の多作期間を生き抜くことが、修行の1つになっている』ような情勢であるのも、文壇という封建ギルドが崩壊しジャーナリズムが作家を動かすようになった以上、当然である。(文芸雑誌論より)」



文芸が特別なもの、ことではなくなった今では商業とは切り離せない。その商業とは慈善事業で文芸を出してくれるわけではない。それは十返の言うように、さながら馬車馬のように作家の尻を叩いて作品を書かせる行為になっていくのもやむを得ない。

こうした現状は、本屋に溢れる投稿サイト発の棚から見ても割と事実に近いんじゃないかと私は思った。



現代の文学が後世に残るのか、という批評はよくされるものだ。それは同時に、現在書かれているものがある時代より前のものに比べて「劣っている」という意識の元でなされている。ではなぜ、私たちはそう思うのだろうか。それこそが、作者と社会との卑近さにあるのではないか。

十返は「今日の文学者は、文学者であると同時に、一個の社会人としての意識をもって、文学しているわけである」と言うが、現在では文学社はもはや文学者たり得なくなっていると思う。むしろ、文学者は「社会の中で生きる一個の社会人、個人」でしかあり得なくなっている。そうした彼ら、彼女らはどのようなものを書くのだろうか。そして専業作家ですらそうならば、より一般的な人々が目に付きやすい欲求を何か(文芸の場合は言葉を)に仮託することなく、それを表現することもやむを得ない。

投稿サイト発の小説は悪し様に揶揄される。作者と読者の劣化もここ極まれり、といった風である。私もそんな風に思わないこともない。日本語の巧拙、表現の如何よりも、私は自己承認や自己肯定、共感を得るための「道具」として「書くこと(小説)」を使うその心根こそを問題としたい。これまでの文学者もそうであったとは思う。だが彼らの作品が単なる自己承認や自己肯定に止まらなかったのは、徹底的な自己葛藤と孤独があったからだ。

翻って、現代のプロアマ問わずものを書く人間にそうした意味での悲壮さはない。あるのは徹底的な甘えと自己陶酔のための物語、そして極端なまでの批評嫌いだ。

自らに都合の良い物語、そして自己の外へと語りかける手段としての小説は浅いが多くの人の「作者と同じような心」は捕らえて離さない。それはウケるだろう。作者と読者は同じところで、同じ地平を見ている。かつてのような導くようなものでも、人の奥底にある残酷さを切り拓いて見せるわけでもない。

そこにあるのは至極単純な欲求ばかりだ。それは悪いものではない。だが、ただそこに在るだけで終わるもの。そこに疑問も詰問も希望も絶望もない。多分わたしがこんな風に長々と書いていても、「だからどうした、いいじゃないか」と飄々と返されて終わるような、そんな作品があり、人々がいる。

そしてそこに、商業ジャーナリズムが入り込む。これはよくできたシステムだと思う。人が望むことを供給する誰かがいる。供給することはいいことだ。そしてこの抽象的な小説を書くという行為、単なる趣味であったはずのものでカネを稼げて名前も売れるのなら、こんな素晴らしいことはないだろうと多くの人は思うだろう。

だが、これは虚ろな狂想曲だと私は冷めて思ってしまう。

手軽に消費されるカロリーメイトのような小説ばかりが、そこでは溢れている。それを全てネット投稿サイト発の小説に被せるつもりはない。だがこの種の小説の多くが、ネット投稿サイトから生まれているのも哀しいかな、事実だとは思う。それは商業ジャーナリズムの視点から見れば正解だろう。

だがそれは「読み継がれる」というものではないと思う。

文学とは、一つの自己葛藤でありそれは孤独なものだったと私は思う。その中で見えてくる、描かれてくる人間の顔にこそ私たちは救われ感動してきたのではないのだろうか。

現代の商業ジャーナリズムに絡め取られた小説の中には、かつて夏目漱石や三島由紀夫が晒されたような、自己葛藤も孤独も何もない。

今までされてきたような文学的な手法こそが葬られてしまった、ということではないか。



もう一つ、私がずっと不思議に思っていることがある。

自由にやれるインターネットという空間の文芸が、右へ倣えになって出るもの出るものな同じになってしまうのは異様で奇妙だ。小説ならともかく、エッセイですら同じような「読まれるため指南、書き方」ばかりなのはとても残念なことだと思う。

人間であるかぎりは、欲求からは逃れられない。抽象的な欲求であればあるほど、それは満たされにくい。商業はそれを嗅ぎ分けて、モノにしていく。それは確かに正しい、商業という枠内においては。

だが文学……芸術としては、どうか?

私は商業ジャーナリズムを延長した小説と、それに踊る作者、読者の三位一体を望ましいものとは、思えないままでいる。





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