孤独であること
独りだけでいるときこそ、最も独りでない。
カトー
三木清の「人生論ノート」を読んでいた。人生論といっても、そんな大袈裟なものではなくて読みやすいものだった。体系だって人生について論じているというよりは、多分三木の心にその時々思い浮かんだものを彼なりに筆の走るまま書いたものなのではないか。
色々な項がある中で私は「懐疑について」という中の、「すべての懐疑にもかかわらず人生は確実なものである。なぜなら、人生は形成作用であるゆえに、単に在るものでなく、作られるものであるゆえに」という文章が好きだ。
作られるもの。それが、多分「生きる」ことの輪郭だろう。
面白く、そして共感を覚えながら読んだのは「孤独について」の項だ。
「孤独は山になく、街にある。1人の人間にあるのでなく、大勢の人間の『間』にあるのである。孤独は『間』にあるものとして空間のごときものである。『真空の恐怖』それは物質のものでなくて人間のものである」
たった独りきりでいる時に孤独を感じるよりも、大勢の中で感じる孤独の方が染み込んでくる。それはこういうことなのかと思った。孤独は目に見えない。だがそれは確かに存在しているものだ。
話は飛ぶようだが、以前ある高校で図書室カフェという取り組みがあった。教室に居場所のない生徒がいる。多感な高校生たちは色々な悩みや課題を抱えている。そんな生徒たちに対して、図書室を新たな居場所にするような試みだったと思う。そして、あえてカフェという空間にすることによって普段本を読まない生徒なども気軽に訪室して相談やコミュニケーションを取れるようにすることも試みられていた。
「教室に居場所のない生徒」への目線は一貫して、「孤独な子どもたち」だった。だから、コミュニケーションそしてそれを円滑にする周辺機器として図書室や本、カフェを使っていた。地元のNPOの発想を元にした企画であったと思う。ネット上では賛否両論だったけれど、こうした試みを見て私は「これを考えた大人たちは孤独の本質をまるで分かっていないな」と思ったことを覚えている。
あたかも人類が闇を削って生きてきたように、現代では孤独をいかに削ってそして他者という「檻」あるいは「枠」の中で生きていくかということが行われていると思う。
図書室カフェにしてもそうで、「1人でいるの、辛くない?」という大人たちの勝手なそして一方的なコミュニケーション信仰のようなものを感じた。
孤独というものからは、逃れられない。それは三木の言うように、空間的なもの、空気のようなものであるからだ。1人でいるか、多人数でいるのかは大した差ではない。皮肉にも多人数でいる時の方が孤独は感じやすい。
それは自己と他者を分ける膜であるが、他者が多ければ多いほどその隔たりと相互の異質性は感じられやすい。
だが、「今を生きる」というのはそういうことだと思う。他者という異質性の中での自己という絶え間のない揺らぎの中に孤独はある。そして、自己の中にある他者性(異質性)とのせめぎ合いの中にも、それはある。
思春期の孤独とは、この自己の中にある他者性に由来するものだと思う。だがそれはかえって孤独ではない。自己を覗く時に、私たちはかえってその自分に近づき手を伸ばしているからだ。そこは独りきりではない。そして、誰にだってそのための時間と空間は人生のどこかの段階で必ず必要なものであると思う。
現代はそういう意味での孤独に「なれる」空間と時間が極端に少ない。それは良質な孤独である。自己との対話であり、自意識の陶冶である。
そして、青年期には自己と他者との孤独性についてが問題となっていくのだ。三木の言う孤独とは、この種のものだと思う。
自己意識の延長にある仮想的な他者ではなくて、明確に自己と分断された他者である。そしてその他者は大きく広がりを持つとそのまま社会になっていく。こうした終わりのない延長を持つ他者に対する孤独は、自己に対して持つ孤独よりも一層根深い。私たちはそれをいかにして超克することができるだろうか。
現代は大人の方が幼稚で、子どもっぽい。良質な孤独を味わうこともなく、そしてそれに浸る勇気もなく物事を一般化して見すぎるところがある。形のないもの、目に見えないもの、そして理解のし難いものは私たちを恐れさせる。そして、誰もが考えることを次第にやめていく。それはそのまま思考を衰退させ、自ずと孤独の質も劣化させていく。
ただ「寂しい」だけの安っぽく、虚ろな「子ども」を量産していくだけだ。
孤独は自己と他者(性)との良質な「語らい」であると思う。それは私たちを恐れさせもするが、同時に確かに「ある」という実感も与えるものだ。
私がここにいること、あること、そして別の誰かがいることを教えてくれる。
しかしながら人は賑やかな巷を避けて薄暗い自分の部屋に帰った時に真の孤独になるのではなく、かえって「人は星を眺める時最も孤独である」のである。永遠なものの観想のうちに自己を失う時、私は美しい絶対の孤独に入ることができる。
三木清
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