村上春樹「雑文集」を読んで

前回のエッセイにもちらっと書いたのだけれど、先日村上春樹の「雑文集」を図書館で貸りてきた。

早速読んだが、これが意外と面白かった。本書は未発表、未収録の文章を村上自身が編んだものだ。私が面白く読んだのは、「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」と、「東京の地下のブラック・マジック」だ。



「自己とは何か」は大庭健の著書の「解説みたいなもの」として村上が書いたものだ。彼はこの文章の中で、小説家について、物語について細々としたことを書いている。それはいささか特有の自意識に包まれた文体で表現されて、くどいと思うところもあるが全体としては面白かった。村上は冒頭からこう書く。



「小説家とは何か、と質問されたとき、僕は大体いつもこう答えることにしている。『小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間です』と」



これは最終判断を下すのはあくまで読者であるから、という村上の考えからくるものだ。「結論を用意するのではなく、仮説を積み上げていくこと」。その仮説を村上な「眠った猫の手」という独特な表現を使う。私は彼のこういう比喩を使うところがあんまり好きにはなれない。何かと聞かれても、うまく答えることはできないのだけれど、なんとなく嫌な感じがする。これはどこまでいっても個人的なものであるから、私のような人間の方がちょっと変なのかもしれない。

さて、私が面白いなと思ったのは村上が途中で就職試験を迎えた学生の質問に答える箇所だ。原稿用紙4枚で、自分を紹介しなさい、という試験に対し質問者は「そんなことできない」と言う。それに対して村上は「それはそうでしょう」としつつ、「だったら何でもいい、美味しい牡蠣フライの食べ方でも書いてみれば?」と言うのだ。牡蠣フライが出てくるのは、村上自身の好物だからなのだけれど、それは何でもいい。シチューでも、お気に入りの本でも芸能人でもいい。自分の好きなもの、あるいは嫌いなものについて書けばいい。そうしたものをフィルターとして、「あなた自身」の様々な人生や面が浮かび上がってくるというのだ。

「へぇ」と思わされた。

そして、村上は実際に「美味しい牡蠣フライの食べ方」を書くのだ。



「東京の地下のブラック・マジック」は、オウム真理教による地下鉄サリン事件について書いてくれとアメリカの雑誌に依頼を受けて書かれたものだ。結局採用はされなかったそうだ。

地下鉄サリンの実行犯たちの世代は、「しらけ世代」と呼ばれる。村上は「しらけ世代」をこのように書く。



「先行する『団塊の世代』が傾向的にホットであり、集団的であり、攻撃的であり、垂直的な思考に走りがちであるのに比べて、『しらけ世代』はクールであり、個人主義的であり、防御的であり、思考形態が水平的であると一般的に見なされている」



この世代には、「良きものはすべて前の世代に食い荒らされてしまった」という失望感が漂っていたと村上は前段でも書いている。そして彼らは「社会の経済的な発展が、そのまま個人の幸福をもたらすものではない」というこど悟った最初の世代でもある。そうした彼らの受け皿となったのが超能力などを謳うカルト宗教であり、麻原彰晃だったのだ。

そして、もう一つ興味深いのがオウム真理教に帰依した信者の多くが「思春期に小説を熱心に読んだことがない」と答えたことだ。彼らは小説に興味を抱かなかったどころか、違和感さえ持っていた。このことについて、村上も面白いことを書いている。



「言い換えれば、彼らの心は主に形而上的思考と視覚的虚構との間を行ったり来たりしていたということになるかもしれない(形而上的思考の視覚的虚構化、あるいはその逆)。

彼らは物語というものの成り立ちを十分に理解していなかったかもしれない。ご存じのように、いくつも異なった物語を通過してきた人間には、フィクションと実際の現実との間に引かれている一線を、自然に見つけ出すことができる。中略

しかしオウム真理教に惹かれた人々には、その大事な一線をうまくあぶり出すことができなかったようだ。つまりフィクションが本来的に発揮する作用に対する免疫性を身につけていなかったといっていいかもしれない」



そして、そのような免疫のない彼らが「麻原彰晃のフィクションの致死的なバグ」に汚染された時に、あのような凶行に及んだと村上は指摘する。そして、その凶行の対象になるものは「誰でもよかった」のだ。

村上が描いて見せた、実行犯たちの孤独な魂は過去のものでも特殊なものでもない。実際、彼らの多くは「普通の、恵まれた、幸せな家庭」で生まれ育った。

一連のオウム事件の実行犯の1人は、「なぜこんな事件を起こしたのか?」との捜査官の質問に、「閉塞感があったから」と答えたそうだ。この閉塞感とはなんだろうか。私はこの言葉に恐ろしさを感じた。

家庭の中で、地域の中で、企業の中で、社会の中で、国家の中で……私たちもこうした閉塞感を抱いている。オウム真理教に惹かれた人々は「たまたま」あのような形としてその閉塞感を暴発させたに過ぎない。

第二、第三のオウムの芽は私たちが同じような閉塞感を抱き続ける限り存在し続けるのだ。「ごく普通の人たち」の中で。



話しはガラリと変わるが、私がこの本を読んで気に入った箇所は次の文章だ。



「みんなで輪になって座って、熱いコーヒーを飲みながら、『いや、困りました』とか、『ちょっと弱りましたねえ』とか、『なんか結論、出ませんねえ』とか言いながら、頭をかいたり、ひげをしごいたり、腕組みをしたりすること。どこかから借り物の結論みたいなものを持ってきて、大言壮語しないこと。そういうのは僕らの生活にとって、すごく大事なことなのではないだろうか?」



これは村上がある知り合いの人物について書いていたエッセイの中に出てくるものだ。その人物はいつも困って弱っている。その人を見ていて村上が思ったことを率直に書いたのが上の文章だ。

必ずしも結論を出しきることが正しいわけではない。こんな風に、弱ったり困ったりすること。

「うん、なかなかいいじゃん」と私も思ってみたのだ。答えの出ないものに向き合ってみること。

それは心のゆとりであり、生活のゆとりでもあるのだと私も思う。



正直、村上春樹の文章は好きではないしこのエッセイ集もそんなに期待して読んでいたわけではない。

だが、これがなかなか面白くて新しい発見があった。

興味の出た方には一読することをお勧めする。

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