美しいセオリー

「知のトップランナー 149人の美しいセオリー」

ジョン・ブロックマン編

長谷川眞里子訳


本書は図書館で「学問・教養」の棚で見つけた。最近はこの棚を見るのが好きだ。教養とはなんだろうか?ソローは「記憶によってではなく、自らの思索に基づいたもののみが知識になる」というようなことを書いている。教養とは「生きていくための力」であると私は思う。それは記憶によるものでも、教科書を開くだけでも得られるものではない。ソローが言うように、やはり「自らの思索によって」得るものだと思う。

だが、その思索の原動力になるものは欠かせない。人と話すこと、本を読むこと、旅行すること、働くこと…などはこうした意味において大切なのではないか。

私はこの中で本を読むことで得られたものを、こうして纏めている。


「あなたのお気に入りの、深遠で、エレガントで、美しい説明は何ですか?」


本書は様々な分野のトップランナーたちが、この鋭い質問に対して答えたものの集まりである。その中から、私が個人的に興味深かったものをまとめていきたい。そして、最後に私の「お気に入りの、深遠で、エレガントで、美しい説明」を考えて書いてみようと思う。



1.馬鹿馬鹿しさの威力

スコット・アトラン(人類学者)

世界には超越的な力があり、こうした存在は本質的に知性を超えており、論理的経験的に反証することは不可能である…。こうした概念を、アトランは「私が知る限りで最も単純で、最もエレガントで、科学的には最も意味不明な現象である」と言う。

こうした現象を、ホッブズは「人間以外のどんな生物にも関係がない、人間だけの馬鹿馬鹿しさの特権」と言い、ダーウィンは「道徳性の徳」と名付けた。

他の生物と違い、人間は自分が属する集団を抽象的な言葉で定義する。大規模な人間の集団の形成にはパラドクスがある。宗教やイデオロギーに基づく文明が勃興すると、遺伝的には他人である人々が多く集まり国家や国境ができてくる。人間の最も強い社会的絆と行為は協力と許しの能力であるが、一方では相手を殺し、自分が殺されることを許容する能力をも含む。

人間はなぜ、道徳的動物となり得たのか?ダーウィンは私たちの祖先が肉体的に弱弱しかったので集団としての強さに頼らざるを得なかったということしか説明をしていない。

道徳に連なる宗教と聖なるもの、こうした主題は「私たちが何でありたいと思い、何でありたくないと思うのか」というものと近いがゆえに科学においてほとんど探求されて来なかった領域である。



2.集団の分極化

デヴィッド・G・マイヤーズ(心理学教授)

マイヤーズは「集団の相互作用は、人々の元々の傾向を増幅する」原理を、単純でエレガントな原理であると言う。こうした傾向、つまり集団がどちらかに極端に振れていく現象は繰り返し認められてきた。こうした身内精神によって身内が互いに自己隔離していくことはどこでも見られる。人々の移動が容易になるにつれ、保守的なコミュニティは保守派を、進歩的なコミュニティは進歩派をさらに引き付けるようになるのだ。

エレガントで社会的に重要な説明はいかにまとめられる。

「意見の分離+会話」が分極化を生み出すのである。



3.私たちの合理性の限界

マーザリン・バナジ(社会倫理学教授)

分析的、審美的に素晴らしいとされる説明は以下のような性質を共有している。


1.常識的に考えられていることよりも単純である。


2.問題の現象とは全く関係ないかのように見えるものを真の原因だと指摘している。


3.その説明を提出したのが自分だったら良かったのに、と思わせる。


人間の心を研究のテーマとすると、固有の限界にぶつかる。心は説明をしている主体であるが、同時に心は説明の対象でもあるからだ。自分の属する種や部族に対する思い入れから距離を置くこと、内省や直感から離れることは難しい。

こうした理由により、バナジは「合理性の限界」を「深遠で満足のいく説明」としている。

人間は間違いを犯すが、それは私たちに悪意があるのではなく、人が情報を学習して記憶する方法、人間が周囲の人間から影響されるやり方など人間の心の基礎がそうなっているからなのだ。人間の合理性に限界があるのは、私たちの存在する情報空間が人間の能力に比べて広すぎるからなのだ。人間の意識、意思に沿って行動を制御する能力には限界があるのだ。

悪い結果がもたらされるのは、情報を蓄積し、計算し、環境からの要求に適切に反応することができない「心の限界」にあるのだという考えは、人の能力や本性に対する全く異なる説明である。



4.性的対立の理論

デヴィッド・M・バス(心理学教授)

性的対立とは、個体としての雄と雌の間で繁殖の利益が異なる場合、彼らの遺伝子の利益が異なる場合に生じる。

例えば恋が成就して長期的な関係に入ったとしても、男女の進化的利益は異なる。不倫は女性にとっては自分の子供に優良な遺伝子を与える利益が見込めるが、彼女のパートナーにとってはライバルの子に資源を投資するというコストを負わせることになる。男性側の不倫では、貴重な資源をライバル女性とその子供に振り向けさせるリスクと、彼のコミットメントを失う危険性をはらむ。性的不誠実、感情的不誠実、資源的不誠実は性的対立のありふれた源泉である。

だが性的対立は性的協力の文脈で生じるものだ。性的な協力が進化する条件は、一夫一妻で不倫や裏切りの可能性がなく、カップルが子を作り、それが彼らの遺伝子を共有するものであり、所有する資源が差異をつけて分配されることがないというものである。こうした条件の中で愛と調和は可能になる。

性的対立の理論は、人間の性的な関係の暗部についての最も美しい説明を提供している。



5.生物学をくつがえす

パトリック・ベイトソン(動物行動学教授)

近親婚は、一腹の子の数の低下と精子の生存力の減少、発達障害、低出生体重、新生児高死亡率、短寿命、遺伝病の発現増大、免疫機能の低下をもたらし、繁殖力を低下させる。よって、近親婚は望まれないものであるが、最近ではこの議論は微妙なものになってきている。外婚は利益をもたらすものであると考えられているが、個体群の中に新たな有害遺伝子を持ち込むことにより有害遺伝子を排除したことによる利益を帳消しにする可能性も持っている。さらに、一つの環境に適応した集団は、他の環境に適応した個体と交配くると上手くいかなくなるかもしれない。

人々は自分が属する集団メンバーを守るためには、自分の命を投げ出すようなこともする。だが逆に、馴染みのないメンバーに対しては致死的な攻撃性を持つこともある。このことは、人種差別や不寛容に対して、一つの解決方を示しているのではないか。幼い頃から、異なる国や人々が互いをよりよく知り合うようになれば、お互い対してよりよく振る舞うようになるかもしれない。近親婚に見られるように、「馴染み深くなって」結婚することになれば、個体の数は減るかもしれないが、人口過剰の世界の中にあっては望ましいことかもしれない。こうした原理には近親婚と外婚との間にはバランスが生じる、という知識から生まれている。これは生物学をくつがえすことになるがベイトソンにとっては「美しいセオリー」であるようだ。



6.われらは星屑

ケヴィン・ケリー(『Wired』編集長)

私たちはどこから来たのだろうか?私たちは星の中で生まれたという説明は、深遠かつエレガントで美しい説明だ。その意味は、人体中の原子の大部分は、大昔に燃え尽きて消えた星たちの中でより小さな粒子が融合してできたというものだ。本質的に人間は核融合の副産物なのである。無数の原子が凝集して惑星となり、生命という奇妙な不均衡がそれらの原子を集めてできたのが人間なのだ。つまり、私たちはみんな星屑の寄せ集めということになる。

私たちは、実は星たちと極めて近い存在であるのだ。私たちが見るもの全ては星の中で生まれた。これほど美しいことが他にあるだろうか?



7.私のセオリー

さて、錚々たる「セオリー」の中で生煮えの私のセオリーをぶっこむのは気がひけるがやってみよう。


古今東西、洋の東西を問わず様々な賢人たちが様々なことを説いている。だが、彼らは一様に同じことを説いているのではないか。


私たちはなぜ生きるのか?

どう生きることができるのか?

そして、いかに生きるべきなのだろうか?


最初の問い、そして最終的に帰結していく問いはシンプルなものであると私は思う。これが私の思う「深遠で、エレガントで、美しい説明」である。説明とは問いであり、問いとは説明である。生への葛藤、そして必ず誰もが死に至るという運命が私たちを神話と宗教へと導き、哲学そしてあらゆる人文科学、自然科学への知見へと導いたのだ。

私たちは、徹底的に孤独な存在である。他の存在と、私という存在は徹底的に隔絶されている。


私たちは孤独で悲惨な存在である。だがそうであるがゆえに、「愛」はそうした私たちを救う一つの道となり得る。


シモーヌ・ヴェイユは言う。「愛は私たちの悲惨さのしるしである」。そして、「愛は慰めではない、光なのだ」。

キリストも説いた。仏陀も説いた。私には深遠過ぎてまだ追いつかない。だが、今は「愛」としか形容しえない原初的な思索の慈愛。私たちの本質的な孤独を癒すことができるのは、彼らが一様に説くこのセオリー、そしてそれを生み出したエネルギーは「愛」であったのだ。

彼らは一様に同じことを説いている。


私たちはなぜ生きるのか?

どう生きることができるのか?

そして、いかに生きるべきなのだろうか?


そして、自分よりも他の存在を慈しむことによって、私たちはこの問いに立ち向かうことができる。



素材としての愛によって、また愛から、生き生きした反省を手段として、すべてのものは造られた。造られたもののうち一つとして、愛に依らずして造られたものはない。愛は永遠に、我々の内において、また我々の周りにおいて、肉となる。そして我々の間に宿る。

フィヒテ「浄福なる生への導き」

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