第29話 エピローグ

 無尽迷宮封印街の、地下と比べればほんのささやかな地上部分が、もう豆粒ほどに小さくなっていた。遮るもののない迷宮周囲の大平原でなければ、とっくに隠れて見えなくなっていただろう。

 ひたすら真っ直ぐに続く街道を、玉蟲スカラベ車が辿っていた。


「まだ生きた心地がしませんよ」


 グラトはげっそりとした表情で、飾り紐付きの水筒を舐めた。


「よく生き延びられたもんだ」

「死んでもらっちゃあいけねえやな。蘇生屋の旦那」


 御者の小型蟲人は振り向きもしない。複眼の視界は真後ろにも届いている。


「<翡翠顎>の叔父貴に、払うもん払ってもらわにゃあ」

「わかってますよ」


 もう一口飲んで、深々と嘆息する。


「僕のあれこれ、まだ処分されてないと思うんですけどねえ」

「今更何を言いだすのだ、貴様」


 カララは年相応の拗ねたようなかおをつくった。


わらわのことはどうしてくれる」

「僕の無実を証言してくれたら、あとは親御さんに話をしますよ」

「落ち着けると思うのか」

「思わんですねえ。飲みますか」

「要らぬ」


 嘆息する。


「まあ、その後は、原型異法売ってお金を作って、写本院とかどうですかね」


 ねえ。と水を向けた相手は、均整の取れた笑顔のまま頷いた。


「担当からの口利きもあります。語り部の家の門は、常に開かれていますよ」

「……改めて、なぜ貴様までついてきているのだ」

「私は諸王京の家に暮らす身ですので」

「走ればよかろう」

「急ぐ理由も、厚意を拒む理由もありません」


 ハリオとカララのやりとりを、グラトは胃の痛くなるような思いで見ている。尻の下の硬い長椅子ベンチが、玉蟲車の揺れに合わせてかすかに軋んだ。


「ハリオさん。その、しかし、本当に証言してくださるんですよね?」

「不安なのは理解できますが、安心してください」


 ハリオは若草外套の首元に手をやり、軽く撫でた。


「国営裁判所での証言は、剪刀せんとう騎士の公務に含まれます。今回の形はやや特殊ですが、別段、自分の関わった事件以外での証言を禁じる掟もありません」


 まあそうでしょうよ。グラトは内心で舌を出した。鉄面皮は鉄面皮だ。


「それに、多少気分が良いのですよ」

「気分だと?」


 カララが妙な声を出した。やめてくださいよ、と言いたかったが、それこそ気分はグラトも同じだった。この金定規で引いたような騎士様が?


「ええ。良いことがありましたから」


 仕事をのに良いこともないものだ、と背を丸めて頬杖をつく。が、見れば何故か、今やカララまでしたり顔で頷いていた。


「まあ、わからいでもない」


 ──仲間はずれは僕だけですか。


 騎士様に女王様。心中察せるはずもない。が、ともかくグラトは、なんとか繋がった首のことだけは喜んでおくことにした。


 玉蟲車が不規則に揺れている。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 草原をさくまっすぐな街道を、玉蟲スカラベ車が遠ざかっていく。


「行かせちまってよかったのか?」

「えー? 何が?」


 エイジローは単眼の上瞼、にあたる部分を触手で揉んだ。


「お前の担当になったんだろ。あいつ」

「別にいーよ。こども狙いのライバル、手元に置いときたくないしー」

「おい」


 猫のように笑ったリコは、そのまま、なんでもないように続けた。


「エイジローの肉なきゃ、せいぜい人間ぐちゃってできるくらいだし」

「せ、せいぜいって」

「慣れろよ。本郷。いや、こいつとかヒメを参考にするのも極端すぎるが……」


 あはは、と、笑ってみかんはあかるい空を見た。高い空に白い雲が、足早にながれていく。

 本郷みかんがむかし、友だちや先輩と見た空と、それはよく似ていた。


「でも、よかったです。カララちゃんがなんとかなって」

「……いや、お前も大概極端だったな、最初から」

「えッ」

「わかってないならいいよ。それで構わん」

「エイジロー、かっこつけすぎじゃない?」

「うるせえ」


 エイジローはみかんの視線を追った。何もない。あるいは、何かをいくらでも想い浮かべられる空がある。


「本郷」

「あッ、え、はいッ」

「悩んでるのは似合わんと思うぞ。お前」

「あ、あはは、むかし、よく言われた……ような……」


 エイジローは触手でみかんの後頭部を小突いた。目線が降りたのを確認してから、発声偽足をあらためて生やし直す。


「あのな。きのうひとつ、言い忘れたことがある」

「はい」


 一瞬間があった。


「お前が思ったより、きっとお前に救われたやつは多かったよ。本郷」

「へ」


 何を言われてるのか、正直わからなくて、首をかしげる。


「俺だって、人さまの役に立つことがある。最初はひでえ事言われたがな」

「えー。だって一万とか二万とか普通に被害出せるじゃんエイジロー」

「……ほんとになあ。わかっててガキよこせってんだからなあ」

「なんかあったら、ボクが責任とるから大丈夫だってばー。今でもいいよ?」

「触るな引っ張るな絡めるなそれが不安だって言ってんだよ!」


 目の前で始まったくだけたやりとりに、なんとなく肩の力が抜けた。

 取っ組み合いを続行しつつ、エイジローは単眼を歪めた。たぶん、笑おうとした。


「まあ、そういう俺とか、こういうコレもやってけるんだ」


 あの世界と同じ青い空、高く早い風に雲が流れていく。


「お人好しのお前なら、もっとうまくやれるさ」

「ありがとうございます……で、え、いいのかな」

「いいと思うよ。エイジローカッコつけだからさー」

「うるせえ。最後まで言わせろ」


 封印街の屋上広場テラス、はじめての地上は、春の陽気だった。

 頬に触れる穏やかな風は、新参者を見守っているようだった。


「本郷みかん。百万の庭へようこそ、だ」

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