Midsummer starry sky
Lesson9: Very Hot Spring
初夏の温泉合宿の誘いかた
六月中旬、生暖かい風が吹く昼下がり――
あたしは編集さんの家を出ると、目の前にある坂道を駆け上っていた。
今日は朝から晴れてるせいか、初夏の風がほんの少し心地よい。坂を登ると同時にあたしの髪と汗が後ろになびいていくのを感じて、心が紛れる程度のうきうき気分を味わっていた。
和合市駅のイラストも仕上げ直前まで描き上げて、この企画のお仕事もあと少しで完了だ。そういえば先週だって霞さんと二人で合宿してきたわけだし、ここ最近はずっと仕事三昧だよね。
帰ったら早く寝……たいところだけど、もう本当にあとちょっと。最後の仕上げをできれば今晩中にでも終わらせて、また次の絵を描かなくちゃ。
今回は実りのある合宿だった。
あたしが描きたい絵がちゃんと描けたと思えたから。
評価は――やはり自分の納得いくものではないけれど――
でももう一度、自分の絵を立ち止まって確認したいから、あたしはこの長くてきつい坂を登ってきたんだ。
――ねぇ。こんな時、あなただったらどう描くの?
☆ ☆ ☆
「そんなの知らないわよ! 自分で描きたい絵が描けたらそれで十分だし、常にそれ以上の絵を描きたいと思えなかったらクリエイターとして失格ね!」
うーん……あたしが期待していた返事と違うというか、でもその通りとも言うべきか。やはりこういうことを『自称
あたしは探偵坂と呼ばれるその坂をようやく登り切ると、目の前に忽然と現れた巨大な門のすぐ横にあるドアベルを鳴らした。
そう、ここは英梨々の家。
英梨々のやつ、昨日の朝、編集さんの家から帰る際に、絵描き用のペンを忘れていったんだ。それを見つけて編集さんに相談したら、帰りに英梨々に届けてくれと頼まれるし。まぁあたしも英梨々に用事があったから別に構わなかったけど。
ジャージ姿の英梨々はキャンパスに向かって黙々とお仕事の絵を描き上げていた。英梨々が十八番の水彩画。……あたしはほとんど水彩画など描かないし、そう考えるとこの時点であたしと英梨々を比較するのはそもそも間違っているのかもしれない。
でも、そういう話じゃなくて……。なんだかなぁ~。
それに英梨々も英梨々だ。こんな大事なもの、あいつんちに忘れるなってゆうの!!
「だいいち、真由はこの週末だけで十三枚も描いたのよ。あたしだって一日で七枚描くのがやっとだったのに。それで倫也にケチつけられたところで、そんなの言わせとけばいいのよ。」
「それは手伝ってくれた英梨々のおかげでもあるし……。じゃー、英梨々はどんなに凄い絵を描いてても、相手の評価とか全然気にせず描いてるってこと?」
「そんなことないわよ。あたしだって、あいつにあたしの絵をけちょんけちょんにけなされたことあるし……」
その場面を切り出して思い出すかのように、急に英梨々の声は小さな自信のないそれに変わった。
「え、それってあの編集さんに!? あいつ、そんな偉そうなこと言うことあるんだ。」
「そう、あたしに大声で『全然凄くないんだよ!』とか。倫也のくせにちょっと生意気だと思わない?」
うわー。たしかにそんな編集さん、想像しただけでちょっとムカつく。
それを言われて怒りを爆発させた英梨々の顔がはっきりと目に浮かんでくるようだ。
「でもね……あたし、それを言われたから、『blessing software』で絵を描けたと思ってる。なんかすっごく釈然としないきっかけと結果だけどね。」
あ、そういえば伊勢の合宿のとき、海辺の浜であいつもその時のこと話してたっけな。
その時はまさか英梨々にそんな風に面と向かって言ったとか、思いもしなかったけど。
でも、それはそれで……
「そしたら英梨々があの『伝説の七枚』を描けたのって、本当に編集さんのおかげだったんだ?」
あたしはちょっとからかいついでに、こう聞いてみた。
「なんだかその『伝説の』とか呼ばれるのかなり釈然としないけど、でもまぁそういうことになるわね。全部倫也が悪いんだから!」
英梨々にふと出たその思わず抱きしめたくなるような笑みは、まるで言ってることと真逆の反応だった。
「ふふっ、こんな英梨々を見られるのもきっと編集さんのおかげだね。」
「からかわないでよ真由。でもさ、さっきからちょっと気になってたんだけど……」
英梨々はあたしの言葉を跳ね返すように、そう反応してくるんだ。
その思わずきゅんとしてしまうような態度、やっぱし英梨々は可愛いな。
「え、なに英梨々?」
「さっきから倫也のこと、『編集さん』って呼び方に戻ってるけど、倫也と何かあったわけ?」
前言撤回。
こんな時だけ鋭い勘を働かせる英梨々は、可愛くないっ!
☆ ☆ ☆
あたしは英梨々の部屋の窓際のテーブルに連れて行かれると、その手前にコーヒーカップが置かれた。その香りは高級感溢れるコーヒー豆をついさっき挽いたばかりという感じで、あたしが普段飲んでるコーヒーとは明らかに次元が違う。それでも英梨々相手にこんな緊張するのはとても納得がいかないので、あたしはそれなりの態度でそのコーヒーに臨んだ。
一口だけ口に運ぶ。……当然だけど美味しい。
あれ? でもイギリスって、コーヒーより紅茶じゃなかったっけ?
そんなことを考えた瞬間、昨日編集さんの家で飲んだ紅茶の味が頭の中に浮かび上がってきた。
もうこんな義姉は絶対嫌だと改めて思いつつ、もう一口、コーヒーカップを口に運んだ。
「で、倫也の家で何があったの?」
「何って……」
そして英梨々からの尋問――
特に大した話はないはずなのに、思わずあたしは口籠ってしまった。
「ま、どうせ恵のことだろうけど……」
「わかってるんならわざわざ聞くな〜!!」
そしてさり気なくぼそっと英梨々は自己解決してみせる。もうほんと今日の英梨々は……
「……え、でもどうして恵ちゃんのことだってわかったの?」
「わかったもなにも……昨日、一日中ここにいたから……」
「ここ……って、英梨々んちに???」
英梨々もほんの少し、コーヒーカップを口に運んだ。その凛とした姿はさすがは外交官の娘といったところか、気品に溢れている。この姿だけを見たら、どうして『負け犬』と呼ばれるのか想像もできないほどだ。
「そう。あたしが昨日倫也んちで恵の作った朝食を食べてたら、恵はママの作った朝食をここで食べてて、さすがにあんたこんなところで何してるのって感じだったわよ。」
「あはははは……」
なんだかそれは想像しただけで、思わず失笑してしまった。
つまり恵ちゃんは昨日の朝、英梨々と編集さんとあたしの分の朝食を編集さんの家で作った後、まるで逃げるように探偵坂を登り、澤村家の朝食を戴いていたというわけだ。
恵ちゃん、いったいどんな様子であの坂を登ったのだろう。
「それはその後帰宅した英梨々もびっくりだね。」
「ほんとよ! あたしたちに挨拶もせずに朝食だけ作ってたと思ったら、あたしの家にいるんだもん。しかもその後もずっと今朝までここにいて、目が覚めたらいなくなってるの。恵、幽霊じゃあるまいし……」
「え、そんな夜中までここにいたの!??」
なるほど。それだと確かに辻褄が合うんだ。今朝あんな早い時間に編集さんの家にいたという事実に。
つまり昨日の朝から今日の今まで、恵ちゃんは一度も家に帰っていない。
ずっと近くに――編集さんの傍に、身を潜めながらもいたってわけだ。
そう。英梨々とこうしている今でも、恵ちゃんは編集さんの家にいるんだから――
「でも真由がその様子だと、まだ恵は倫也の家ね。そろそろ脅しに行ってやろうかしら。」
「普段鈍感のくせにこんな日に限ってあたしの顔からそこまで想像働かせなくていいからね、英梨々。」
今日のあたしって、そんなに様子がおかしいかな?
あたしとしては自分でもなんかそわそわするばかりで、どこか落ち着かないということだけはわかるのだけど、それがどういう気持ちなのか、あたし本人にもよくわかっていないんだ。そんな自分自身もなんだか悔しくって――
「……でも、今日の恵ちゃんは、とりあえずそっとしといてあげようと思って。」
そして、恵ちゃんにこんな優しい態度しかとれない自分もなんだかやるせなくって――
「まぁ真由がそう思うんだったら、あの二人はほっとくわ。……なんだかすっごくめんどく……」
「え、何か言った?」
「ううん。何も言ってないよ真由。」
英梨々がきっぱり否定したその言葉を、あたしは文字を補いながらも聞き取っていて、しかもそれに対してはあたしも同意していた。今の全然フラットじゃない恵ちゃん、とてつもなく厄介だ。
それ見てフラフラしている編集さんも……まぁ恵ちゃんの彼氏なんだから当たり前のはずなんだけど……どうしてもあたしには受け止めることができなかったんだ。
あいつにとってあたしは、ただの普通の仕事仲間。
恵ちゃんにとってあたしは、普通の友人であって、ただしとても厄介なライバル……らしい。
そしたら、あたしにとってのあいつは……普通の仕事仲間で……だけど……
「もう〜、煮え切らないわね真由!!!」
「ふえっ!??」
そんな風に一人で塞ぎ考え込んでいると、英梨々がそれを見て反発したいようだった。
「どうせまた倫也が真由の絵をけちょんけちょんにけなしたんでしょ?」
「そ……そうなのかな〜?」
「そしてステレス性能を発揮させた恵がそれをこっそり見て、ヤキモチ焼いたとかでしょ?」
「う……うん……???」
もぅ〜、英梨々こそどうしてあたしを今まで見てきたように言い当てるのよ!??
あたしだけじゃなくて、今日の英梨々もちょっとおかしくない?
「恵ってそういう時はいつも必ず執念深いから、あたしにしてみたら平常運転ね。だから真由もそんなものに振り回されてるんじゃないわよ。」
「そう……だよね……」
そっか。英梨々にとって恵ちゃんはかけがいのない友人。かつての恋のライバルではあるけれど、それを乗り越えてこその育まれてきた友情がそこにあるのかもしれない。
恵ちゃんのそういうめんどくさい性格、知ってて当然だよね。
「……でも、なんで英梨々がそう思うの?」
「あたしがめんどくさいからに決まってるからでしょ!!!」
あ、ごめん。なんだかんだ言って英梨々を巻き込んでいたね……。
「そうだ。めんどくさいついでの話かもしれないけど、再来週、合宿しようって。」
あたしはふとそこで合宿の話を思い出して、英梨々に振ってみた。
「誰が?」
「恵ちゃんが。」
「誰と?」
「『cutie fake』のメンバーで。」
「どこで?」
「長野県の温泉でって。そういえば恵ちゃん、毎年英梨々と行ってるって言ってたけど?」
「あぁ〜……」
その英梨々のちょっととぼけた反応、思い当たる節があるようだった。
特に嫌がってる様子もなく、嬉しそうという反応でもなく、ただいつもどおりというか――
「英梨々、再来週は仕事?」
「ううん。だからもちろん合宿は行く。」
その英梨々の煮え切らない反応は、今日のあたし以上という感じがした。
そういえばあの時の恵ちゃん、『英梨々と毎年行ってるんだ』と言ってたのを思い出した。
編集さん……とではなく、英梨々と?
ふと横を振り向くと、窓の外はまた雨が降ってきそうな天気だった。
せっかく今日は晴れていたのに、梅雨の日だから仕方ないのかもしれない。
「そういえば去年の合宿、梅雨の雨の日だったな……」
英梨々はぼそっと、そんな言葉をこぼした。
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