第36話 ロータスイーターパラダイス

「においの問題は、生き物であるかぎりついてまわるものだ」


 スエナガさんはそう言うと、ポケットから白い麻のハンカチを取り出して、自分の鼻に当てた。


「食欲をそそるハーブやスパイスも、過ぎたるは及ばざるがごとしでね、その塩梅が最上なのが、ここの料理なのだよ」


 スエナガさんは、ハンカチをふわっとふりまわすと、自分の左手を覆った。


「たとえば、この花」


 そう言うと、スエナガさんは、覆っていたハンカチをふわさっ、と取り払った。


「ハスのつぼみ? 」


 そうつぶやいているうちに、固く結ぼれていたつぼみが、ほころびはじめた。


「え、マジック? スエナガさんはマジシャンでもあるの? 」

「港湾広場——ポートプラザで毎年開催されているカーニバルに出演している」


 意外だった。

 スエナガさんは、お祭り騒ぎが好きなようには思えなかった。


「さて、御覧じろ。ハスは、つぼみも、花も、茎も、葉も、根も、全て飲食に連なるものなのだ。絶好のスーパー食材である」


 スエナガさんはそう言うと、手のひらに咲いた大輪の蓮の花の中心から、何か黒っぽい塊を摘まみだした。


「さあ、味わってみたまえ」

「味わう!? 」


 その黒い塊を受け取るのに、手を差し出すのはためらわれた。

 何か得体の知れないものに見えたのだ。


 確かに、スエナガさんの言う通り、蓮にはさまざまな使い道がある。

 最も身近なのは蓮根だ。

 煮物、炒め物、天ぷら、とどんな調理法にも合う。


 私が好きなのは、お正月の酢ばすだ。

 旬のとりたてのやわらかなすじばっていない蓮根の縁を切り取って花型にすると、漬け酢の中に白い花が浮かんでいるようだ。

 その時々で、柚子の皮を入れたり、南蛮を刻んで浮かべたりしていただく酢ばすは、お正月のおせちに疲れた胃をさっぱりさせてくれる。


 それから、蓮の葉を使った粽。

 干ししいたけや干し海老、チャーシューの角切りをおしょうゆでさっと炒めたのに、紹興酒で煮たうずら卵なんかを、もち米と一緒に蓮の葉で包んで蒸す。

 蓮の香りがごはんに移って、気分はロータス文化圏。


 蓮の甘いものといえば、蓮の実の甘露煮、甘納豆のようでお茶請けにいい。

 実は漢方にも使うけれど、月餅の餡にも使う。


 そういえば、蓮の茎は象鼻杯ぞうびはいという変わった使われ方をする。

 どこかの蓮の名所の季節のイベントで、蓮の葉の上にお酒を注いで、茎の下に伝って落ちてくるのを蓮の香りと共に飲むのだという。

 これぞ典雅な酒杯の王。


 そして、蓮茶。

 朝日もまだまどろみを破らずにいる早朝。

 蓮池を埋め尽くした蓮の葉と風に揺れるつぼみ。

 刻一刻と、花びらに魁の光が注がれピンク色が濃くなっていき、やがて顔を出した太陽に挨拶をするかのように、清かな香りを放って開ききる。

 朝摘みの薔薇が香り高いように、朝開きたての蓮の花の清香の芳しさ。

 これをお茶に移そうと古人が考えたのもうなづける。


 蓮にまつわるあれこれを、とりとめもなく思い浮かべているうちに、スエナガさんが差し出した塊の正体がわかった。


「もしかして、プーアル茶の蓮茶? 」

「ご明察。黒茶葉と蓮の雄蕊だけを混ぜ合わせて、三日三晩蓮のうてなで眠らせたものだ。高貴な生まれのロータスプリンセスティーだ」

「ロータスプリンセスティー? 蓮姫茶? 」

「親指姫の遠い親戚だ」

「え? 」


 スエナガさんの想像が広がり始めた。

 時を知るように咲く蓮の花の神秘を思えば、花の精が住まっていても不思議はないけれど、ふだんは地に足のついた生活をおくっている私には、そのイメージは今一つしっくりこなかった。


「小さなお姫さまが寝ずの番をして作る花のお茶ですか、飲んでみたいですね」


 フルモリ青年が、大真面目な顔をで話に入ってきた。


「では、みんなでいただきましょう」


 オリオンさんはスエナガさんから黒い塊を受取ると、中国茶の仕度を始めた。


 小ぶりの安南手の茶碗に注がれたお茶からは、清らかな香気が漂ってきた。

 蓮の香りが濃すぎると、気分が静まり返ってしまうが、オリオンさんのいれてくれた蓮茶はほどよい香り加減で、適度なくつろぎを皆に感じさてくれた。


「楽園の一杯だ」


 スエナガさんが、ふっとつぶやいた。

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