(5)光華の本心


『まあ。なんて美しい櫛』


 桐の小箱をあけたかの人は、一瞬目を見開いてそれを眺めていた。

 その繊細な白き手に収まるぐらいの小さな櫛。赤いうるしに金で桜の蒔絵が施されているのが気に入って、思わず求めてしまった品。


『今回の仕事はきょうの都だったのでな。それで……』

『ありがとう……ございます……』


 かの人は櫛を丁寧に懐紙で包み、再びそれを箱に収めた。


さざなみどの? どうした。浮かぬ顔だが。ひょっとして、あなたの気にそぐわなかったか?』

『――いいえ。このような高価な物をあなたから頂いて、気に入らぬという者はおりません』

『では……何故そんな顔をする』

『それは――』


 ぬばたまの瞳がひたとこちらを見上げている。いつもより黒くて憂いた印象を受けたのは、そこに涙の滴がこぼれていたからだ。


『いつまで、こんなことをされるおつもりですか? 『紫嵐隠密組』などと。私達の役目はここにいてこそ果たされます! それなのに、あなたは……』



 ◇◇◇



「漣……」

 清月はふと目を開けた。

 同時に喉にいがらっぽさを感じて小さく咳き込む。


「……」


 辺りは薄暗くぼんやりと霞んでおり、足元にちろちろと小さな蝋燭が灯っている。その暗い明かりの中で朧げに映るのは冷たい石床。片隅に石臼や竹籠、ざるの類いが転がっている所を見れば、ここは土蔵のようだ。

 そして――。

 清月は己の両手に鉄の枷がはめられ、土蔵の壁に固定されているのを見た。

 軽く右手をゆすってみるが、それは手首に食い込むだけでびくともしない。


 何が起こったのか、清月はそれを考えようとして、だが再びまぶたが重くなるような倦怠感を強く感じた。頭を使えば使うほど、気が削がれて考えがまったくまとまらない。状況を把握する事ができない。


 それに先程から息苦しくて、咳をしても喉のいがらっぽさは全く解消されない。ぼんやりする頭の理由を考えながら、清月はふと前方に青磁の香炉が置かれているのに気付いた。そこからは白煙が立ち上っている。

 それを見て、清月はやっと安堵して目を閉じた。

 館林忍軍の頭領が来るのを待っていたとき、その部屋の中で燃やされた蝋燭と、同じ類いの薬を香炉で燃やしているのだと察したからだ。


『あなたを悪いようにはしないわ。紫嵐の清月さん。ただ、ちょっとあなたに聞きたい事があるの』


 光華こうかの、少し悪びれたような、それでいて落ち着き払った白い顔が浮かんでくる。

 その時、ごそりと何かが動く音がした。

 しかし清月はそれに気を止めることなく、目を閉じ俯いたまま微動だにしなかった。


 金属の何かが、きっと錠前だろう――それが鈍い音を立てて外れ、複数の人間が動く気配がする。

 香炉で焚かれている薬の影響で感覚は鈍っていても、長年戦場いくさばに身を置いてきた清月は、無意識のうちにそれを五感で感じ取っている。


「――ゴホン! 香炉を一つ外に出して」


 何処か遠くの方から、聞き覚えのある若い女の声がする。ひやりと外から入り込む外気の流れに黒髪を揺らしながら、清月はそっと目を開けた。


「お早う、清月さん。良い夢をご覧になって?」


 顔を覗き込むように目の前に立っているのは、頭から被った白い衣の裾を口元で覆った、あの光華だった。

 清月が顔を上げようとすると、光華は清月の頬に右手を伸ばし、心配げに眉をひそめながらそれを制した。


「ごめんなさい。こんな目にあわせて。でも、あなたに逃げられるのが怖いから一服盛らせてもらったの。そうそう、今あなたは血の巡りがとても悪くなってるから、無駄に動かないで。後で苦しくなるわよ」

「……光華。お主が――館林忍軍の頭領であろう」


 光華は肯定の印に小さくうなずいてみせた。


「ええ。ついこの間父が梶尾の殿に斬られて死んだから、私が跡目を継いだの」

「一体何のために私を――?」

「それは……」


 光華は小さくため息をついて、その幼さの残る顔に微笑を浮かべた。


「一つは依頼通りの事を、私達を追う『九十九つくも衆』をすべて滅してもらうためよ。でも、あなたをこんな目にあわせているのは、もう一つ理由がある」


 清月は光華を見つめながら咳き込んだ。

 もうどれくらいここに入れられて、香炉の煙を吸わされているのだろうか。

 肺が蜘蛛の巣がかかっているように、実に不快だ。


「紫嵐隠密組。あなたたちは人外の術を使う異能の者。その存在はほとんど見た者がおらず、実在するのか半信半疑だったけど、昨日の夜、館林城の天守閣で九十九衆から私を助けたあの術を見て、あなたの力は本物だと感じたわ。美しくて素晴らしく強大で……そして……私が、とても欲する力。その入手方法を、私に教えて欲しいの」

「……ふっ……」


 清月は思わず笑みを漏らした。


「なっ、何が可笑しいの」


 こわばった声を発した光華の白い頬が、怒りのせいで赤く上気する。


「我が力を手に入れて、どうするつもりだ」


 清月は光華を見下ろしながら唇を歪めた。あたかも彼女を蔑むように。

 その視線に反発して光華の口調は激しく乱れた。


「きっ、決まっているでしょう! 私は力が欲しいの。誰にも虐げられない『強い力』が! 力さえあれば、九十九衆をいつまでものさばらせなかったわ! 奴等に追われても、反対に滅してやる事だってできるわ。多くの仲間を死なせずに済んだし、こそこそと、捕食者を恐れるネズミのように、息を潜めて隠れ家を転々とする生活をすることもない」

「――そんなことで、私の力を欲するのか」


 清月の言葉はあまりにもあっさりとして、同情の欠片もないほど乾いたものだった。

 光華は結い髪が乱れるほど頭を振り、思わず込み上げてきた涙を拳でぬぐって清月をひたと睨み付けた。


「ええ、あなたになんか、私の気持ちは絶対わからないわ! 弱くて力のないってことが、どれほどみじめで辛いことか――!!」


 光華はいたたまれなくなったのか、きびすを返して土蔵の外へと走り去った。土蔵の壁にまで伝わるくらいの強い力で戸が閉まる。


「香炉の数を増やして! まだまだ足りないわ」


 きびきびとした口調で、光華が配下の者に命じる声が聞こえる。

 それに何かと答える小さなそれがした後、再び土蔵の戸が開かれ、紺の忍び装束に身を包んだ二人の忍が、新たに二つずつ白い煙をあげる香炉を清月の前に置いた。


「はやく力の入手方法を頭に言った方が身の為よ。あまり長い間、この香を吸い続けると手足が麻痺して、自由がきかなくなることがあるの」


 清月の事を気の毒に思ったのだろうか。一人の忍が清月に向かって忠告する。顔は頭巾に隠れ目元までしか見えなかったが、妙齢の若い女だ。


「こんなことは無意味だと――ゴホッ……光華殿を、諌めてくれないか」


 新たに増した煙のせいで、清月は咳き込みながら女を見つめた。


「それはできません。私達は多くの仲間を九十九衆に殺されて、今はたった七名になってしまいました。執拗な梶尾の殿の追撃を振り切るためにも、私達にはあなたの力が必要なのです」


 女はそれだけをいうと清月に背を向け去った。

 再び重い戸が閉まる振動を感じつつ、清月は少しでも煙を避けようと頭を垂れて目を閉じた。

 むせ返るほど強い香の臭いに、流石にこの場に居続けるのはまずいと体が警鐘を発し始めている。痺れてきた指先を動かしつつ、清月は小さくため息をついた。


 逃げ出そうと思えば、何時でもそれができるというのに。

 何故私は、それをしようとはしないのだろう――。


 香の中に入っている薬のせいで、思考能力すら低下したらしい。

 『いや、違う』

 清月はそれを否定した。

 気になっているのだ。もう少し光華から、詳しい話を聞きたいと思っているのだ。

何故、館林忍軍が滅されねばならないのかを。


 館林忍軍はそれこそ二十年という長きに渡って、館林の藩主を影で支えてきた忍軍である。彼等の能力は薬学に長けて、武力派ではなかったが、ある日突然その役目を解かれるというのはやはり不自然である。


 光華の話によれば、『会度えど』からの『密書』を読んで、梶尾藩主が心変わりしたそうだから、その密書を書いた人間の意図によって、館林忍軍は何らかの陰謀に巻き込まれたのかもしれない。


 では、一体何の為に?

 清月は再び濁りそうになる意識を保とうと頭を振った。

 ――駄目だ。そろそろここを出なければ、本当に体の自由がきかなくなりそうだ。


 バタン――!


 その時、土蔵の戸が勢い良く開いた。澄んだ外気が一気に土蔵の中に入り込んでくる。清月はその新鮮な空気を胸一杯に吸い込んだ。思考が一瞬だけ明瞭になる。


「追っ手が――九十九衆に……ここは囲まれて……」


 ずるりと体を引きずりながら、一人の忍びが清月の足元へ這い寄ってくる。その背中には大きな太刀傷が口を広げ、鮮血が滴っている。

 清月は息を整え、両手に力を込めた。


 ピシッという鋭い音とともに、その若竹のような手首を戒めていた鉄の枷が砕け散る。ふらりと体が前に傾き、清月は何とか両足に力を込めてその場に踏み止まった。

 全身にじわりと倦怠感が広がっていく。まるで鉛のおもりをありったけ縛り付けたように体が重い。

 清月はその感覚に戸惑いつつも、自分の足元で倒れている忍を一瞥した。

 もう絶命している。

 きっと光華に、自分を逃がすよう、土蔵の鍵を外すのを命じられてここまできたのだろう。


 清月はよろめきながら土蔵を出た。

 霞のかかる視界を払う為、外の空気を目一杯吸い込むと、むっとするような血の臭いも肺の中に流れ込んできた。

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