あの、その、その感触が
店に着くと10人ほど並んでいた。まあ、これくらいならすぐだろう。
「お勧めは?」
「うーん。もりそばしか食べたことない。あとは大もりにするかぐらいかな。そこそこ量はあると思う」
「じゃあ、私はもりそばにしようかな」
しばらく待つと店の中に案内される。お客さんの年齢層は割と高めだ。結構お酒を飲んでいるお客さんもいる。俺の両親ぐらいの年の方2人、たぶんご夫婦なのだろう、と相席になった。もりを2つ注文する。テーブルの上に天かすとうずらの卵が置いてあるのを見て片倉さんが聞く。
「これって自由にとっていいの」
「うん。そこのはさみのようなので上を切ってうずらの卵をいれるんだ」
「へえ」
そんな話をしている間にそばが運ばれてくる。ここのおそばは割と色が黒く太い。つゆは出汁がきいており濃いめだ。最初はそばだけで食べ、次に3個うずらの卵を入れ、最期に天かすを入れて食べるのが俺の好み。卵を入れるのは邪道と言う人もいるだろうが、これはこれでおいしいのだ。片倉さんはそば猪口を持って慎重に食べながら、俺の真似をして味の変化も試している。そば湯までいただいてお勘定をする。
お店を出て、
「今日は先輩に用具選びをご教授いただくので、ささやかながらお昼代はわたくしめにお任せください」
「もう、ちゃんと払うってば」
「いいから、いいから。それより弓具屋さんに案内お願いします」
「だめ。こういうのはきちんとしないと誘いにくくなるじゃない」
片倉さんは自分の代金を俺の手に押し付ける。
「どう、気に入ってもらえた?」
「そうね。おそばの香りがしっかりしておいしかった」
弓具屋さんでは、片倉さんがてきぱきと指図をして買い物は割とすぐに終わった。道着、袴、帯、足袋、かけを選んでいく。かけというのは右手にはめる手袋のようなもので弓道では一番重要な道具とされている。片倉さんは色々と世話をやけてうれしそうだ。
「足袋は汚れるから洗濯替え用に2つはあった方がいいかも」
「あとは肝心の矢ね。まずは巻き藁矢1本。長さは……左手をいっぱいに伸ばしてみて」
適当な1本をとり俺に手に添える。近い、近いよ。息を止めてしまう。
「この長さプラス5センチメートルくらい」
少し下がって、俺に矢の長さを示す。ふう、やっと息がつける。
「それと、矢は最初は完成品のアルミ矢でいいんじゃないかな。とりあえず6本。重さは重い方ので。あと、色は好みで選べばいいよ」
あとは矢筒と小物をいくつか買って4万円強になった。自分でこんなに高い買い物をしたのは初めてかも。俺の買い物が終わったので、片倉さんが矢を買う。
「お包みはどうします」
お店の人が聞いているので、
「良かったら一緒に入れていくよ」
「簡単な袋ならご用意できますが、その方が痛まなくていいですね」
「じゃあ、お願いしちゃおうかな」
結構な荷物になった。ただ、量は多いものの重さはそれほどでもない。
お店を出て駅に向かう途中、
「まだ時間ある?」
「ある」
「せっかく都心に出たから大きな本屋さん寄りたいんだけどいいかな?」
「もちろん。場所は?」
「20分ちょっと歩くけどいい?」
「大丈夫だよ」
「ありがと」
道すがら、片倉さんは先ほどの話を再開する。
「それでさ、クリスティは?」
曇り空の中てくてくと歩いて本屋に到着した。気温はやや高めだが風があるので、歩くのは苦痛にならない。エレベーターで4階の文庫のフロアに上がる。片倉さんは早速ミステリーの棚の前に陣取り、幸せそうに棚に手を伸ばしている。あまりそばにいるのも鬱陶しいだろうと思い、歴史小説のコーナーにいると小さな声をかけて離れる。
俺は特に歴史小説を選んで読むという訳じゃないが、”ヨッシー”さんのことを知ってからは割と目を通している。最近は以前はあまり知名度が無かった人物を取り上げたり、色々な角度から再評価する話があったりするが、”ヨッシー”さんは……結構不遇だ。そのことを指摘したら本人はフフンと笑って何も言わなかった。何冊か手に取ってあらすじと解説に目を通した頃、いい加減にしてください、という押し殺した声が聞こえた。ハッとして片倉さんの方を見るとすぐそばに立つおじさんに何か言っている。
「人が折角教えてあげると言っているのに」
「だから、それが迷惑だと言ってるんですっ!」
「なんだ、その態度は」
「あなたがさっきから言っているのはこれはダメだとか、大した作品じゃないとか、そんなのばっかりじゃないですか。趣味が合わないようなので、放っておいてくださいと言ってるんです」
あちゃー。なんかメンドクサイのにからまれてるみたい。もっと早く気づけばよかった。荷物を持って片倉さんの方に向かう。
「人が親切にしているのに。それが年長者に対する口の利き方か」
「年上かどうか知りませんけど、人が好きなものに対して悪口しか言えないのは人として最低です。気分が悪くなったのでもう話しかけてこないでください」
「なんだと」
片倉さんは手に持っていた本を棚に戻すと俺に近づいてきて、
「あんなの相手してらんない。行こっ」
と言うと俺の左腕をとって歩き始めた。振り返ってみるとおじさんもぷりぷりしているが追いかけては来ない。
「もうっ、ほんっと信じられない。次から次からへと悪口しか言わないし。あれでアドバイスとかサイテー」
相当頭にきているのか、俺を引きずるようにずんずんと下りのエスカレーターのところまで歩いていく。
「もっと早く気づいて止めに入れば良かったのにゴメン」
そう言うとハッとして腕を離し、みるみるうちに首の付け根まで真っ赤になった。うわ、マジで可愛すぎるんですけど。あまり見ていると悪いので先にエスカレーターに乗ったが、あの恥ずかしそうな顔はしっかりと目の網膜に焼き付いている。そのまま、1階まで無言で降りる。残念だけど、俺の腕をとったのは怒りのあまり誰か、たぶんお兄さんと勘違いをしたんだろうな。左腕には片倉さんの手の感触が残りカッカとしている。大声で叫びながら走り回りたい気分だ。
1階に降りてチラリと見ると顔色は元に戻っているが何とも言えない表情をしている。恥ずかしさと怒りと反省のカクテルって感じだ。うーん、この微妙な雰囲気どうしよう。ぶらぶらと歩いているといいものがあった。気分が落ち着かないときは甘いものが一番。
「あのさ、ちょっと喉も乾いたし、あそこ寄って行かない?」
「え?ファミレス?」
「ときどき無性にあそこのパフェが食べたくなるんだ。どう?」
指さす先のお店は、チェーン展開しているファミリーレストランではあるがデザート類が充実していて侮れない。
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