第11話 邪悪再生

 健作たちが波紋を通り抜けると、すでに体育館の中に入っていた。景色が朧気で光球が漂い、異界の中だということがわかる。


 博之は体育館の中央。人型の黒い染みがある場所で跪いていて、祈りを捧げているかのように何かを呟いている。それは蚊の羽音の様に微かな呟きだったが、静かな体育館であることも相まって健作の耳にも届いてきた。


「助けてください……僕には無理なんです……お願いです……助けてください……」


 むせび泣くような声だった。


「……」


 健作は博之に向かって強く踏み出した。

「待って、下手に刺激したら―」


「わかってる。任せて」


 十魔子の忠告に頷き、また一歩進む。


 そして、大きく息を吸い込み、


「おい、博之!」


 大声で呼びかけた。


「え!?」


 十魔子は目を丸くして健作を見る。


 健作は突き進む。


「お前、なんでこんなところにいる。昨日の事も知ってるんだな? 全部話してもらうぞ!」


 健作は昨日までの博之しか知らない。それ故に、つい昨日までの博之に対する態度をとってしまう。


 しかし、目の前の博之は、青ざめた顔で健作を見て、恐ろしい怪物を見るかの様に絶叫した。


「うわあぁぁぁぁぁ!」


 その時であった。床の黒い染みがひとりでに動き出し、博之の手を伝ってその腕をの登り始めたのだ。そして、瞬く間に口の中に入っていく。


「あが、あがががががが」


 博之は白目を剥いて頭を激しく痙攣させた。


「博之!」


 健作は博之に駆け寄ってその肩を揺すった。博之の頭部は痙攣をやめ、ダラリとうつむいた。

「竜見さん!」


 健作に呼ばれるまでもなく、十魔子も駆けだしていた。しかし、途中で立ち止まった。

その目は驚愕に満ちて博之に向けられている。


「た、竜見さん?」


 健作は博之に目線を戻す。彼の頭は垂れ下がったままだ。


 健作の中で何かが危険を告げている。目の前の人物は危険であると。健作は無意識のうちに博之の肩から手を離した。


「グェ」


 頭の上で蟇蛙が鳴いた。


 その瞬間、博之が顔を上げた。不敵な笑みを浮かべて、自信に満ち溢れた健作のよく知る顔だった。


 次の瞬間、腹に衝撃が走った。体が宙を飛び、十魔子の立っている場所まで飛ばされる。


「あぐっ!」


「三葉君!」


 十魔子が膝をつき、健作の腹に手を当てる。手から淡い光が生じて痛みが和らいだ。


 博之は突き出した手を床につけ、ゆっくりと立ち上がり、大きく伸びをした。


「やぁ、健作君。また会えて嬉しいよ」


 そう言うと、その場でストレッチ運動を始める。


 健作は腹を抑えて立ち上がる。


「いてて……、博之、どういうつもりだ! 悪ふざけにも程があるぞ!」


 健作は怒っていたが、どこかで安堵してもいた。健作のよく知る博之だったからだ。


「三葉君、彼はもう……」


 十魔子は健作の腕をつかんで悲しく首を振った。


「あいつはああいうやつなんだよ。いっつもこうやって質の悪いいたずらをしてさ。博之、今回のはいくら何でも笑えないぞ!」


「そういうことじゃないのよ。目の前の事実を見て!」


 苦しさを吐き出すように十魔子が叫んだ。


「だ、だって……」


 健作は言葉を探した。しかし、


「クク、クククク……」


 博之が笑い出した。


「アハハハハ、ハーッハハハハハハハハ」


 腹を抱え、膝を叩いて笑い続けた。


「な、なんだよ……頭がおかしくなったのか? もとからおかしかったけど」


「いや~、馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど、これほどとはね」


 博之は侮蔑的に笑うと、自らの口に指を突っ込んだ。


「オエェェェェェ!」


 そして、嘔吐を始めた。その吐瀉物は真っ黒に染まっていた。


「な、何を!?」


 戦慄する健作たちをよそに嘔吐を続ける博之。吐瀉物は博之を中心にに水たまりを作り、彼の体は見る間にやせ細り、その髪は真っ白に染まっていく。そして、嘔吐を終えるころにはミイラの様になってしまった。


「だ、大丈夫か?」


「大丈夫だよ」


 その声は、ミイラのような博之から発せられたものではない。もっと下方。黒い水たまりから聞こえてきた。


「!?」


 黒い水たまりがひとりでに動き出し、博之の隣の一点に集まる。そして人の高さに盛り上がったかと思うと、徐々に形を作り、そして人の姿になった。


「お。お前は!?」


 昨日、自分の胸に突き刺さった黒い槍。それを投げてきた人物。一瞬だったが確かに覚えている。


 上から下まで真っ黒なスーツと対照的に陶器の様な白い肌。中世的でやや幼い顔立ち。ふわりとした金髪を手鏡を見ながら整え、黒い中折れ帽を被せる。


「よし。この姿で会うのは初めて……ってわけでもないかな。こんにちは健作君。そこの女に聞いたかもしれないけど……あ、名乗ってなかった。僕はメフィストフェレス。君たちが悪魔と呼ぶ存在さ」


「生きていたのね」


 十魔子が健作の横から口を出す。その声は努めて冷静であるように怒りを押し殺しているようであった。


「僕は僕を求める者の味方だよ。博之君の祈りのおかげだね」


 と、悪魔は横目で隣に立つ博之を見た。干乾びてやせ細った彼は、一応、息はあるものの、辛うじて立っているかのような状態だった。


「……」


 メフィストは何を思ったか、博之の額に軽くデコピンをする。


 当然、博之は倒れる。受け身も取ってない危険な倒れ方だ。


「お前!」


 激昂した健作の腕を十魔子がつかんだ。


「おいおい、そんなに怒るなよ健作君。友達だろ?」


「うぅ……。おまえなんなんだよ!」


 健作はメフィストに向かって叫んだ。


「なんでお前……博之の真似をしてる!? なんのつもりなんだ!」


「お、それを聞いちゃう? お約束がわかってるね~君は。と、いうわけで、一生に一度は行ってみたいセリフ。よくぞ聞いてくれました。冥土の土産に教えてあげよう」


 メフィストが指を鳴らす。すると、突如景色が歪みだした。


「いけない、ここを出ないと!」


 十魔子が健作の腕を引く。


「でも、博之が……」


 健作が躊躇していると、今度は床までもが動き始めた。


「うわっ!」


 二人はバランスを崩して倒れる。


 景色は上下左右関係なく混ざり合っていき、激流の川の中の様に上も下もわからなくなってしまった。


 その中で健作は十魔子の手を離さないようにしっかりと握っていた。

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