第4話 あまねる と 謝る

「なぜですの? あまねるから雨音さまになるなんて、おかしすぎます……私など愛称で呼んでいただける価値もないと言うことなのでしょうか……それ以前に私に、さま、なんて、どうして他人行儀な呼び方をなさるの? ……」


 俺の口を手で押さえた雨音さまは、俯きながら小声でブツブツと呟いていた。あまりにも小声すぎて、何を言っているのか聞き取れないけど、凄い勢いでブツブツと呟いている。

 咄嗟に口にしてしまったとは言え、お嬢様である彼女にとっては屈辱だったのだろう。

 気高い彼女にとって、俺なんかに愛称で呼ばれることなど不快でしかないのかも知れない。

 もしかしたら、雨音さまと呼ぶことも叶わなくなったのだろうか。

 一切の接点を拒絶されるのだろうか。

 少しだけ、俺の心にチクリととげがささる。

 もちろん、俺は単なるクラスメート――いや、親友の兄貴でしかない。それ以上の接点がある訳じゃない。

 だけど、俺は彼女に少しだけ近づけていたと思っていた。彼女もそれを許してくれていたと思っていた。

 以前起こった、彼女との少しの接点。それが彼女と小豆。そして俺との接点を近づけたのだと思っていたのだった。

 それなのに……。

 俺はまた、同じことを繰り返したのか。

 小豆にしたのと同じように『俺の勝手な行動で誰かを傷つける』ことを繰り返すと言うのか。

 俺は何度同じ過ちを繰り返せばいいのだろうか。何故、誰かを傷つけなければ生きられないのだろうか。

 そんなことを、彼女の後頭部を眺めながら考えていたのだった。


 だけど、彼女が傷ついて、怒っているのは事実。俺には謝ることしかできない。

 例え彼女が許さなくとも、それを俺が怒れる筋合いはないのだ。すべて俺が招いた結末なのだから。

 俺は覚悟を決めて、彼女の言葉を待っていた。


「……あまねる、と、お呼びください……」

「……え?」


 ゆっくりと俺を見上げた彼女は、弱々しくも確かな決意を込めて俺に、真剣な表情で伝える。

 想像と違う言葉に驚いた俺は、彼女を見下ろし声を上げた。


「……あまねる、と、呼んでくださいまし……」

「――ッ!」


 驚いた表情でいる俺に再び言葉を紡ぐ彼女。その表情には今にも泣きそうな雰囲気を感じていた。

 俺は何故彼女が、そう呼べと言っているのかが理解できなかった。どうして泣きそうな表情をするのかも。

 だけど、わかった。理解できた。

 きっと彼女も、周りへの示しがつかないのだろう。

 ここで俺を平手打ちにしたところで、俺が悪いことなど全員が理解しているとは思う。それでも彼女自身の気持ちは晴れないのだろう。

 謝っている相手を叩くのは良心をとがめるのだと思う。彼女は『そう言う気質』の娘だけど、心根は優しい子だから。

 俺がもう一度『あまねる』と呼ぶことで、彼女の平手の正当性は保たれる。だから、そう呼べと言うことなのだろう。

 未だに苦しそうに見上げている彼女の顔を眺めて、俺は決断していた。

 俺が招いた結末なのだ。ならば、彼女の言う通りにするべきだと思う。

 俺は覚悟を決めて、彼女を呼ぶことにした。


「あ……あまねる……。――ッ!」


 彼女を『あまねる』と呼んだ。聞いていた彼女の腕がゆっくりと上がる。

 俺は目を閉じて平手の衝撃に備えていた。

 だけど俺の頬に伝わる感触は、平手のように鋭いものではなく、両手で包み込む優しい感触。

 驚いて目を開けた先には、何処か安堵したような、柔らかな微笑みを浮かべる彼女。


「……もう一度、言っていただけますか?」


 懇願するように言葉をかける彼女。


「あまねる……」

「……もう一度」

「あまねる……」

「……もう一度、大きな声で」


 俺の頬を包み込んで、俺をジッと見つめながら、何度も何度も俺に『あまねる』と呼ばせる彼女。

 彼女の心意がわからなくなって、ただひたすらに彼女を呼んでいた俺。

 俺の言葉を聞いて、少しずつ頬が染まっていく彼女。少しずつ嬉しそうな表情に変わる彼女。

 苦しそうな表情ではないことに、ひとまず安堵を覚えていた俺。

 そんな数回のやり取りも、彼女がパッと手を離して俺を見上げながら言った言葉。


「……はい。私は、あまねる、です。ご理解いただけましたね? お兄様♪」


 満面の笑みに添えられた嬉しそうな声色の言葉で幕を下ろしたのだった。

 さすがに、こんな笑顔で言いくるめられてしまえば拒否などできるはずもない。

 そもそも、俺が拒否をしていた訳じゃないんですけどね。

 だけど、単純に彼女に受け入れてもらえたことが素直に嬉しかった。俺の間違いを受け入れてくれた広い心に感謝していた。

 きっと親友である小豆のことを思ってのことだと思う。結局、小豆の兄貴だから許してもらえたのだろう。

 小豆との関係を考えて、俺を立ててくれたのだと思う。ごめんな、小豆、こんなバカなお兄ちゃんで。


「ああ、わかった……これからも、よろしく……あまねる」

「はい♪」


 俺は、あまねると小豆に感謝しながら目の前の彼女に微笑みながら、そう伝えた。

 その言葉を聞いて彼女は嬉しそうに了承する。小豆との関係を大事にしていてくれることに嬉しさが心に溢れていた俺なのであった。


 そんな感じで始まった『あまねる』と言う愛称だったのだが――。

 何故か直後に小豆から、ふくれっ面で迫られながら「だったら、私だって、あずにゃんって呼んでよ~」と言う攻撃を受けていた俺。お断りします。

 いや、彼女はお前との関係を保つ為にだな……仕方なく呼ばせていると言うのに。

 自分でかき回すような真似はよしなさい。あと、恥ずかしいから無理です。

 俺に迫っていた小豆に微笑みながら、だけど少し勝ち誇ったような表情を浮かべて見ていた彼女。まぁ、普段の彼女に戻っただけなんですがね。

 そんな彼女の笑顔をくやしがりながら、更に拍車をかけて俺に詰め寄る小豆さん。

 結局、予鈴のチャイムで三人のやり取りも曖昧のまま終焉しゅうえんを迎えたのだが、それ以降は自然と彼女のことは愛称で呼ぶようになったのだった。


◇4◇


 あまねるとは、彼女がウチの高校へ入学する以前に少し接点があった。その際に、こいつら三人も彼女と面識があったのだ。 

 当然、大学生のこいつら三人が現在も彼女と直接接点がある訳ではないのだが、小豆から話を聞かされることはあるのだろう。

 だから小豆の名前が出ていたから、思い出したように聞いたのだと思う。

 少し強烈だったからな。俺達と彼女の出会いは。まぁ、主に俺が大変だったんですけどね。


「あぁ、相変わらず元気だぞ?」

「そっすかぁ、それなら別に問題はないんすけどね……」

「ん? ……彼女になんかあったのか?」


 俺は缶コーヒーを一口飲んでから元気なことを伝える。その言葉に安堵の表情を見せる透。

 少し気になった俺は透に理由を聞こうとしていた。

 

「ああ、別に彼女がどうって話ではないとは思うんすけど……」


 少し曇った表情で透は言葉を繋げる。


「最近、彼女について嗅ぎ回っている連中がいるみたいっす……」

「嗅ぎ回る? ……おい、それって?」


 俺は透の言った「嗅ぎ回る」と言う言葉に、身に覚えがあって神妙な面持ちで聞き返す。

 だけど、透は苦笑いを浮かべて言葉を繋いだ。


「いや、別に『あいつら』は何もしていないと思うっすよ? さすがにアニキ相手に、何かするバカはいませんって」

「そうか……」


 俺は透の言葉に少し安堵した。

 こいつの言っている『あいつら』には、あまねると接点を持った時に少しあった。その時に、こいつらもその場に居合わせていた。

 そして、あいつらからの彼女への不穏な接点は、あの時点で断ち切っていたはずだ。

 だけど逆恨みで再び……そう考えていたのだが、どうやら俺の杞憂きゆうだったようだ。

 そんな安堵が顔に出ていたのだろう。俺の顔を見ながら釘を差すように神妙な顔で言葉をかける歩。


「どうも……今回のは、彼女側のようみたいっす」

「彼女側? ……ああ、そっちなのか……」

「そうみたいっすね」


 歩の言った「彼女側」と言う言葉に、落胆の表情をして言葉を返す俺。そんな俺に渋い顔で言葉を返す歩。


 あまねる――彼女は、性格からか、育ちからか。

 誰に対しても『歯に衣着せぬ』言い方をする。だから敵を多く作るのだろう。

 もちろん、それを補って余りあるくらいに性格の優しい、可愛い子だと、彼女をよく知る人物は思っているのだろう。

 だからこそ、うちの高校のアイドルとして君臨しているのだ。

 別に美貌だとかお金持ちだとか、そんな外見的な部分に生徒達が惹かれている訳はないと思う。

 冷たく言い放ってもなお、優しさや暖かさ、面倒見のよさ。それ以上に高貴さが溢れているから、周りの生徒達は尊敬と好意を抱けるのだと考えている。 


 つまり、内面を知る者達にとっては『彼女の個性』でしかない言動。

 だけど、知らない者達にとっては、単純に敵意を持たれる言動。

 俺達の言っていた『あいつら』とは、そんな人物達だった。

 

 そして、それとは別に、歩の言った『彼女側』と言う人物も存在する。

 彼女は本物のお嬢様。そして、有名私立中学校出身の生徒なのである。

 小豆が転校するまで通っていた中学――宇華徒うかと学院は初等部から大学院まで有する、一貫の有名私立学校なのだ。そこに初等部から在籍していた彼女。

 きっと家柄や本人の人柄からなのだろう。中学入学当初の時点で、周りの生徒や教師から一目おかれる存在だったのだと、小豆から聞かされたことがある。

 中一の頃から人望も厚く、将来を有望視されていた彼女。当然、彼女の周りには彼女を慕う生徒がたくさん存在していたのだろう。憧れや、叶わぬ恋心を抱いている生徒もいたと思う。


 そんな憧れの存在だった彼女が、中学卒業と同時に平凡な公立高校。まぁ、うちの高校なんだけどさ。

 周囲の猛反対を押し切って、強引に入学してきたのだった。あっ、正規の入試を受けて合格したんだけど。

 高校もエスカレーター式なのだからと、当然のように彼女に期待していた者達。憧れて、恋焦がれていた者達。

 彼女はそんな生徒達の想いを拒むかのように、公立高校へと入学してきたのだった。


『可愛さ余って憎さ百倍』と言う言葉が当てはまるのかは疑問だが、慕っていた生徒にしてみれば裏切りに思えていたのかも知れない。

 つまり彼女側とは、そう言う人達のことなのだった。


 正直なところ、『あいつら』の類いが相手ならば、俺にも動きようがあった。

 下手なことはできないが、あの頃よりは上手く立ち回れるようになっていると思うしな。

 だけど、「彼女側」の人が相手では俺にはどうすることもできないのだ。

 せいぜい彼女の周りに立ちふさがり、壁役として襲ってくる火の粉を振り払うくらいだろう。

 それ以上のことはできるはずはない。してはいけないのだと思う。

 俺は親友の兄貴。それ以上の繋がりはないのである。

 だから「彼女側」からすれば、俺は完全な部外者だ。立ち入る隙など存在しない。

 

「……すまん。何かあったら連絡してくれ」

「もちろんっすよ」

「悪いな……面倒かけて」


 高校の中なら俺が目を光らせることはできるのだが、三人が知っていると言うことは外部。

 つまり「彼女側」が『あいつら』の類いと手を組んでいる可能性があると言うこと。

 事実、そこに関しては俺よりも三人の方が情報が入りやすいのだ。

 本来ならば俺が責任を負うべき問題なのかも知れないのに、三人に迷惑をかけることになる。

 今回の件が「確実に俺とは無関係」だと言い切れないからなのだが。


 申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、三人に頼んでいた俺。

 だけど当たり前だと言うように言葉を返す歩と、笑顔で頷き聞き入れてくれた翔と透。

 そんな三人の心づかいに感謝の笑みを送って声をかけていた。

 俺は残っていたコーヒーを一気に飲み干す。

 俺はブラックなんて飲めないし、最初から微糖を買っていた。

 だけど飲み始めた頃の甘さが感じられないほどに、苦い後味を感じていた俺なのであった。



 そのまま一緒に改札口まで歩いてきた俺達だったが、三人は反対のホームへと歩いていった。

 何か用事があるのだとか……三人はソワソワしながら歩いていったのだった。

 まぁ、大学生なのだし合コンと言うのがあるんだろう。うん、合コンくらいアニメやエロゲで知っているぞ。俺の知識を舐めるな。実際には経験ないけどね。


 前に三人と会話をしていた時のこと。 

 かなり盛り上がって楽しかったって話を聞いて、興味本位で「楽しそうだな? 俺も行ってみたいかも?」なんて言ったことがある。

 当然、俺は高校生なんだしさ。連れて行ってくれるなんて思ってないのにさ。

 いきなり俺を睨みつけてきた三人は――


「いやいや、アニキは絶対にダメです!」


 は?


「そうっすよ? 合コンなんて、モテナイ男が彼女欲しくて行くもんっすから!」


 いや、俺モテナイんですけど? そして彼女ほしいです。


「と言うより、俺ら死にたくないんでマジ勘弁っす!」


 おい! 俺は人畜無害だよ。丸くなったの知っているじゃん……。

 そもそも合コンに行きたいだけで、ケンカしたいんじゃないんだけど。

 口々に俺に言い放ち、なんか三人に思い切り拒絶されていた俺。思わず三人に抗議する。


「ふ、ふん! べ、別に行きたくて言ったんじゃ、な、ないんだからね! ……って言うか、三人のケチんぼ、きかんぼ、いやしんぼぉー。連れて行ってくれてもいいじゃんかぁー! うわぁーん……」

 

 そして泣きながら逃走するのである。

 うむ、まったく抗議じゃないね。ただ普通に、ふてくされていたことがあったのだった。子供かよ、俺。 

 当然ながら、呆れた苦笑いを浮かべて逃げる俺を見ていた三人。

 俺も実際には「小豆のことなんだろうな?」とは察していたけど、なんか認めたくなかったから、ふてくされていたのだった。やっぱり子供かよ、俺……。

 そんなことを思い出して、虚しさの残る心で三人を見送る俺なのであった。

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