10.
***
篁は『知らぬ』ということが許せない男である。
サエが料理に集中している間に、彼自身も初めて目にする食べ物について調べていたようだが、それによってもたらされた情報はサエたちの耳には入らなかった。
目の前に美味しそうな食べ物がある。
その事実だけで充分なのだ。
「うん! いい匂い! おいしそう!」
肉とトマトソースを皿に盛り付け、サエは満足そうに微笑んだ。
「普通はソテーした豚肉に、ケチャップベースのタレをからめるらしいんだけどね。我が家はこんな感じよ」
でも美味しいからいいのよと付け加えて恵も笑う。
母の作り方に忠実に従ったからだろうか。
目の前に差し出されたポークチャップは、自分が作るものとは違うように見えた。
調味料の差はあれど、材料も切り方もほとんど変えていないのだから見た目は同じようになるはずなのに、恵には違って見えた。
さていただきましょうかという時に、サエが神妙な面持ちで恵の手を止めさせる。
「あのね、食べたら不思議なことが起きるから! それだけ心に留めておいてね!」
「ちょっと。説明が雑すぎない? 何よ、『不思議なこと』って」
「食べればわかるよ!」
「説明するならしっかりする。しないならまったくしない。どっちかにしなさいよ」
「でも……」
切ない顔で何度もポークチャップに視線を落とし、言葉にならない訴えを恵に投げかけた。
早く食べたい。説明しなくちゃ。だけどやっぱり今すぐ食べたい!
そんな感情の変化の中で立ち往生してしまっているように見えた。
恵はただため息をこぼすしかなかった。
サエの気持ちもわからなくはないが、恵としては、余計な不安要素を投入されたわけだ。
ポークチャップに向けて伸ばした箸の行方にもためらいが生じる。
しかし、サエがじっと見つめて待っているのだ。
観念して肉を一切れ、そっと口に運んだ。
一口分を噛みちぎり、咀嚼する。
そうだったわ、と恵は懐かしそうに頷いた。
肉のうまみ、玉葱の甘み、砂糖で調えたコク。すべてがしっかり溶け込んでいるのに、あくまでトマトの風味は爽やかで豊かな酸味で。こんがり焼いた豚肉のしっかりとした味わいから、しつこさだけをさらっと奪い去る。
後味は、寂しさを感じるくらいにさっぱりしている。だからもう一口、もう一口と欲しくなる。
母のポークチャップの味だと感じた。
「うちは夫と私の二人だけだから、肉の量は半分。でもトマト缶まで半分にすると残りをどうしていいかわからないから、ソースだけは分量通りの材料で作るのよ。」
肉の量が少ないせいでソースのうまみが足りないと感じると、恵はニンニクやコンソメに頼るようになった。
美味くはなったが『違う』と感じていた。
だがそれはどうしようもなくて、『うちのはこういう味』だと思うようにしていた。
だがあらためて母のレシピで作ってみると、余計なことをしなくても充分に美味しい。その味をうらやましいと思ってしまった。
それは、目の前に広がる光景に対しても感じたことだった。
いつからだろう。彼女の目の前から、古びた食堂の風景は消えていた。
代わりに、ごく普通の家庭で、ごく普通の一家が食卓を囲み、なんでもない話題で盛り上がる。そんな光景の中に放り込まれていた。
物がごちゃごちゃしていて片付かない居間に流れる空気は、ホームドラマの家族のような誰もが憧れるようなものではなくて、食卓を見てもレストランのように見栄えの良い料理が並ぶわけでもない。
本当に何もかもが普通で平凡で、ありふれていて。
だけど彼女はそんな光景をうらやましいと思った。
自分のとは違うのだと思っていた。
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