15.

     ***


「ははは。優しいなんて買いかぶりだよ。ただ……逃げてただけだよ」

 崕は崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。三国紗那の記憶の中、幼いころの自分と彼女とが向き合っているそのすぐそばだった。

 この幼い少年は、笑顔で隠した心の内で一体何を思っていたか。

 母を困らせてしまった。失敗した。選択を間違えた。次は失敗しないように。間違えないように。母が喜ぶ答えを。みんなが喜ぶ答えを。そうしなければ――

 頭の中はそのことでいっぱいだった。

 それは、ほんの数分前に自分を虜にした魅力的な渦巻きの存在を、きれいさっぱり忘れさせてしまうほどのことだったのだろう。

 崕の頭の中には、その瞬間の困惑や後悔は思い出されても、シナモンロールのことはまったく残っていなかった。

「どうして、こんなものを見せるかなあ」

 崕は笑った。

 悲しみを押しつぶして、無理矢理笑ったような歪んだ表情だった。

 たしかに、たくさんある選択肢から相手の望む答えばかりを選び続けていたかもしれない。そのせいで自分が本当に望んでいることが見えなくなっていたかもしれない。

「俺、何かしたかったのかな」

と不意にこぼれた。

 口に出してはみたものの、その一言はあまりに空っぽで、崕は尚更むなしくなった。

 そんな崕に、サエは隠して持っていたシナモンロールを手渡した。

 微妙なフォルムのキャラクターが描かれた袋にいくつかの渦巻きが押し込まれ、袋の結び目には小さなメッセージカードがくくりつけられていた。

『私は、ヤマトに会いたいよ』

 メッセージは、彼女そのものを表したような、力強くて綺麗な文字で書かれていた。

「ヤマトに、会いたい……か」

 読み上げながら、少女の顔を思い出していた。今目の前にいたなら、どんな言葉をかけてくるだろう。そしてどんな言葉を望むだろう。

 そう考えてしまっている自分に気がついて、崕は大きなため息をついた。そう簡単にはいかないよと、彼女に言ってやりたかった。

 そんな崕の背中に声がかかる。

「阿呆か」

 言葉とともに、体を小突かれた。

 遅れて現れた篁はシナモンロールを頬張りながらフンと鼻で笑う。

「すぐに答えが出るなんて誰も思っちゃいないよ。今までの人生を悔いるのも、この先の身の振り方を考えるのも、十王審判の長い道程の中でいくらでもできるから、好きなだけ悩んで苦しめばいいさ。だけど、ひとつだけ、今すぐ答えを出さなければいけない問題があるぞ」

 篁の言葉にサエが「あ!」と声を上げた。

「そうだよ! 急がなくっちゃ!」

 サエの見事な慌てっぷりに、今度は篁がため息をついた。

「何かあるの?」

 恐る恐る尋ねる崕。サエは答えられそうにないとみて篁に視線を移した。

「彼女に会いたくはないかい?」

 予想しなかった問いかけに、崕の思考は停止しかけた。

 会いたくないかと尋ねただろうか。

 それは会える可能性があるということか?

 しかし――

「あいつは何日も前にここに来たんだよね?」

「ええ、そうよ」

「今はどこにいるの? まさか、どこかで待ってるとか?」

 自分自身が彼女と会いたいのかどうかもまだわかっていないのに、崕はすがりつくように尋ねていた。

「残念だけど、それはないわ。十王様のお裁きは何日ごとにと決まっていて、遅れることは許されないの。そろそろ次の王様のところへ着くころよ」

 頭の中で日数を数えながらサエが言う。

「じゃあ、どうして『会いたくないか?』なんて聞くんだよ。ムリなんだろ?」

「そうだ。無理だよ。でも無理をすれば会えるんだ」

 確かに十王の審判に遅れることはできないが、早めにたどり着く分には問題ないのだと篁は言った。

 しかしただ急げばなんとかなるという話ではないという。

「十王の審判を受ける者は日に三千を超える。その中から彼女を見つけるのは、まあ無理だろうな。そうなると、次の王、初江王しょこうおうの従者に話を通して協力を仰がないといけない。それができるのは俺くらいだが、俺は忙しい身でな。まあ、頼まれれば嫌とは言えないお人好しだからなんとかするが。しかし行動を起こせば、人の記憶について他言してはいけないというルールを破ったことがばれてしまうから、俺もサエちゃんもお咎めを免れられないだろうね。これは困った。だからといって、こんなに想ってくれている彼女を放っておくのも人としてどうかと思うわけだよ。まあ、少年が気にならないと言うなら、それでいいんだけどさ」

 淀みなく早口に言ったせいで、崕だけでなくサエもまた、篁の一言一句を聞き取ることはできなかった。

だが、わざとらしい悪意が込められていることはよく理解できた。どちらを選んでも、誰かの表情を曇らせることになる。それを篁は大仰に言ってみせたのだ。

 崕はすっかり怯んでしまったようで、肩をすぼめて篁の話を聞いている。

 そんな崕に追い打ちをかけるように、篁はより意地の悪い口調で続けた。

「すべてがまるく収まるなんて選択肢はないわけだけど――その上で改めて聞こうか。彼女に会いたいかい?」

 意地悪な言い方だと責めるサエを横目で見ながら、篁は崕と向き合った。崕はなかなか目を合わせようとはしなかった。

「俺はどうすればいい?」

 いつもの癖で答えを求めていた。

 それに対して言葉を投げたのは篁ではなくサエだった。

サエは厳しい顔で首を横に振った。

「違うよ、崕くん! 今大事なのは、あなたがどうしたいかだよ!」

「そんなの、わからないよ。俺には何もないんだから」

「大丈夫! ちゃんとあるよ! きっとあるから!」

 崕の手を掴み、眉根を寄せて言った。

捕まれた手に目をやったついで、崕は今一度、三国紗那からの贈り物に目を向けた。

 微妙なゆるキャラのイラストと、その奥に見える渦巻き。袋を通してもシナモンの香りが漂ってくる。ふうわりとやわらかく漂うのに、その芳香は力強く、崕の胸の奥を刺激する。

 体の奥深くで何かがふつふつと沸き立つのを感じた。

「『私は、ヤマトに会いたいよ』」

 崕はか細い声で少女の言葉をなぞった。

 彼女の望む『ヤマト』は本当にいるだろうか。

 そしてそれは自分自身も望む『ヤマト』なのだろうか。

 そんなものがあるのかどうかもわからないし、それが正しいものなのかどうかもわからない。

 だけど心の中で沸き立つものがあった。

 それを見ないふりで遠ざけることは、もうできなかった。

 崕はくっと奥歯を噛んだ。キリキリと音が聞こえてきそうなくらいに噛みしめて、次の言葉への助走をつける。

「俺!」

 思っていたよりも強く声が出てしまい、照れ笑いのあとに仕切り直す。

「俺も、あいつに会いたい」

 静かにそう伝えた。

 ぴりっと胸の奥が痛んだ。

 あの日の母の表情が頭によぎる。二人も同じように困った顔をしているかもしれないと思ったら、視線を上げることができなくなった。

 それでも崕は、胸の痛みに耐えながら続けた。

「篁さんにもサエさんにも迷惑をかけるかもしれない。それでも俺、あいつに会いたい!」

 崕はそう言って深々と頭を下げた。

 少し間があって、呆れたような気配のため息と、吐息のように漏れた笑い声が聞こえた。

 二人がどんな様子で自分を見ているのかが気になって崕は顔を上げようとする。しかし大きな手のひらに頭を掴まれ押し戻された。

「何するんだよ!」

「ちゃんと自分で考えたご褒美だ。ほら、褒めてやる」

 いっそう強く押しつけながら篁が言う。

「これのどこがご褒美だ! どうせくれるなら、もっといいものをくれよ!」

 崕は九十度よりまだ深く腰を曲げたまま抵抗するが、意外にも篁の腕は力強くもがいてみてもどうにもならなかった。

「調子に乗るなよ。たった一歩踏み出しただけだろうが。いや、一歩どころか、お前の場合は靴を履いたくらいだ。しかも片方だ。脱げないようにせいぜい気をつけろよな」

 よくわからない例え話を聞きながら、崕はもがき続けた。やられっぱなしであることへの腹立たしさはあったが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。

 そんな崕に対して、篁は息継ぎのようにため息をこぼした。

「あのな、少年。世の中はもっと簡単に考えていいんだ。もし困ったら、『お願いします』と『ごめんなさい』を言え。それでなんとかなるものさ」

 篁の腕から強引さが抜けた。

 代わりにぽんぽんとやわらかく触れた手のひらからは、元気づけるような温もりが伝わってきた。

「あと『ありがとう』も大事だよ!」

 篁の言葉に乗っかって、サエが得意げに言う。こちらも「ご褒美だよ」と崕の頭に触れた。サエの手のひらからは、じんわりと優しさが伝わるようだった。

 少年はゆっくりと顔を上げた。

 二人の表情が目に入る。

 心配など必要なかった。

 サエも篁も、笑顔をたたえて崕を待っていた。

 それがたまらなく嬉しくて崕も同じように笑顔を返した。まだまだぎこちなさが残ってはいるが、サエや少女のようにキラキラと輝く笑顔だった。


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