7.

 思い出話をしている間、仁山の顔つきはまるで子どものころに戻ったかのように晴れやかで生き生きとしていた。シワだらけのジャケットがあまりにも似合わないほどだった。

「サンドイッチと温かなココア。それがご馳走のように感じたのです」

 篁は気の利いた言葉で会話を盛り上げるようなことはせず、ただ「ふうん」と声をもらした。しかしそれはうらやましさを含んだ響きに聞こえた。

「実際、『普段は食べられない』という意味では間違いなくご馳走だったのかもしれません。うちはどちらかというと貧しい家庭でしたから、サンドイッチ用のパンとかイチゴジャムなんてものは贅沢品の類いでした。そういうの、今の若い人にはわからないでしょう」

 仁山の問いに篁は「残念ながら」と首を振った。

「さてさて。玉子とハムとイチゴジャム。それぞれはさんだら重ねて、パンが入っていた容器に戻して冷蔵庫へ」

 レシピ本の文面を読み上げるような調子でサエが言う。

「それで一晩おくわけだけど、今日はそんなに待っていられないので――」

「どこかで聞いたセリフだな」

 篁が茶化すが、サエは気にせずに冷蔵庫のドアを開けサンドイッチを中に入れた。扉を閉めて十数える。そして同じものを取り出して顔の高さに掲げた。

「冷蔵庫の中で時間を早送りしてみたよ」

 サエは満面の笑みで言った。

「これを切り分けて、お弁当箱に詰めて……」

「今食べるならわざわざ詰めなくてもいいだろ」

「ダメ。今日の料理はお弁当なことに意味があるんだから!」

「雰囲気が大事だって?」

「そういつも言ってるでしょ」

 サエは口を尖らせる。

 そうしながら仕上げた弁当を、サエは仁山の前に差し出した。

「はい、完成。召し上がれ!」

 テーブルの上、見覚えのある弁当箱が置かれて、仁山はたじろいだ。

 ごくりと唾を飲み、弁当箱のフタを持ち上げる。

 玉子の黄色。ハムときゅうりはうっすらピンクと鮮やかな緑。真っ赤なイチゴジャムは、『甘いものは最後に』と思っていてもつい真っ先に手をのばしたくなるほどに魅力的で。どれから食べようかと顔を近づけると、醤油とニンニク、そして揚げ物らしい香ばしい匂いが鼻先に届く。店などで食べるものとは違って少し濃いめの味つけの、懐かしい母の唐揚げだ。

 仁山は無我夢中で手をのばしていた。

 指先でサンドイッチをつかむ。

 一晩おいたことで幾分かしっとりしたサンドイッチは、重ねてあった分だけフワフワの食感も半減している。その代わり、中の具とパンがよくなじんでいて、一口だけ噛みついても無様にくずれることがなかった。

 玉子は多すぎないマヨネーズの味に玉子の白身のぷりっとした食感。時々、黄身の塊がくずれてホロリと口の中でほどける。

 ハムサンドはきゅうりの青さと歯触りが良い。安物のうすっぺらいハムだとしても、燻製の香りと塩っ気が、寒さで味覚が薄れている身には心地よかった。

 仁山はふと我に返った。

 気づけば、弁当箱を抱えたまま雪の野原に放り出されていた。

 夢などではない。

 肌に刺すような冷たさと、しかし晴れた陽射しの暖かさが防寒着を通して伝わってくる。

 仁山は遠足のその場所にいた。

 青いソリに腰をかけ、弁当箱のサンドイッチに次々と手をのばしていた。

「大人になってもっと美味しい食べ物をたくさん知ったはずなのに。サンドイッチだって、有名なお店のものだって食べたりしました。……それなのに、どうしてこんなに、このサンドイッチは美味しいのでしょう」

 仁山はひとつ、またひとつと口に運びながら目を真っ赤にしていた。

 食事の途中でココアを口にふくませれば、それは玉子やハムの塩気や風味とは少し不似合いなのだが、だがその一口が連れてくる甘さと喉を通るときの焼けるような熱さ、そこから体の奥の方が温かくなっていく感覚が心地よい。鼻の奥、まだカカオの残り香が消えないうちに、仁山は次の一切れを頬張った。

 冷えても美味しいようにと作られたサンドイッチ。

 寒くても食べられるようにと詰められたサンドイッチ。

 もちろん大好物の唐揚げも入っていて、弁当箱の中は母の愛情で満たされていた。

 それはまさしく仁山の全身に染みついた、何ものにも代えがたい唯一無二の味だった。

 一口、一口と食べるうち、仁山はたまらなく惨めな気持ちになった。

「母さん……申し訳ないことをした。先に旅立つなんて親不孝を、私は」

 仁山はついに涙を流しながら、イチゴジャムのサンドイッチを口に放り込んだ。マーガリンの乳臭さとジャムの甘さが口いっぱいに広がった。

 それはまるで仁山自身の複雑な心の内をそのまま表わしているかのようだった。

「仕事もうまくいかず、人生もなんの希望もなく、だから私は自らの手で……」

 泣き崩れた仁山の手からこぼれ落ちそうになった弁当箱とサンドイッチをサエは支えた。そのまま仁山の手も包み込んで、しっかり握って、そして優しい声色で言った。

「いいんだよ。ただね、この味を覚えて行って。この景色を覚えて行って。大丈夫。だって仁山さんのためだけに作られたサンドイッチだもの。これを食べたら雪山だって登れちゃうんだから。だからしっかり食べて行ってね」


 いくつかのメニューの中からサエが選んだのは何の変哲もないサンドイッチだった。

 冷え切ったサンドイッチだった。

 だが仁山はたしかに美味いと思った。

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