33.最後の行軍(後編)
記録簿によれば、沖田が出発したのは約三時間前。
急げば、追いつける。
史実を知っているのだから、このタイミングで沖田の身に重大な何かが起こるわけではないことも、琉菜はもちろん知っていた。
よって、大人しく松本の診療所で待っていることもできた。
だが、頭ではわかっていても、心配な気持ちは募りに募り、琉菜は生きた心地がしなかった。少しでも早く、沖田の無事を確かめたかった。
そんな思いで早駕籠に乗り込んだ琉菜だったが、一つだけ誤算があった。
「すいません、ちょっと止めてください……」
「へい、どうしたんですか」
駕籠かきが不思議そうな顔をして駕籠の中を覗きこんだ。
「ちょっと酔ってしまったみたいで……少し休ませてもらえませんか……」
「それは構わねえですが、まだ内藤新宿にも着いてませんよ?」
「内藤新宿って、全体の何分の一ですか……」
「そんなこといきなり聞かれてもなあ。とにかく、まだ最初の宿場すら着いてねえって言ってんですよ」
琉菜はげっそりとした顔で「そうですか」と呟いた。
思えば、琉菜は駕籠に乗るのは初めてだった。今まで特に乗る用事もなく過ごしてきたから、こんなに嫌な揺れ方をする乗り物だとは思わなかった。車で酔うことはめったになかったので、自分が乗り物酔いするだなんて夢にも思っていなかったのだ。
でも、沖田さんはもっと辛いんだ。駕籠酔いくらいでへこたれてどうするの、あたし。
琉菜は自分にそう言い聞かせながら、内藤新宿まではなんとか頑張った。一休みして、次の宿場・高井戸を目指したが、そこで限界がやってきた。
「もう無理です。下ろしてください。高井戸まで、一緒に歩きましょう」琉菜は言いながら駕籠を下りた。
「ええ!?それじゃああっしらどうすりゃいいんですか」
「だから、一緒に歩きましょう。疲れたらまた乗せてください」
二人の駕籠かきは、こんな注文されたのは初めてだと言わんばかりに、怪訝そうに顔を見合わせた。
実際、この方法は名案だった。歩きと、駕籠乗りを交互に繰り返すことで、疲れすぎず、酔いすぎずで行程を進むことができた。
しかし、結局早駕籠を頼んだのに時間は余計にかかってしまった。そのせいか、沖田や近藤たちの軍に合流できないまま、ついに琉菜たちは府中宿までたどり着いてしまった。ここまで来れば、土方の故郷・日野も近い。
「おっ。お客さん、なんだか賑やかですぜ」
駕籠かきの男に言われ、この時は駕籠に乗っていた琉菜は中から顔を覗かせた。宿場町の中でも一二を争うであろう大きな旅籠の前で、旅装を解きながら案内の順番待ちをしている一団があった。琉菜はその中に見知った顔を見つけた。
「市村さんっ!尾形さんっ!」
琉菜は二人に駆け寄った。
「琉菜さん!?どうしてここに?」市村が目を丸くした。
「沖田先生についていたはずでは?」尾形が心配そうに尋ねた。
「その沖田さんがいなくなったんです」
えっ!?と素っ頓狂な声を上げる二人に琉菜は事情を説明した。
「お二人がそういう反応ってことは、沖田さんと合流できてないんですね」琉菜は絶望的な気持ちになった。どこかですれ違ってしまったのかもしれない。
「琉菜さん、私たちもまっすぐ甲州街道で来たわけじゃないんです。兵を集めながら脇道に逸れたりもしていたので。沖田先生がもし正規の道で行ったのなら、もう日野まで行っているかもしれません」市村が励ますように言った。琉菜はその言葉にわずかな希望を抱き、日野へとさらに進む決意をした。
未来の世では、電車やモノレールに乗って軽々と渡れる多摩川もこの頃は向こう岸へ行くには渡し船が主な交通手段であった。日野へと渡る船着き場で、琉菜は駕籠かきたちと一緒に船を待った。
待っている間、琉菜はぼんやりと出発する船と到着する船を見ていた。
大丈夫、大丈夫。
沖田さんは、まだ死なない。まだまだ大丈夫。こんなところで、力尽きたりしないよ。
絶対絶対、無事だから。
自分を励ますように、心の中でそう言いながら、沖田を想った。
そのせいか、琉菜は幻覚を見た。と思った。
到着した船から降りてきた青年は、まるきり沖田総司その人だった。だが、琉菜が昨日見たような青白い肌、だらりとした髪型ではなかった。血色はよく、総髪の髪をきっちりと縛っている。
「沖田さん……?」
青年は、琉菜に気づくとしーっと人差し指を口に当てた。
ああ、そうだ。
「兄上……!」
あたしは、中富新次郎の妹だ。
「琉菜……!どうしてここに?」
演技とはいえ、初めて「琉菜」だなんて呼ばれた。心臓をどくん、どくんと高鳴らせ、琉菜は駆け寄った。彼の両腕を掴むと、骨ばった感触がした。幻覚ではない。本物の沖田である。だが、その表情は昨日までとは別人のように生き生きとしている。
「どうしてここに!?はこっちのセリフです!なんで、おき、兄上がこんなところにいるんですか!」
「……あはは、近藤先生たちの加勢に行こうと思ってとりあえず日野まで行ったんですけど、追い返されちゃいました」
情けないですねえ、と笑う沖田を琉菜はじっと見つめた。
着物には赤い染み。
返り血ではなく、沖田自身が吐いた血であることはすぐにわかった。
「それで、気は済みましたか?」琉菜は涙を浮かべて沖田を睨んだ。
沖田さんが、こんなに生き生きしてるのは、きっと少しでも行軍に参加できたから。武士として全盛期の活躍をしてた頃に少しだけ戻れたから。
でも、そんなのは火事場の馬鹿力みたいなもので。沖田さんの身体が弱っていることには変わりなくて……
「兄上、失礼します」
「へ?」
琉菜は思いきり沖田の横っ面を張った。
「琉菜……さん?」
沖田は赤くなった頬を押さえながら、不思議そうに琉菜を見た。
「自分の体が、今どんな状態にあるか、知らないはずないですよね!?兄上は今絶対に安静にしてなきゃいけないんです!なのに、こんなところまで来るなんて!」
周りにいた駕籠かきや船頭たちが唖然として見ているのを気にも留めず、琉菜はしゃべり続けた。
「あたしが伏見に行った時、言ってたじゃないですか。気が気じゃなかったって。あたしだって気が気じゃなかったんです。寿命が縮みました」琉菜は静かに、諭すように言った。
「す、すいません……」
沖田がおそるおそる言い終える前に、琉菜は周りの目も気にせず沖田にぎゅっと抱きついた。
「よかった……無事で……」
沖田がゆっくりと琉菜の背中に手を回し、力をこめた。
細く、だが暖かい腕の感触を感じ、琉菜は涙をこらえた。
すでにあたりが暗くなり始めていたため、二人は府中で宿を取ることにした。兄妹という体裁で。
が、琉菜にとってはここで本日二度目の誤算が発生した。空き部屋が少なかったこともあり、兄妹なのだからと、同室をあてがわれたのである。
「えっ」琉菜も沖田も声が裏返る程驚いた。
「ああ、必要なら衝立も持ってきますからね」女中は大したことではない、とでも言わんばかりに言った。
「は、はい!お願いします!」琉菜はとっさに言った。
「えっ、ああ、そうですよね……」沖田が同意した。
「すみませんねえ、最近どうも江戸の方がきな臭いっていうんで、こっちに来る人が増えてるんですよ」
女中は「それじゃあ、お食事お持ちしますから、ごゆっくり」と言って去ってしまった。
いきなり二人きりにされ、気まずい沈黙が流れた。別に二人きりになることなど何度もあったのだから、今更緊張することもないといえばないのだが、琉菜としては
同じ部屋で寝るのは初めてっ……!
というわけである。
「沖田さん、食事ってどのくらいで来るんですかね?それまで暇ですよね。っていうか、食べられそうですか?」
気を紛らわそうと琉菜は矢継ぎ早に話しかけてみた。だが、沖田の方に目をやると、すでに沖田は畳の上にごろんと寝転がり寝息を立てていた。
「うん、疲れましたよね……」
琉菜はふっと息をつくと、布団の用意を始めた。
それから沖田は一度目を覚まし、少しだけ食事を取るとさっさと床についた。琉菜は衝立の反対側で同じく布団に入った。駕籠での旅は健康な琉菜でもどっと疲れが襲う。そう考えれば、沖田の疲労やいかばかりか。
うとうととしていると、沖田が激しくせき込んだ。琉菜はがばっと飛び起きて、衝立の向こうに回り込んで沖田の背中をさすってやった。
「琉菜さん……すみません、こんなんじゃ、あなたが眠れないですよね」
「気にしないでください。あたしの仕事は沖田さんの看病なんですから」琉菜はにっこりと微笑んだ。
「仕事……そうですよね。ありがとうございます」
「あ、別に仕事だから仕方なく、とかそういう意味じゃないですよ?沖田さんのことが心配だからっていうのが大前提だからに決まって……」
「っふふ……ありがとうございます」
あ、結構今の大胆発言だったかも……いや、なんなら昼間も結構大胆行動に大胆発言連発したような……
琉菜はかっと顔を赤らめた。暗がりで沖田には見えないであろうことが幸いだった。
「琉菜さん。衝立、外してもらえませんか」
「えっ」
「そこにね、いるなって、思う方がなんだか安心するんです」
琉菜は再び「えっ」と言葉を詰まらせた。顔はさらに赤くなっているに違いないと思った。
琉菜は心持ち自分の布団を沖田に近づけ、衝立を取り去った。
「ありがとうございます」
目が覚めてしまったが、疲れているからすぐ眠れるだろうという読みは外れた。
隣に沖田がいると思うと、これっぽっちも眠れる気配がなかった。
沖田も、せき込んだせいで眠れなくなってしまったのか、ポツリポツリと話しかけてきた。
「琉菜さん……それにしても、よく私の居所がわかりましたね。未来の知識で、お見通しってわけですか?」
「そんなに細かくわかっていたわけじゃないですよ。でも、沖田さんが甲府に行こうとして引き返すっていうのだけは知ってました。だから、追いかけたんです」
琉菜はぼんやりと天井を見上げながら、「そうだ」とつぶやいた。
「どうして、『中富新次郎』の名前を使ったんですか」
「……実は、賭けてみようと思ったんです。”中富新次郎”っていう名前に反応するような人なら、敵でも味方でも、中富さんの消息か、少なくとも手掛かりを知っている人なんじゃないかって。ほら、例えば源さんの名前を借りたりしたら、敵方の中に源さんが亡くなったのを知っている人がいた時に結局偽名なのがバレますしね」
「じゃあ兄上は、中富さんは、生きてると思うんですか」
「ええ。どこかで、きっと元気に」
「沖田さんは、今でも、兄上の消息を気にかけてくれているんですか」琉菜は、声が震えているのがわかった。必死に押さえつけようとしながら、沖田の言葉を待った。
沖田は懐かしそうに天井を見上げながら「ええ」とつぶやいた。
「私が初めて入隊試験をやって入ってくれたのが中富さんでした。それまでは、入ってくれるなら誰でもいいみたいなところがあったから、いちいち入隊試験なんてやらなかったんですけど。ちょうどあの頃から、ちゃんと選別はした方がいいんじゃないかって話になって。もっとも、名ばかり入隊試験で、よほどのことがない限りはやっぱり誰でも入隊させてたんですけどね」
「えっ、そうだったんですか」琉菜はなんだか拍子抜けしてしまった。
「でも、こうして子孫の方がやってきて、ご先祖の中富さんに会わせてあげられたんですから、入隊させてよかったなって思ってますよ……それだけに、どうして脱走したんだか、聞いてみたいんです。だって、あの人は、そんな人じゃないと思うから」
沖田さん、そんな風に思ってくれてたんだ……。
どうしよう。もう、言っちゃおうか……。
そんな気持ちが琉菜の中でむくむくと大きくなっていった。
すべてを話したら、沖田は驚くだろう。
もしかしたら、一番隊組長の命令として、切腹を言い渡すかもしれない。
そうなれば、もう、仕方がない。今まで何度も拾ってきた命なのだから。ここが年貢の納め時かもしれない。
「沖……」
「ゴホッ、ゴホッ……!」
沖田はまた嫌な咳を繰り返した。
琉菜は再び沖田の背中をさすってやり、「もう、しゃべらないで。寝ましょう」と声をかけた。
「不思議だなあ。咳をするとたいてい眠れないんですが、こうしてもらっていると、すぐに眠れる気がします」
「ほら、だから、しゃべらないでって言ってるじゃないですか。深呼吸してください。すーっ、はーっって」
やがて、呼吸を整えていった沖田はゆっくりと眠りに落ちていった。それを見届けた琉菜は、起こさないようにそっと自分の布団に戻っていった。
ダメだな、あたし。
まだ、まだまだ、沖田さんの傍にいたい。看病して、支えたい。
だからやっぱり、沖田さんには、言えない。
琉菜は、じわりと目頭を濡らした。
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