13.兄上

 その夜、部屋ですっかり眠り込んでいた琉菜は、ドタドタという足音に目を覚ました。


「何の騒ぎ…?」


 障子を開けて外を見ると、目の前を沖田が通りすぎた。


「沖田さん?何かあったんですか?」

「琉菜ちゃん?どないしたん?」隣で寝ていた鈴も目を覚ました。


 沖田は琉菜たちの方に引き返し、神妙な面持ちでこう言った。


「中富さんが、脱走しました。 夜番の八番隊が見つけたようです 」

「えっ…?」


 琉菜は耳を疑った。

 脱走することが何を意味するのか。ついこの前中富本人から聞いたばかりだ。


「じゃあ、兄上は…切腹…ですか?」

「残念ですが…。ただ、見つけただけで中富さんはすぐ走り去ってしまったようですからぐとりあえず今のところは起きてる人を総動員して探してます。でも、なんで脱走なんか…」

「沖田先生!」


 八番隊の隊士がやってきた。


「これが、中富の荷物に」

「文、ですね。」


 沖田は手紙を広げた。


「『ご厚情賜りし近藤先生、土方先生、沖田先生、新選組の皆々様へ』…これは近藤先生と土方さんにも見せなきゃ」


 沖田は手紙を持ってきた隊士を見た。


「ありがとうございます。あなたも捜索に加わってください」

「わかりました」


 隊士は踵を返して外に向かった。

 沖田は琉菜の方を見た。


「これから近藤先生と土方さんにこのことを伝えて、文を読んでもらいます。あなたも来ますか?」


 琉菜は力強く頷いた。


 局長室に行くと、すでに話が耳に入っていたらしく、近藤と土方が眉間にしわを寄せて何か話していた。


「総司。中富くんは?」

「わかりません。ただ、文がありました」


 沖田は手に持っていた手紙を近藤と土方に差し出した。


「どうでもいいが、なんでそいつまでいるんだよ」土方が琉菜を指差した。

「そりゃあ、中富さんの妹…もとい、子孫の方ですから」沖田があっけらかんとして言った。


 土方は「そうかい」と言うと、火がついていなかった行燈に火をつけた。

 近藤が手紙を開け、読み上げた。


 内容は、現代語で言えば、こうだった。


 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 お世話になった近藤局長、土方副長、沖田先生、新選組のみなさんへ


 突然ですが、私は今日新選組を脱けさせていただきます。

 理由はあります。新選組が嫌いになったわけではありません。

 むしろ新選組は私の人生の中で大きな意味を持っています。

 しかし、どうしても生きて新選組をぬけなければいけないのです。

 私はもう武士ではいられません。というより、もともと私は武士などではありませんでした。

 本当に申し訳ありません。

 でも、新選組の一員として、みなさんと働けたのは本当に嬉しかったし、誇りに思います。

 私は絶対に追っ手に見付からない自信があります。だから腹を切るつもりはありません。

 そのかわりといってはなんですが、切腹した仲間への謝罪や、お世話になったみなさんへの感謝の気持ちを込めて今回手紙を書きました。

 こんな形になってしまいすみません。

 武士はやめるけど、新選組は大好きです。

 刀は捨てますが、隊服だけは、少しの間でも新選組隊士だったという証として手元においておきたいなと思います。我が儘をお許しください。

 言いたかったことは以上です。

 今まで本当にありがとうございました。

 みなさんはこれからも元気に隊務に励んでください。


 中富新次郎

 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「もともと武士ではなかった…?確か、中富くんは商家か何かの息子だったか」近藤が言った。「しかし、今さらなぜそんなことを」

「そんなことより、よほど逃げ足に自信があるらしいな」土方はにやりと笑った。

「切腹にならない自信があるって、どういう意味なんでしょうか…」琉菜が言った。

「で、どうします?土方さん」沖田は少し楽しそうだった。

「面白え。今すぐ探すぞ。朝まで待ってたら、逃げ切っちまう。そしたらあいつの思う壺だ。総司、お前はあいつが行きそうなところをあたれ。他のやつらは引き続き市中探索。あとは永倉あたり叩き起こして監察に知らせさせろ」

「承知」

「沖田さん…」琉菜はおそるおそる声をかけた。

「あたしも、一緒に行っていいですか?」

「お前はおとなしくここにいろ」土方が口を挟んだ。

「でも、兄上は、あたしのご先祖様なんですよ!会ってちゃんと話を聞かなきゃ、納得できません!」


 琉菜は真剣な面持ちで土方を見つめた。

 土方はため息をついた。


「まったく、しょうがねえやつだな。総司、連れてってやれ」

「承知」


 暗い夜道を、琉菜は沖田と二人で歩いていた。


 兄上、お願い

 逃げ切ってください…


 もし、切腹になったら?


「中富さんに、逃げ切ってほしいですか?」


 琉菜の考えを見透かしたように、沖田が言った。


「…はい。すいません、でも今あたしたち、兄上を捕まえに行こうとしてるんですよね」

「ええ。でも、いいんじゃないですか?琉菜さんは正直に、そう願っていても」


 ありがとうございます、と言って琉菜は黙り込んだ。


 兄上は、あたしのご先祖。

 そうだよ、もし、死んじゃったら、あたしも、たぶん、お父さんかお母さんも、生まれなくなるかもしれない。


 琉菜はぞっとした。


 会いたい、兄上に。ちゃんと話したい。

 でも、それはイコール切腹なわけで。


 だったら、お願い、逃げ切って!


 琉菜と沖田は深夜に失礼します、と言いながら、中富が行きそうな場所を何件かあたった。しかし、有力な情報は得られなかった。


 中富の発見を半ばあきらめかけ、屯所の方向に歩きながら、沖田はのんびりと言った。


「沖田さん、他に心あたりないんですか?次はどこへ行けば…」

「うーん、お散歩でもしますか」

「へ?」

「土方さんには内緒ですよ」

「沖田さん、兄上を探す気あるんですか?」


 沖田は琉菜の言葉が聞こえなかったのか、何も言わずに方向を変えて歩き出してしまった。


 そっか、たぶん、沖田さんは兄上を見つけたくないんだ。

 見つけたら、連れ帰って切腹になるのはわかりきってるから。


 琉菜は笑みをもらした。


 兄上にもう会えないのは寂しいけど、どこかで元気に生きていてくれるなら、その方がマシだよね。


 …ほんとに、もう、会えないんだ。

 こんなに急に、いなくなっちゃうなんて。

 お礼くらい、言いたかった。

 あたしのために、兄妹のふりをしてくれて。気遣ってくれて。

 なのにもう、二度と会えないなんて…


 そう思うと、涙が溢れてきた。

 すぐに沖田が気づき、驚いたように言った。


「ちょっと、琉菜さん、どうしたんですか」

「すいません、兄上にもう会えないかと思うと…」


 それだけ言って言葉をつまらせた琉菜の頭を、沖田が優しくなでた。


 結局、八番隊や他の隊士の懸命な捜索が行われたにも関わらず、中富の姿は発見されないまま朝になった。


 琉菜と沖田も、朝一番に近藤と土方に報告した。


「本当に見つからなかったみたいだな」土方は他の隊士から聞いたという内容を淡々と述べた。

「総司、琉菜さんも、ご苦労だったな。今日からは市中見回りの隊に、中富の捜索も命じた。が、一晩経っているし、難しいだろうな…」近藤が苦々しい顔で言った。


 実際、数日経っても中富は捕まらなかった。

 新選組の探索能力は非常に高く、今まで脱走隊士が無事に逃げ切れたことは皆無だったが、中富はついに新選組から逃げおおせたのだった。

 しばらくは、中富の脱走話はまるで英雄物語のように隊内で噂になった。


「あの鬼副長が、悔しそうな顔してるのを見たか?」

「やってくれるよな、中富も。俺はあいつの足の速さは前々からすごいと思ってたんだよ」


 その一方で、琉菜は寂しさにため息をつきながら、中富の手紙を読み返していた。これはお前が持ってろ、と土方からもらったのだ。

 壬生寺の境内の石段に座っていたので誰も来るまいと思っていたのだが、ふと気づくと目の前に沖田が立っていた。


「もうすぐ子供たちが遊びに来ますよ。うかない顔してたら心配かけちゃうじゃないですか」沖田はいたずらっぽく微笑んで琉菜の隣に座った。

「すいません。あの、沖田さん」

「何ですか?」

「『もともと武士じゃなかった』って、どういうことなんですかね。なんか、単に商人の出身だからって意味じゃない気がするんです。勘、ですけど」

「そうですね。商人出身の隊士で結構自分の出自を気にしてる人はいますけど、中富さんは全然そんなそぶりを見せてなかったですし…」


 琉菜は手紙に目を落とした。新選組を抜ける理由など、手紙を読んでも謎が増えるばかりだ。


「でも、少なくともあの人は新選組にいる間、確かに武士でしたよ」


 沖田は、力強くそう言った。

 それを聞いて琉菜は、なんだか自分のことのように嬉しかった。

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