唐紅に燃ゆる初指南の夜
あやぺん
大陸中央、岩窟に築かれしベルセルグ皇国。
しかし、私の世界は狭い。そのような、壮大で美しき光景を未だ知らない。華族の娘に生まれると、政略結婚の道具として蝶よ花よと育てられるからである。移動を許されるのは、領地内か皇居城下街のみ。それも十歳まで。
我が国では、華族の娘は十歳を迎えると
手習い、文学、料理、茶道、華道、雅楽、和歌、古典、香道、舞踏、碁、将棋とあらゆる教養を身に付ける。
その結果、どうなるかというと、顔も知らぬ男に嫁ぎ、似たような生活を送る。教養が無ければ嫁げない一族の恥晒し。家柄に相応しければ、死ぬまで幸福だという。母のように。
「貴女は妃がねにもなれる娘。誰よりも幸福となれるわ」
とは、母の口癖である。幸せとはなんたるか。それが、私には分からない。平穏無事に、豊かなまま、死を待つ。何ともつまらない人生ではないだろうか? 紅葉草子のような、惚れた相手と燃え上がるような恋をして、短くも眩しく生きてみたいなどと、そんなことを考えている。
「そうか、そうか。紅葉草子とは、年頃の華族の娘は愛くるしいから、皆好む」
将棋の次の手を考えもせず、慣れぬ酒にほんのりと酔って、つい
初指南の夜に何て話を……。恥ずかしさで私は扇子で顔を隠した。十八となり、いよいよ縁談。その前に、父親の上官に教養の確認をされ、嫁ぐ為の手ほどきも受ける。そういう通過儀礼の夜。なのに、恋愛をしたいですなんて口が滑った。
しかも相手は、皇子。
華族の娘の花形妃がね。皇族の妃候補。秋の稲穂祭宴にて、祈りの舞を披露出来た私は一族の期待通りにその地位を得た。嫁ぐ前に、
「口が過ぎました……申し訳ありません……」
「よい。言っただろう? 愛くるしいと。それにそのような表情も見せた方がよい」
扇子をそっと奪われた。微笑ましいというような、柔らかな笑み。
羞恥に固まりそうで、なるべく見ないようにしていたのに、目が合ってしまい、呼吸しづらい。
皇子の器に酒が無いなと、私は
もしかしたら、この皇子に見初められるかもしれない。胸が弾け飛びそうだ。仮に見初められなくても、余程の粗相がなければ、私の婚姻に名だたる貴族の
「気が利くな。それに、よく学んでいる。所作も髪も美しい。送られた和歌は
こうやって、何かするたびに褒めて貰っている。
「あ、あ、あの……有難う御座います皇子様……」
朝から侍女達が念入りに洗い、皇子が好むという
「紅葉草子を好むなら、琴で唐紅の唄を弾いてはくれぬか? あの旋律は落ち着く」
黒曜石のような、宝石のような、黒い瞳に射抜かれると「はい」としか返事が出来ない。
「はい。あの、私は歌も得意です」
「そうか。耳触りの良い声だからな。頼む」
将棋盤を片し、琴の方へと移動した。皇子はゆっくりと酒を飲んでいる。一口飲んで、ほうっと息を吐く。それだけなのに、何とも言えない空気感を発している。それにしても、よく飲む。酒豪だと聞いていたので、かなりの酒瓶を用意したが、もうほぼ無い。夕方から始まり、もう日付も変わりそうな月明かりが窓からさしている。なのに未だに髪を触れられる以外には何もない。侍女達からはもっと短いと聞いていた。
「ふむ。自画自賛するだけあるな。綺麗な歌声だ」
心地良いというように、皇子は微笑をたたえて窓の外を眺めていた。褒められる度に、胸が締め付けられる。
紅葉草子。簡単に言えば、身分格差のある男女の駆け落ち物語。燃え上がるような恋を、儚い紅葉に見立てた話。華族の娘は恋に憧れている。
「得意というのは本当だな」
流し目で、笑顔を向けられて、手元が狂いそうになった。私の顔を見ようと、住まいを覗きにくる
「木枯らしの唄は弾けるか?」
「はい」
少し目を
「愛する男と手を取り合い、短くも幸福に酔いしれる。紅葉草子は本当にウブな娘達が好む話だ」
「お嫌いですか?」
「あれは愛らしい乙女が楽しむもの。しかし、楽曲は好ましい」
好きではない、嫌いとは言わない。それどころか、あのような書が読めるとは学があるな、そういう褒めるような視線と笑顔をくれた。朱色の器に注がれた透明な酒。そこに、窓の向こうの三日月が揺らめく。皇子はジッとその月を眺めている。品の良い姿をこのまま、ずっと見ていたい。
「では流星の祈り唄はどうでしょうか?」
「流星ね……。祈りを残して儚く消えるなど……」
独り言のようで、皇子の声は小さく、聞き取れなかった。
「岩窟龍王の話は知っているか?」
「はい、もちろんでございます。我が国の始祖にまつわる神話です。では朧薄月夜と龍王の調べを弾かせていただきます」
「私の心を読むとは、ありがとう」
皇子が私に酒の器をかざしてから、一気に酒を
第三皇子のお手付きは、後宮入りは出来ぬとも高名貴族へ嫁ぐと噂されている。噂というより、最早真実。後宮には何人もの妃がいるが、全て第一皇子と第二皇子の妃。私を皇族の妃にと望む父は不満そうだったが、最終的には既に正妃がいる皇族に嫁ぐよりも高名貴族の正妃の方が価値があると判断してくれた。他の貴族は一夫一妻制。私もその方が良い。万が一、何てないのだろうか? 今夜見初めて貰い後宮に入内。それこそ夢だ。それにしても第三皇子はあまりにも魅力的すぎる。
「良い調だ。名手だな。カドゥルの龍唄も頼む」
「はい」
本日、もう何度褒められたか。第三皇子は噂通り格好良く、優しく、そして何と風雅なのだろう。
戦に出れば先陣をきり、返り血で全身を紅に染めているという。皇居では我が物顔。軍も家臣も後宮も持たない孤高貫く不可思議な皇子。そのような風の噂と、華族の娘にはとても優しく素晴らしい一夜をくれるという身近な噂。男と女では、昼と夜では、別の顔を持っているのか、それとも皇居の噂は嘘なのか。きっと嘘だろう。やっかみであらぬ噂を立てられるのは良くあることだと、父がよくボヤいている。
「紅葉草子……短くも眩しくか……困った物語だな……」
また独り言。皇子は紅葉草子がかなり気に入らないようだ。儚げで、うら寂しい姿に胸が痛む。もしも隣に寄り添えば、癒してあげられるのだろうか。
「先程からそのような熱視線、私と生きてみるか? 地獄の底で何も得られない。しかし、数度の極上は教えてやれる」
琴と歌に集中していたら、いつの間にか目の前に皇子がいた。大きく骨ばった掌が、私の頬を包んだ。そう思ったら、頬を指でなぞられた。思わず身をよじる。そろそろなのか?春画では学んだが、本当にあんなことをこれからするのだろうか?
私と生きてみるか?
これは第三皇子初の妃という地位を得る好機なのだろうか? 急に緊張を思い出した。熱視線と言われたが、自覚などない。むしろ、焼け焦げそうな熱い視線が私に向けられている。
「じ、地獄の底とは、どういうことでしょう?」
「噂は聞いているだろう? 帝位継承権は放棄。職務も怠慢。地位による
首筋を指でなぞられ、私は肩を
「しかし、このようにお優しいです。先陣をきっているとも聞いております。お国のためで御座いますよね?華族の娘達にも優しいと聞いておりまし……」
正解。そういうように皇子が私の頬に唇をつけた。
「そういう見方を忘れるな。短くも眩しいとは夢で見るもの。過酷な昼を照らす、太陽のように長く生きよ。そなたはそのように育てられた」
耳元で
心の中に火がついた。
そう感じた。
瞬間、皇子の体が私から離れた。
「今宵限り。身悶えし、焦がれても、俺は手に入らん。手に入れても、明日には
おいで、というように手招きされた。迷ったが、拒否権などない。皇子の機嫌を損ねてはならないし、何より抗いがたい。皇子の腕に包まれてみたい。
「父は勤勉で家をしかと庇護しております。母は家を守り、私もこのように育てあげてくれました。しかし……」
仲が良いのは上辺だけ。互いに通う相手がいる。戸惑っていると、また手招きされた。私は意を決して、誘われるまま胡座をかいている皇子の膝上に横抱きにされた。ゆったりとした衣装なので気づかなかったが、逞しい腕。
「しかし?」
「しかし、恋をしてみたいと思ってしまうのです……」
貴方と。そこまでは言えなかった。皇子は今二十八歳だったはず。初指南の指名は多く、他にもお手付きは多いと聞いている。しかも、ほぼ一度きりのみらしい。気が向けば、数度あるとかないとか。一人妃を選んだら、それでは終わらないだろう。つまり、この腕は私だけのものにはならない。胸が
「一人に決めろ? そう言いたげだな。少々小生意気なのは好ましい。しかし誰も付き合わせん……」
私の髪を撫でながら、遠くを見ていた皇子が、いきなり私の唇を奪った。顔が一気に近寄ったと思ったのに、そっと口付けされた。背中をなぞられて、思わず口が開いたら、舌が入ってきた。口の中を這う舌にも、首筋を這う指にも全身がぞわぞわする。息が苦しいと思うと、顔の角度が変わり、引かれて残念などと恥ずかしい思考が
胸が爆発しそうで、体を動かそうとしたが、動けない。髪から指先まで痺れたように感じる。
頭がぼうっとした頃に、キスが止まった。皇子が私を腕に抱いたまま立ち上がった。
「明日、屍となる男の妃となるか? 屍に操を立てて、一生他の男を知らぬまま生き続ける。人目を盗めば溺れることも可能だが、見つかれば一族郎党滅する」
薄い灯に揺れる黒い瞳が、無理だろう? そう訴えている。皇子の正妃や側室は、子孫繁栄を担う。後宮という監視下で、決して皇子以外の手付きになるなど許されない。伴侶が死ねば、出家。操を立て続ける人生。逆は違うのに、女には許されない。貴族に嫁げば、そのような縛りはない。
自分はすぐに死ぬ身。連れ添うことは叶わない。死ぬまで一人。そう言わんばかり。地獄の底とは、そのような未来の例えなのだろうか?
「何故先陣に立つのですか? 他の皇族の方々は後方にいらっしゃるか……戦場には出ません……」
「ふはははは。我が矜持を、対価も無く止めようとは
「いえ……あの……御身を大事になさって欲しいということです……」
皇子が足を止めてしげしげと私を眺めた。
「飲み過ぎたな……。踏み間違えそうになる」
心配です。どうか戦になど行かないで欲しいと頼めば止まるのだろうか? しかし、理由が必要らしい。
「対価とは何が必要でしょうか?」
「ここまで尋ねてくる娘も珍しい。そのように吠え続けよ。良い目にその吠え方は、武器となる。季節柄、そして月の形。それに飲み過ぎてつい気が緩んだ。すまなかったな」
質問に答えてもらえないということは、やんわりとした拒否だ。
すまない? 隣室に運ばれながら、私は皇子の首にそろそろと手を回した。怒られはしなかった。皇子は私対して、心が和むというように見てくれている。許されるなら、ギュッと抱きつきたい。
「不思議なのです。皇族の地位を最大限利用して気楽に生きるのならば、戦場にも行かぬかと……」
「酔ったついでだ。皇族とは国の守護者。最も力がある者が前に立たねば矜持が折れる。このような小さな国など眼中にない。ある程度整備させたら去る」
私は目を丸めた。とんでもない秘密を聞かされた。私の驚きを無視して、皇子は私の寝間着の紐に手を掛けた。そのまま布団に降ろされる。覆い被さられて、サラサラとした髪が私の頬をくすぐった。残念なことに、父が私を見るような、子供を見守るような視線だった。
「分かりやすくて、可愛らしいな。望むようにしてやる」
皇子の目付きが少し変わった。親のような目ではない。これが男の人の視線。心の中を見透かされている。気恥ずかしくて、顔を手で隠した。皇子の大きな手が、そっと私の手を顔から外させた。額にキスが落ちてきた。
「あ、あの……去るだなんて……そのような話……私のような……」
「誰に語る? そして誰が信じる? そして愛くるしいこの唇なら隠してくれると信頼寄せた。それを裏切るか? 因縁因果と言ってな、信頼は裏切るな」
鋭い眼光に、心臓が止まるかと思った。もう、完全に親のような目ではない。恥ずかしくて顔を背けたいのに、艶やかな視線に絡め取られて動けない。
「必ず去るのですか?」
返事は無かった。代わりに耳に唇が触れた。私は肩を竦めて、小さく首を横に振った。
「ついて……ついていきますと……そう申したら……」
「平穏も安寧もない、この世で最も不幸な女になりたいか? このようなか弱い娘、決して連れて行かぬ。ひたすら帰宅を待つ身。それに、手を付けてもすぐ飽きる。なので帰宅もせぬかもな」
拒絶しか伝わってこない。なんて悲しい瞳をしているのだろう。我慢しないとならないと、歯を食いしばったが、私の頬に涙が流れた。皇子の寄る辺なさに胸が痛む。
「ならば……ならば要りません。今宵限りならば……一度きりならばお止め下さい」
皇子に何て事を口走ってしまったのだろうと、私は口を両手で塞いだ。
「ついてくるなど口にしても何の真実味もない。そなたのような娘に何が出来る? それなのに俺を縛りたいなど
言葉とは裏腹に、皇子は私の額に優しい口付けをしてくれた。それから、驚いたことに首に噛み付かれた。茫然としていると、皇子が立ち上がって、乱れている自分の衣服を整えた。
「まあ、俺の未熟さ故だ。悪かったな。美麗な琴と唄に免じて許そう。一歩間違うと屋敷ごと滅んでいた。天命持って生まれたのならば、思慮を学べ。不自由の中に自ら自由を見つけよ。足るを知れ。良い目を持っているのだからな」
皇子が私の頭を優しく撫でた。それからスッと立ち上がり、颯爽と部屋から立ち去った。
一歩間違うと屋敷ごと滅んでいた。その通りなので私は震えた。皇子に向かって、それもこちらから頼んだということになっているのに、断った。本来ならば一族郎党打ち首でもおかしくない。
震える体を必死に起こして、何とか立ち上がった。噛まれた首がズキズキする。ここまで明らかなら誰が見ても分かる。皇子は私に手を付けたと。つまり、これは私に対する慈悲だ。触れるなと言われているのに、ズカズカと踏み込んで、畏れ多いことまで言ったのに。自分のあしらいが悪かったと詫びて、笑って許してくれた。
「お、お待ちください!」
はしたないけれど、私は廊下の角を曲がろうとする皇子に向かって大声で叫んでいた。
「つ、ついて行けるようになれば良いでしょうか?」
欲しい。欲しい。この皇子が欲しい。隣にいて、先程のような寂しそうな姿を消したい。拒絶ではなく、そなただけは特別だという目を向けて欲しい。胸の奥から、衝動が突き上げている。
皇子は足を止めて、こちらを振り返っていた。断固拒否、近寄るなという空気。それに冷ややかな視線と無表情。けれども私は覚束ない足取りで近寄った。ここで引いたら手に入らない。
「皇居の女房となります。今までのような教養ではなく、政治など学びます。身を守る術も……それならば……」
可能性がある限りは諦めたくない。燃えて灰になりたいくらい、求めている。寄り添い、認められれば、短くも輝かんばかりに生きられる。共に地獄に堕ちたい。
「そんなに地獄や砂漠で生きたいのか?」
「はい……。共に血に塗れ、共に朽ち果てて構いません……命短し……ならば閃光のように……」
口にした瞬間。皇子の黒く深い瞳に
「やはり酔っているな……。つい口が滑った。しかし有り難いことに君にとって最善手だった」
皇子が私に近寄ってきて、優しく抱きしめられた。次の瞬間、両手の手首を掴まれ、壁に押し付けられた。激しいキスに目眩がする。抱き竦められて身動き出来ない。
「俺はお前のような女が虫唾が走る程嫌いだ。悪かった。きちんと教えてやるから、そういう目をしてくれるな……」
そういう目?
その場で慣れた手付きで服を脱がされた。あまりにも素早くて、恥ずかしがる隙もない。半分脱がされて、誰にも触られたことが無いところに指が這う。抱き上げられて、あちこちを弄られながら部屋へと連れていかれた。
「しかし本当に酔ったな……。命短し。されど尊い。眩く生きよ。忘れるな」
耳に吐きかかる息だけでも、気持ちが良かった。布団の上で、押し寄せる快楽に壊れそうだと、声を抑えたいのに喘いだ。初めては痛い。侍女にそう教えられていたのに、今のところはまだ痛みなどない。まだ、触られているだけだからだろう。もう教えるようなキスでは無い。侍女とでも遊んで帰るか、そう口にしたように単に遊ばれている。反応を確認するように、緩急付けられ、見下ろされている。まるで獣のような眼光。
「どういう……。どういうことです? ならばそれこそ先陣になど……」
上半身の衣服をはだけた皇子の、あまりの筋肉質な体に目を奪われた。サラシが巻かれているので腹筋は見えないが、恐らく割れているだろう。全身から発する、堂々たる風格。帝位継承権を放棄しても、なお次期皇帝にと支持を受けているというのも頷ける。
しかし、去るという。だから帝位継承権を捨てたのかと思い至った。国を出て、何をするつもりなのか? 聞けば良かった。少しずつ近寄れば、拒絶されなかったかもしれない。
「そこまで俺が欲しいなら覚悟がいる。初指南など生娘に少々可愛い思い出を与える遊びなのだが……。要らぬというので、覚悟を見せてもらおう」
怖い。怖い。怖い。
これが皇子の中身。
私は甘い姿という幻想に恋を錯覚しただけだ。正確には皇子が夢を見させてくれていた。
途端に、皇子は優しい微笑を浮かべた。それから、最初と同じような柔らかなキス。
「素直でよろしい。覚悟が無いのに器以上に求めるな。遊ぶか俺から本気で学ぶかだと、前者が身の丈。久々に心地良い旋律を聴かされたので、拒絶を許そう。健気で愛くるしく愉快。他の男となら果報者になれる」
射抜かれるような
私はそれでもそろそろと皇子の頬に手を伸ばした。優しい目がどうする? と問いかけてくる。この世にどのような男がいるのか知らないが、本能が叫んでいる。この皇子のような男性は、どこにもいない。
「ありがとう……ございます……。せめて今のまま……おね……お願い……し……」
答えは分かっている。そういう視線の後に、私は甘い甘いキスを受けた。口の中に入ってくる舌も、手つきも、目も何もかも優しくて温かい。触れられているところが熱を帯び、噛まれた首なんて
こういう時はこうするんだよ、そういうように導かれる。髪を撫でる手つきも、壊れないようにそっと、そっと、優しい。
酔ったせいだと思えと、口移しで酒を飲まされ、ボンヤリした私は何もかも成すがままだった。いつの間にか、一糸
確かに温もりを感じるのに、遠い。手に入っている筈なのに、
貫かれるのは、想像よりも痛くなかった。侍女は激痛だと言っていたのに、むしろ快感の方が強い。外に出ないで、ずっと中にいて欲しい。止めないで欲しい。そう叫びたくなるほど、背中に回した手が爪を立ててしまうほど、あまりにも快感。
そんなの無理だと言いたいのに、上にと言われれば素直に従い、動けと言われれば動いた。他も、何もかも、掌の上。こんな
まさに酔った。
朝の匂いがするまで酔いしれていたが、いつの間にか私は寝ていた。
夢をみた。満開の紅葉に感涙し、共に愛でようにも隣には誰もいない。落葉が始まり、ひらひら、ひらひらと木の葉が舞う。待てども待てども誰も来ない。枯れ木となっても、一人……。冬が白い落し物をふわふわと贈ってくれて、一面の銀世界が煌めいても、私は一人。春は来ず、また紅葉が舞う。
ひらひら、ひらひら……。
気怠い身体を起こすと、もう窓から夕暮れの光が差し込んでいた。かなり寝ていた気がする。
唐紅に染まる部屋に、一人。
私の衣装は綺麗に畳まれ、その上に
【松の葉に陽は移りぬ紅葉の過ぐるや君が逢はぬ夜の多き】
古典和歌だが、少し違う。
本来ならば陽ではなく月。松の葉に月がかかるまでに時間が過ぎて、貴女に逢えない夜が多くなりました。そういう失恋の歌。
月がなぜ陽なのか。月の話などしなかった。しかし、過酷な昼を照らす太陽、そういうことを言っていた。黄葉ではく紅葉なのは紅葉草子をかけてくれたのだろう。紅葉草子は連れ添うことが叶わなかった、悲恋の物語。
初恋が
貴方に会えない夜が多くなっても、時間が過ぎても移らずに太陽である貴方を待っている。そんな風にも解釈出来る。
太陽である貴女を待っている。誘惑的で、陶酔しそうな響き。素直に喜べれば良かったが、自分に向けられたとは思えなかった。あの寂しげな様子は、失った誰かへの悲哀。そんな風に感じて、
それでも待っている。私は待ち続ける。紅葉のように燃えるような唐紅の想い。そう伝えたら、皇子はどんな表情をするのだろうか。知りたいが、強く撥ね付けられるだけだと思った。幼くて世間知らずな私では、何もかもが皇子の心には手が届かない。指先さえも、触れられなかった。皇子に必要なのは、彼の心を揺さぶるのは、きっと言葉ではないのだろう。
それが私の唐紅の初恋。一夜の夢。恋人なのではないかと感じてしまう程に甘いのに、はっきりと線引きされて突き放された。なので清々しいほど、未練は無かった。むしろ「生娘に少々可愛い思い出を与える遊び」と言われたそのまま。残された歌の心地良さ。そもそも単なる風習なのに、ここまでしてもらったことに驚く。過剰な程に優しかった。
侍女達に尋ねられて話をすると、そんな初指南は滅多にない。滅多にというより、皆無。そう羨ましがられた。中々消えない風習で、傷つく娘も多い。初指南前にはとても言えない、隠されている事実の数々。それが何か知らないし、知りたくもない。
私は幸運だった。侍女達がそう言って羨望を向けてくれる。自分でもそう感じる。私は自らの生い立ちや、境遇の有り難みを心底感じた。
華族の娘を持つ貴族がこぞって第三皇子を指名する理由。上手くいけば、皇帝へとの声が高い皇族の妃。気に入られなくても、残るのは幸福の方が強い思い出。噂通りだった。それどころか拒絶をしても、許してくれた。当然のように、私も親戚の娘にやんわりと伝えた。妃がねになれたら、第三皇子を望むと良いと。
それとなしに調べると、
半年後、私は第二皇子側近筆頭の貴族との婚姻が決まった。第三皇子が忠義を尽くす第二皇子。現在、最も安定している皇居への
住まいが皇居内となって知った。第三皇子の昼の姿。好き嫌い激しく、気に入らなければ蹴る殴る。それだけならまだしも、時に殺す。機嫌を損ねると、些細な事なのに皇居から追いだす。後から見つかる関連者の
戦となれば先陣をきり、無敗神話を築く近隣諸国最強の兵士。一度、頭から爪先まで血塗れの皇子が皇居に戻ってくるのを見た。威風凛々とした姿に、恐ろしいまでに鋭く冷たい眼光。湯浴みに帯同した侍女によれば、それ程の返り血なのに、皇子の体には傷一つなかったという。だからこそ、皇居内では、いや国内では誰も皇子に逆らわない。
第三皇子とは同じ皇居で暮らしているので数度見かけた事があるが、まるで別人のように横柄で、凶悪に感じた。目が合った時も、あの夜のように優しく微笑みかけてはくれない。冷ややかな無表情だった。しかし、初指南の甘い夜は確かにあった。机の引き出しに大事にしまってある
「はあ……。あんなに恐ろしいというのに、まるで別人で昨晩は抗えませんでした。遠目で見ていても、昂然とした姿にあの容姿。近くで気絶してしまうかと思いました。それに……ふふっ……」
皇居内の侍女は、かなりの人数が第三皇子の手付き。とんでもない女癖の悪さ。どうりで手慣れている筈だ。頬を赤らめる侍女に私は苦笑いした。第三皇子のお手付きは、皇居内では一種のステータス。容姿はあまり関係ないという。何かしらの教養が琴線に触れないと、手を出してもらえないと専らの噂。私の侍女は日々屋敷を飾っている花を褒められたという。彼女の華道の素晴らしさが噂となって、良い縁談が来るだろう。
「あらあら、そんな顔をして。まあ、良い縁談があるでしょうし、良かったですね。皇子様、隣国に婿入りさせられるそうです。それで停戦するとか……」
――天命持って生まれたのならば、不自由の中に自由を見つけよ。足るを知れ
皇子の言葉が蘇る。彼の不自由と自由は何なのだろうか。少なくとも女に関しては自由奔放だ。
「隣国とはあの毒蛇の巣のことですか? お相手はこの世で最も醜い姫だとか。あの方が、そんな姫と……。勿体無いですが、これで皇居内が血で汚れることも、戦も無くなりますね」
婿入りさせられる。そうだろうか?
去る。そう言っていた。
狭い世界では知らなかったが、生まれ落ちて数年の時に内乱が起こりかけたという。血みどろの革命にならずにおさまったのは、帝位継承権を放棄した者がいたから。第二皇子が優秀なのに、帝位継承争いが起こらないのは、皇族分裂を止める者がいるから。侵略戦争となれば無敗の兵士が敵を追い払う。国は平和で豊かになっている。誰とは言わない。言えない。
昼と夜。現実と噂。あまりにも
私は何となしに、筆を取った。
【君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな】
貴方のためならば惜しくないと思っていた命なのに、こうして結ばれた今では長くありたいと思うようになりました。
「旦那様へこれを。先日、風邪をうつされても良いと看病しましたもの。だから旦那様の胸に響くと思うわ」
足るを知れ。縁あって結ばれたから誠心誠意尽くす。この半年、そういう気持ちで生活してきた。それが伝わっているのか旦那様はとても優しい。ほんのり温まるこの気持ちは、恋と呼べるかもしれない。
本当に歌を送りたい相手には届かない。あの夜、この古典和歌を思い出していたら、何か違っていたかもしれない。命は短いが尊い。そう言っていた。もう遠い。恐ろしすぎて近寄る事が出来ないのは、やはり私に皇子の何もかもを受け入れる覚悟がないからだろう。それをあの晩、見抜かれていた。
裏切るなと教わったので、夫がいる今の状態で、皇子に和歌を送り、最後に「ありがとうございます。どうか貴方に幸福を」と結びたくてもそれすら
「紅葉草子よりも、妃様の方が羨ましいですわ。日に日に仲睦まじくなっていって。お子が生まれたら更に幸福になりましょう」
「ええ。お優しい旦那様のお陰です。旦那様に羨ましいとそれとなく伝えてくれる? きっと鼻高々になって、今以上に私を愛でてくれるわ」
侍女が肩を揺らして笑う。私も同じように笑っただろう。
足るを知れ。
満足することを知っている者は、心豊かに生きることができる。無いものを求めるよりも、あるものに感謝なさい。
過酷な昼を照らす、太陽のように生きよ。そなたはそのように育てられた。
貴女は誰かを照らせるような女性に育っている。そう、評してもらったのだろう。
生涯忘れられない程に、燃え上がり、一瞬で砕けた恋だった。あの晩、何と口にすれば、どういう態度を取れば心通じたのか? その先に、今のような安らぐ時はあったのか?過ぎ去った日々には、決して戻れない。あり得なかった世界を知ることも叶わない。
身体にだけではなく、むしろ心に手ほどきをというように置いていかれた言葉の数々。最後の拒絶も、皇子の真心な気がしてならない。
庭の向こうに、皇子の姿が見えた。一目で分かる、
皇子がこちらを向いたようも見えたが、木枯らしが庭に唐紅の霧を作り、表情は分からなかった。
幻のように皇子は消えていた。
木の枝に、
それからまもなく皇子は隣国に婿入り。岩窟ベルセルグ皇国から去っていった。
唐紅に燃ゆる初指南の夜 あやぺん @crowdear32
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