#90 Sasa

 廊下に横たえる清川はうつぶせになったまま動く気配がなかった。見ると手の甲には錐のような物が刺さっている。痛々しい光景に私は思わず目を細めた。

 生きているのか死んでいるのかも分からない彼の傍に歩み寄ると、膝を折ってしゃがみ込み、その背中をそっと撫でた。……温かい。微動だにしない体が熱を帯びていることに不思議な感覚を覚えた。そう言えば学部の新歓で調子に乗って飲み過ぎた先輩を、居酒屋の座敷の上で介抱した時もこんな感覚がしたっけ。あの時はうーうーと喃語を発しながら、催す吐き気を必死に我慢する先輩の背中をさすってあげた。力の入らない肢体を持ち上げた時に感じた人間の重さ、そして温もり。少し大袈裟だけど、人間の生を感じた瞬間だった。

 それが既視感の原因だろう。私は今、清川の背中をさすりながら、彼が生きていることを実感していた。

 しかし、この出血量ではやがて命尽きる結末は避けられない。とりあえず手当てをしなければ――。


「待て」


 掠れた声が床を這った。

 私は彼の顔を覗き込み、その目がぴったりと閉じられていることを確認する。その様子をしばらく見ながら続きを待った。


「……佐々だな」

「はい」


 私は動揺を悟られぬよう落ち着いた声で答えた。

 彼の目は依然として閉じられていた。


「よくお分かりになりましたね」

「オーラ、だな」

「そうですか。まだそんな冗談を言えるなら大丈夫そうですね」

「大丈夫そうに……見えるか?」


 彼は錐の刺さった右手の指をピクリと動かした。


「全くそんな風に見えませんよ」

「……それにしちゃあ、……な」

「焦っているように見えませんか?」

「見えねぇよ、バカ」

「目、開かないんですか?」

「開くよ。どうせ視えねぇんだ、開けても意味ねぇ」


 彼の目尻に染み込んだ血の色を見て私は悟った。


「まさかこんな醜態さらすことになるとはな」

「そうですね。今の清川さん、とても醜いですよ」


 私は彼の脇腹にてらてらと不気味な光沢を放つ鮮血を見た。


「お腹を刺されて、手に杭を打ち込まれて、おまけに眼球もくりぬかれて……、まるで御伽噺に出てくる化け物みたい」

「眼球は残ってるよ、心配すんな」

「そうですか……」

「お前ならもっと驚くと思ったんだがな」

「私がですか?」

「ああ、お前ならすぐに俺に駆け寄って、きいきい金切り声を上げるかと……っ」


 彼は水に溺れたような咳をすると、嗚咽と共に血を吐き出した。


「……声を上げるかと思ったよ。お前なら慌てて飛んでくるんじゃないかってな。でも違ったな。俺の思い過ごしだったみたいだ」

「思い過ごし?」

「俺はさ、昔から電波に敏感なのよ。女特有の電波にな」

「気づいてたんですか?」

「気づいてたけどな、いま確信に変わった」


 私はゆっくりと彼の腕に指の腹でなぞった。細かい産毛が逆立っていた。


「残念だったな。こんな死に目に会うなんて」

「そうでもないですよ。これは〝人間〟になるための試練なんです」

「なんだそれ」

「いいんです。私の母の教えですから、私だけが秘めておくものです」


 清川の瞼がひくひくと痙攣して、つまようじの先ほどの小さな隙間を開けた。


「へえ、泣いてんのかと思ったが、そうでもないみたいだな」

「それ、いまどっちの眼で見てるんですか?」

「たぶん、左だ。右眼ならお前の顔が見辛ぇはずだからな」

「私が泣いてると思いましたか」

「思った。淡白なように見えて情に絆されやすいからな、お前。てっきり俺を想って涙を堪えてんのかと思ったよ」

「じゃあ、外見通り淡白なんじゃないですか。私がそれほど清川さんの事を想っていなかったっていう、それだけのことだったんですよ」


 清川は黙って、静かに口角を上げた。


「それはどうだろうな。まさかお前……、こんな状態になった俺がもう助かるとは思ってないんだろ?」


 私は彼の細い目を見つめ返した。


「アハッ、なんか言ってくれよ。俺だって死にたがりの無鉄砲じゃないんだぜ? 救ってもらえる命なら救ってほしい。こんな能無しのどうしようもない奴――、しょうもない人生を送ってきた馬鹿野郎だけど、これでも人生に悔いはある」

「悔い?」

「一輪の花に愛されなかったことだ」


 目尻の乾いた血に涙が混じって淡い粉紅色の筋がこめかみを伝った。


「俺の目の前には幾つもの花があった。俺は全て手に取った。しばらくそれを眺めて、飽きたら捨てた。そんなことの繰り返しだった。でも一輪だけだ、自分が愛した……に俺は愛されなかった。辛いもんだ。何たって。よりによって、もう、何が何だか、俺は、いったい、なんのために……っ」


 涙の声音を喉の奥で必死に噛み殺す。体の細かい震えに振り落とされるように次から次へと雫の涙が床に落ちていく。


「佐々……! 俺は醜い! 自分の愛した者を愛し通すことができない、愚にも付かない人間の屑だ! いつか未来は変わると思って、現在いまをないがしろにした! 過去なんてどうでもいいと思っていたから、現在いま、死を突きつけられている! 自分の事がどうしようもなく嫌いだ! 死んで当然だと思っている! でも……! 誰かに……、誰かに認めて欲しいんだ……、せめて、俺が自分の人生を悔いていたことを……、これが清川湊の望んだ人生じゃないことを認めて欲しいんだ……!」


 その時。動かないはずの彼の手がグッと私の腕を握った気がした。


「佐々、頼む! 俺は……!」


 私は見えない彼の手から逃れるようにそろりと自分の手を持ち上げ、彼の頭を撫でた。


「分かりました」


 ふと彼の顔が緩んで穏やかな顔に変わった。


「……ありがとう」

「清川さん」

「何だ」

「私の頼みも聞いてもらえますか?」


 清川は私の言葉を待っていたと言わんばかり失笑した。


「いいよ」

「貴方をこんな目に遭わせた人は誰ですか?」

「それ……、だろうな」

「はい」

「無理だ」

「はい?」

「俺はお前の事なんかこれっぽっちも知らねぇし、お前が今後どんな人生を送るのかも興味がねぇ。でもな、俺の言葉一つで人の人生が変わっちまうってんなら話は別だ。死ぬ間際になってまでこの世の面倒にはなりたくねぇ」

「それはもっともですね」


 私は顔を上げ、何もない壁を見つめた。


「それは〝人間〟になるために必要なことか?」

「……どうなんでしょう。母はそこまで教えてくれませんでした」

「そりゃそうだろうな。親が勧めるもんじゃねえだろ」

「でも、清川さんならどうします?」

「……」

「人間なら大切なものを奪われたら取り返したいと思います。それが形を伴っていても伴っていなくても、確かに自分の心の中には存在しているものだから。奪った相手にとって取るに足りないちっぽけな存在であっても私は取り返したいと思います。自分が……、自分がそれを愛すと誓ったなら!死んでも取り返したいと思う!」

「……」

「初めて好きになったから……、この人なら愛せると思ったから! 愛したいと思えたから! 自分の中で決めたことだから、絶対に突き通したいと思う! 人間なら絶対にそう思うでしょう! その想いを踏みにじるなら、私はその人を――」


 吸った息が僅かに震える。吐き出した息に熱がたぎる。


「殺したいと思う」


 手に力が入る。床についた指がフロアマットを削るように引っ掻いた。


「……なんて似合わねぇ事を口にすんな」

「清川さん、私は本気ですよ」

「お前はお利口さんやってりゃいいんだよ。それで人生は面白いほど上手く回る。結局、周りで成功してる奴はみんなお前みたいな奴だよ。誰もが羨む幸せな生活を送れる。それでいい。お前にはそういう生活を送って欲しい。草葉の陰からそう願うよ。でもな」

「私の人生なんてどうでも良かったんじゃないんですか?」

「まあまあ、最後まで聞いてくれ――確かにそれは幸せな人生かもしれない。お前の両親は喜ぶし、友人はいつもお前の傍についている。他人から見た順風満帆の生活だ。〝人間〟の尺度で言やぁ最高の人生だろうな――でもお前の尺度ではどうなんだ?」

「私の尺度……」

「人生のマイナスをプラスに変える。それが俺の尺度だ。でもこういう考えもある。将来のプラスのために、いま敢えてマイナスを知る。それも一つの尺度だと俺は思う。お前のお袋が言った〝人間〟になるためにはどの尺度で物を考えればいい?」


 死してなおその者を愛せるか、それが〝人間〟になるための試練だった。自分の幸福という点で考えた時、試練を越えるためにその尺度は不必要だ。なぜならその試練を受けると決めたその時から私は自分の幸福を願っていないし、他人の目から見た幸福を気にする必要がない。


 そんなものは要らないのだ。


「……駄目か」


 私の決意した目を見て、返事を待たずに鼻息を漏らした。


「最期に年上らしく説教じみた事を言ってみたがな。お前、本当に頑固なんだな。落とすのに苦労したはずだよ」

「落ちてないです。私から好きになったんです。清川さんは関係ありません」

「物はいいようだな」

「清川さん」

「あ?」

「実際、私のこと、どう思っていますか?」


 しばしの沈黙があって彼がもう動かない表情筋で笑いを必死に堪えていることに気付いた。私は落ち着かなくなって咳払いをした。


「期待はすんな」

「そう、ですか」

「佐々……、文乃……、ああ、やっぱ駄目だな」

「何がです?」

「花の名前が入ってないんだよ」


 彼は自嘲気味に笑った。


「俺と縁のある女は全員、花の名前が付いてんだ。残念ながらお前にはない。どうしようもなく馬鹿らしいと思うだろ? でもこうなった今、俺はそれを身に染みて理解するようになったよ」

「花の名前、ですか。清川さんにこんなひどい仕打ちをしたのも、その花の女のせいなんですね」

「……はあ、ホントに鋭いのな、お前」

「その花は何ですか?」

「答えるわけねえだろ」

「季節だけでも教えてください」


 清川はしばらく憂慮した後、土俵際で競り負けた力士のような気の抜けた表情をした。


「……春だ」


 そう、なのか。


 つまり――、彼を殺した花の女は〝椿〟だ。


 簡単に答えを教えてくれるとは思っていなかった。最早、遠回しに言葉を選ぶ余裕もなくなったのだろうか。


「分かりました」


 私は立ち上がり、そして身を屈めて、ゆっくりと彼の顔を覗き込んだ。

 憎らしいほどすました笑顔だった。名の通り、清らかな顔をしていた。


「清川さん」


 返事はない。


「清川さん?」


 私は沈黙の中に彼の死を理解し、静かに涙した。


 震える声で、「ササも花を付けますよ」と呟きながら――。

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