#89 Adversity
「清川……!」
零れた言葉が身を切る風の音に紛れて消えた。名残惜しい。後ろ髪を引かれる思いを抱きながら走り続ける。本当は、立ち止まって、振り返って、その声をもう一度聞きたい。私は自分の知らない自分がそこにいるような気がした。清川……、いや、清川湊さん。私は初めて恋をしています。貴方に、恋をしています。
私はこれまで大人を気取って達観しながら自分の人生を遠望していた。そこに恋という道筋はなかった。しかし、なかった、のではなく、私が見なかっただけだ。確かに存在していたのに目が悪いフリをして見ようとしなかっただけだ。ぼんやりと浮かぶ曖昧な存在を視界の隅に追いやって真実を分かった気でいただけだ。感情は常に喜怒哀楽を司る。喜んでいるようで怒っていることもあれば、楽しんでいるようで哀しんでいることもある。感情を操りながら、時に感情に呑まれる。他人には分からないはずの秘められた感情が露になることもあれば、全く理解してもらえない感情もある。それでも人は逞しく生きていく。感情と上手く付き合っていきながらこの世を謳歌する。
恋という狂乱の道はその最たる例だ。喜怒哀楽の全てが備わっている。恋は人の道といえよう。
だから私は今日、初めて〝人間〟を覚えた。
――周りの人間はそんなあなたを嗤うかもしれない。
母の言葉が脳裏をよぎる。
――でもね、それでも自分の進むべき道を選んだ時、あなたは本当の〝人間〟になるのよ。
「清川……!」
手すりに指をひっかけながら階段を駆け降りる。踊り場に踏み込んだ足に力を入れひと踏ん張りしてから、身を投げ出すように階下に飛び移った。足の裏にずっしりと重さを感じながら、左右を見渡す。人影はない。が、左から気配がする。独特の生ぬるい空気が感じ取られる。この先に、清川がいる。
激しく音を立てる心臓の鼓動を鎮めるため敢えて足取りを遅くする。ゆっくりと、一歩一歩を踏みしめていく。廊下に敷き詰められた臙脂色のカーペットの中央を、色褪せた帯が続く。私はその上を歩きながら必死に心を落ち着かせる。きいん、と耳鳴りがした。向かい風に晒されすっかり冷たくなった耳殻とじんわり熱が込み上げてくる鼓膜のギャップの中で、シャッターを閉めるように唐突な耳鳴りが外界の音を遮断する。私はしばし瞳を閉じて、耳鳴りの音が遠ざかっていくのを待った。
清川には人間になれた真の自分を見て欲しい。その目で視線を交わし、言葉を交わし、互いに打ち解け合い、あわよくばそんな自分を受け入れて欲しいと願っている。それは恋往く道の当然の帰結で、誰もが望む最高の終点だ。私は立派な人間で、もう人並みの感覚を持っているのだ。だから早く清川に会いたい。彼に認められたい。もう一度、彼と――。
見たくないものを見てしまった時、眼を覆う。両手を眼の前に運んで視界を遮る。あるいは身をよじって視界そのものに映す景色を変える。それは人間として当然の反射行動で、人間になったと豪語する人間ならば、その反極にある行動をとってはならない。喜怒哀楽の組み合わせを違えてはならない。社会的動物である人間は時々の局面に即して巧みに感情を組み合わせる。だから決してそれを違えてはならない。違えた時、それはとうに感情が崩壊していることを意味するからだ。
血にまみれ横たえる清川を見たならば、私の表の感情は「哀」だ。誰の仕業だ、とふつふつと込み上げる感情。そうした裏の感情は「怒」だ。これならとても一般的であるし、人間ならそうでなくてはならない。一本隣の道に外れたい酔狂な人間なら裏の感情は「喜」だろう。彼の死に目を見ることが出来て大変喜ばしい、これで積年の恨みが晴れた。そういう人間もいるだろう。だが私の場合は違う。裏は「怒」でも「喜」でもない。
――本当の〝人間〟? どういうこと?
母に難しい話は似合わない。私は一笑に付した。
――自分が恋した相手を何が何でも最後まで愛せる自信はある?
――いや、だから恋愛したことないんだって。
――例えばの話よ。どう?愛せる?
――さあ? 何でもそこまでこだわりを持ったことがないから分かんないけど、多分愛せないと思うなあ。
――へえ、愛せないんだ。
――何?じゃあお母さんはどうなの?お父さんのこと死ぬまで愛せるの?
私は悪戯めいた調子で口角を上げた。
――どうかな……。
母の眼の奥が深さを増す。
――え?何?離婚とかしないよね?
――しないわよ。文乃もまだまだ子供なんだからそんな無責任なことしない。離婚だけはしない。それだけは絶対約束するわ。
――でも、それってつまり恋愛感情はないってこと?
――この歳であることの方がよっぽど変よ。夫婦がいつまでも仲睦まじいなんてのは幻想だって、そういうの、文乃はもう知ってる年でしょ?
――知ってるも何も、お父さんとお母さんの態度見てたら自然と気づくよ。
――嘘、バレてた?
母は舌を出し、気まずそうに引っ込めた。
――まあ、でも結婚はまた別ね。恋することとは全く違う。
――ホント?何かはぐらかそうとしてない?
――本当よ。〝人間〟になるのに結婚は必要ないのよ。
――またそれ……、なんなの〝人間〟になるって。
私がわざとらしく溜息をついても、母は表情一つ変えず、ただじっと私を見ていた。
――お母さん?
――私は野々山蒼汰くんに恋をしているの。
――ああ、これから見に行くアイドルの……。
――そう、私は野々山君だったら絶対に最後まで愛せる自信があるの。それだけは胸を張って言えるわ。
――ファンの情熱ってすごいね。
――でもファンの垣根を越えてまで彼を自分のものにしようとは思ってないの。それは理性が働くから。自分には家庭があって、社会的に許されない立場にいるっていうね、倫理的な考えが働くのよ。
――それはそうだろうね。私も近所に白い目で見られるし、お父さんも会社にいけなくなるし。
――だから彼が誰か他の女性と結婚しても残念に思うけど、執着はしないと思うの。むしろ幸せな家庭を築いて欲しいって思う。それは本当に彼の幸せを願ってるからよ。
母はこざっぱりとした性格で――それがたまに憎らしいのだが――粘着質という性格ではない。きっと次のアイドルに鞍替えするのだろうと思う。
――でもふと考えるのよ。彼がもし死んでしまったら……ってね。
びゅおっと大きな風が吹いて母の髪がメデューサみたいに逆立った。
――何?どういうこと?変な冗談やめてよ。
――冗談じゃないのよ。本当に彼が死んでしまった時のことを考えるとね、私はきっとそれまで以上に彼を愛せてしまうの。
――なんで?だってもう死んじゃったんでしょ?
――違うのよ、文乃。自分は試されてるって思わなきゃいけないの。恋する相手がいなくなっても情熱を注ぎ続けられるのかどうかを、試されてるの。その試練の厳しさに耐えて、乗り越えて、初志貫徹――永遠の愛を誓い通した時に貴方はようやく一人前の〝人間〟になれるの。
――そんなの……、よく分かんないし。たぶん私には無理。期待しないで。
母はゆるゆるとかぶりを振る。
――今はそれでいいの。試練が来れば直に人生が楽しくなるわ。
「楽」、それが裏の感情だ。
私はいま正真正銘、本当の〝人間〟になろうとしている。かつて右から左に流していた母の世迷言が、一つ一つ段階を追って金言に成っていく。その感触が妙に心地よくなって、私はつい頬に笑窪を作りながら口を開いた。
「清川さん……ですか……?」
廊下の真ん中でうつ伏せになっている金髪の男、その周りには臙脂より赤黒い血だまりが出来ていた。
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